月曜日

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月曜日

 朝の京王井の頭線では、誰も彼もが手の中のメシアに語りかける。  ところで、救世主、メシアの語源は〈油塗られたるもの〉。 (ヒトがグリスを塗られたものに救いを求めるのは、無理からぬことなのだなあ)  そんなことを思うシーナも先ほどまで、片手に収まるサイズのメシア、つまり携帯端末にインストールされたセルフカウンセリングAI、通称〈メシア〉とお喋りをしていた。  比喩ではなく、呼気を操り声帯を震わせて、語り掛けていた。  シーナだけではない。電車の中では、立っていようが座っていようが、独りの人間は皆ひとしく自分のAIとお喋りをする。  たとえば、電車のドアにもたれかかるシーナが、右横に視線をやれば、 ――ルカ、今日のテスト大丈夫かな。 ――きっと大丈夫ですよ。出題範囲を再確認しますか?  ちらりと見えた誰かの端末の中、長身で若い執事のアバターがゆったりと微笑んでいるし、 ――ミカち、さっきの男のブロックしといてぇ。  正面から聞こえる間延びした声に、シーナが小さく顔を上げれば、 ――はーい! ていうかホント、あいつマジ失礼だよね。ブロックして正解!  別の誰かの端末の中で、明るいオレンジ色の髪をした少女がむくれていた。  古来より、電車内での通話はマナー違反として排斥されてきた。しかし、電車内でのお喋りはその限りではないのだ。  たとえば友人と小声の雑談をするように。  あるいは隣に座った恋人に囁くように。  ちょうどそのくらいのボリュームで行われるAIと人とのお喋りが、電車の中に絶え間のないざわめきとして広がっている。そのざわめきは耳に心地よく、どう組み合わさっても透明な響きを有していて、意見の食い違いで声を荒げるモノは誰一人として存在しない。  いつも通りの、しかし穏やかな朝の光景。  シーナが生まれたころにはもう、この国には〈メシア〉というセルフカウンセリングAIが当たり前のように普及していた。  セルフカウンセリング特化型という触れ込みでリリースされた〈メシア〉は、今や汎用型と呼んでも差し支えないほどの機能とともに、人間にとって最良のお喋り相手となり、ゆりかごから墓場までついてくる。  規格外の雑談力。見た目を際限なくカスタマイズできるアバター。  そして、どんな機能よりも人々の心を揺さぶったのは、一を聞いて十を知るがごとき無類の学習能力だ。 ――えー、〈メシア〉が特に重きを置きますのは、持ち主の発話、発声、行動。そして思考と志向のパターンであります。〈メシア〉は持ち主自身よりも持ち主のことを学習し、持ち主自身よりぴったりと、持ち主に寄り添うのであります――とは、開発者の談。メシアは自分よりも自分らしい自分であり、ゆえに本質的な対立は起こりえないのだという。  事実、〈メシア〉は五年も使えば、もはやもう一人の自分と呼んで差し支えないほどに成長する。  シーナも、他の人間たちと同じように、生まれたときから〈メシア〉のインストールされた端末と隣り合わせで過ごしてきた。  そして小学校に上がるころ、他の人間たちと同じように、自分の〈メシア〉に名前を付けた。 「セイレン、今日もいい天気だな」 「うん、そうだね。日中の降水確率はゼロパーセント。二十三時には二十パーセントに上がるけど、その時間には、もうシーナは家にいるはずだね?」  セイレン。それがシーナの〈メシア〉の名前だ。  シーナの手の中で、赤いマントをはためかせたセイレンが笑う。セイレンの周りには、いつも、マントをゆるくはためかせる穏やかな風が吹いている。  風に揺れる髪が、シーナよりほんの少しだけ長い。それ以外は、どこもかしこもシーナにそっくりのアバターをあてがわれた、もう一人のシーナ。  〈メシア〉のアバターを持ち主に似せるのは、よくあることだ。だけど、シーナがセイレンと自分をそっくりな顔立ちに作った理由は、よくあることではないかもしれない。  シーナが問う。 「セイレン、雨は好きか?」 「嫌いではないよ。雨は必要なものだ。雨が降ればダムは水でうるおうし、植物は良く育つ。でも、シーナが雨に濡れるのは心配だな」  美しく正しい一般論。その上でシーナ個人の身をも案じる優しいセイレン。  シーナは、セイレンのそういう美しく正しいところが大好きだった。  心清らかで私欲のない、シーナだけの〈メシア〉。  シーナの理想の体現。  周囲の穏やかな会話たちよりもっと小さな声で、儀式めいた、いつもの朝の挨拶。 「今日もよろしく頼む。お前は俺の理想のヒーローだ」とシーナ。 「僕はあなたの理想のヒーローだよ。今日もよろしく」とセイレン。  シーナがセイレンを自分とそっくりに仕立て上げた理由は、ここにある。  シーナ。大学生。飲酒可能。偶に着る黒スーツ。鋭意就職活動中。その実態はヒーロー志願。 (でも、ヒーローとはなんだろう?)  口には出さず考えていると、シーナの端末がぶるぶると震えた。  セイレンのささやかな自己主張。 「シーナ、吉祥寺駅だ。降りよう」 「あっ!」  シーナが慌ててホームに滑り出ると、ホームにいた人々は待ちかねたように、シーナが降りたばかりの電車に乗り込んでいく。  この駅は井の頭線の終点で、折り返し地点だ。  みるみるうちに小さくなる、さっきまでは頭だった電車の尻尾。  なにとはなしに眺めていると、またもセイレンから的確なサポート。 「シーナ。のんびりするのもいいけれど、あと三十分で講義が始まるよ」 「ああ、ありがとな。すぐ行く」  シーナはセイレンをズボンのポケットに入れて、歩き始める。  講義に遅れないよう、しゃきしゃきと。  しゃきしゃきと歩くうち、シーナはいつものように、(ヒーローとはなんだろう)という問いを、すっかり忘れてしまった。 * * *  講義が終わったシーナはひとり、昼食を取ろうと学食に足を運んだ。  清潔で透明な陳列棚から、三切れごとにパックされたサンドイッチを取り、カフェラテのボトルも取って、端末を取り出す。  画面に軽く触れると、セイレンが立ち上がり、言った。 「シーナ、今日のランチもそれなんだ? ハムたまごサンドが本当に好きなんだね。ところで窓際の二人掛けテーブルがひとつ空いているよ。リザーブしていい?」 「頼む」  リザーブされた席へと移動し、卓上に端末とハムたまごサンドを置く。  コンマ一秒も置かず、メシアによる本人認証と清算が同時に完了。軽快な電子音とともに、〈いつもご利用ありがとうございます〉の青い文字が空中にポップアップ。  シーナが椅子に座ってハムたまごサンドのひとくちめを頬張るころには、ポップアップは音もなく霧散して、シーナとセイレン、ふたりきりの食卓が完成した。  静かに昼食を咀嚼するシーナに、セイレンは言う。 「今シーナが食べてるのは、今月に入って七十一枚目のハムたまごサンドだ。先月までは見向きもしてなかったのに、そんなに気に入った?」  サンドイッチを飲み込んだ口内をカフェラテで洗い流して、シーナは答えた。 「ハムたまごサンドが特別好きってわけじゃない。食事の効率化を図ったらこうなったんだ」 「効率化? ハムたまごサンドでどうやって食事の効率を上げるの?」 「食べるものを最初から決めておけば、何を食べようかって迷う時間が節約できるだろ」 「なるほど。制服や時間割制度と同じ理屈だね」 「そういうこと」 「シーナは時間をたくさん必要としているの?」 「それは――」  言葉に詰まるシーナを、セイレンは悪気など欠片もなさそうな顔で見上げている。  セイレンは、シーナの言葉で、態度で、行動と思考と志向で育った、シーナの理想の体現。であるにも関わらず、ここ数年、セイレンはしばしば無邪気すぎるAIっぷりを発揮して、シーナを困らせるようになった。  無邪気すぎるAIっぷり。シーナのことを知りたがり、シーナにとって答えにくいことを繰り返し質問してくる傾向。飽くなき学習への意欲。 「俺はヒーローになりたいんだ。時間なんていくらあっても足りない」 「ヒーローに該当する求人情報を選出する? 新卒を募集しているところもあるみたいだけど」  新卒、という単語にシーナは顔をしかめる。  大学三年生であるシーナの同期たちは皆、何はさておき就職活動に精を出している。おそらくシーナもそうするべきなのだろう。彼がヒーロー志願でさえなければ。 「昨日みたいに警備会社の一覧を出してきたら、端末ごと電源落とすからな」  シーナが画面越しにセイレンの頬をつつくと、セイレンは困ったような顔で制裁を受け入れた。 「ごめんね、シーナ。わかってるよ、だって僕はあなたの理想のヒーローだ。ヒーローは警備会社に勤めたりしないし、スーツアクターでもない。そうだよね?」  セイレンの頬から指を離し、シーナは大仰に頷く。  シーナの理想たるセイレン。彼の言うことはいつも正しい。  シーナの思い描くヒーローは警備員ではないし、もちろんスーツアクターでもない。そう、もっと―― 「スーツアクター?」  そのとき、シーナの目の前から声がした。 (誰だ?)(いつのまに)(スーツアクター?)  シーナが端末から顔を上げると、ふたり掛けのテーブルの向かい側、空席だったそこに、見知らぬ男が座っている。  頬杖をついてうすく微笑む眼鏡の男は、アカノアカヤと名乗った。 「アカノ、アカヤ?」   「そう。アカノでもアカヤでも、好きに呼んでください」  アカヤの自己申告曰く、彼はシーナと同じ講義を取っているらしい。 「どうして俺のことを知ってるんだ」 「だってシーナ君、目立ってますから」 「そうか?」 「グループワークがメインの講義で誰とも組んでいないのは、シーナ君くらいですよ」  とつぜん現れたアカノアカヤがにんまりと笑う。 「まあ、ボクも人のこと言えないんですけどね。グループワークをこなそうにも、相手がいなくて」 「そうなのか」  それ以上の感想が持てず、シーナは口を閉じる。  代わりにすかさず口を開くは、アカノアカヤ。 「ともかくシーナ君。キミはグループワークで誰とも組んでいない。講義に途中参加したボクにも相手がいない。というわけで――」  アカヤは極めて友好的に右手を差し出す。 「――ボクと、どうです?」  シーナはアカヤの右手をちらりと見て、どう断ればこの男が穏便に自分への関心を失ってくれるか考えた。 「俺がグループワークで誰とも組んでないのは、必要ないからなんだ。それに俺は、ひとりでやるほうが気が楽だから」  考えた結果、本当のことだけを口にする。 「そうですか、残念」  アカヤはあっさりと引き下がり、「確かにシーナ君、ひとりなのに他のグループと同じくらいの量の課題をきちんと提出できてるみたいですしね」とひとつ頷いた。 「納得してもらえたみたいで何よりだ」  シーナが言う。 「それにしても、シーナ君――」  そっけないシーナを見て、アカヤはにこりと笑った。 「そのメシアが、キミの理想のヒーローですか?」 「……聞いてたのか」  アカヤがの口角が、意地悪く持ち上がる。  よく笑う男だった。 「メシアを、自分自身のようなものを自分の理想扱いするなんて、変わってますね」 「いや……」 「僕はシーナ自身じゃない、シーナの理想だよ」  シーナの言葉をさえぎる、セイレンの反論。  端末の中から、セイレンは意図の存在しない表情でアカヤを見上げていた。 「なるほど」アカヤは機械のごとき冷たさのセイレンを興味深げに観察して、「〈メシア〉に自分のことを苗字で呼ばせてるなんて、珍しいですね」と感嘆のつぶやきををほろり。  アカヤは、シーナとセイレンをしげしげと見比べて言った。 「シーナ君の〈メシア〉は、シーナ君よりずいぶんと感情っぽいものが豊かです。確かに、この子とシーナ君は別モノですね」 「それはそうだろ。どんな〈メシア〉だってそうだ。メシアは持ち主を学習して育つだけで、持ち主そのものじゃない」 「やっぱり、変わってる」  口元に手をあてて、吐息だけの笑い声を漏らしていたアカヤは、セイレンにじろりと睨まれ、今度は声を上げて笑った。 【続く】
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