転(17)叱咤

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転(17)叱咤

 音が… 聞こえる…  水の音… ひしゃくですくう音… 容器に流し込む音…  食器の音… 満たされた水面に入れられる音… 互いにぶつかり合う音…   布巾の音… 絞って水滴が落ちる音… 食器を拭く音…  誰かが… 洗い物をしている…  誰が… 誰だ… そこにいるのは… 誰…?  音が… 聞こえる…  鈴の音… くくられた腰のベルトでリンと鳴る音… 小気味良く響く音…  ああ… これは… この音は……  ウェンディ母さんの音だ…  音だけじゃない… 気配を感じる…  ウェンディ… 母さん… そこにいるの…? 「起きなさいザックちゃん。そんなところで眠ったら風邪を引いてしまうわ」  可愛くて… 初々しくて… 愛らしい… 少女の声…  ウェンディ母さんの声だ…  ダメだ… 体が動かない… まぶたが開かない… 口は……辛うじて動くようだ…  せめて意思を伝えねば… 必死に口を動かして… 言葉を発する… 「イヤ! ねむいの!」  あまりにも幼い声… 自分の声とは思えない… 困惑…  いや… 違う… 紛れもなく自分の声… 幼き甘えん坊だった頃の… 「ダメよ。さあ、起きて。ベッドに行きましょう」  可愛らしい手が肩に触れ 優しくゆすられる…  動け体! 開けまぶた! 母さんが… ウェンディ母さんが… そこにいるんだぞ! 「起きなさいザックちゃん。起きて。起きてよ」  ウェンディ母さんの手に力が入り、ゆする力が強くなる。  だけど体は動かない。まぶたも閉じたままだ。  起きろ! 起きろ! 起きるんだ!  だけど眠い… 眠くて… 眠たくて…  すると………!!  優しくゆする手が離れたかと思うと、いきなり両手で顔を掴まれ、指でまぶたをこじ開けられる。 「起きろやっ!!」  さっきまで美少女だったはずの人が、鬼の形相と化し、目の前で睨み付けていた。 「うわぁぁぁ!!!!」  情けない悲鳴を上げながら、ザックは意識を取り戻す。  辺りを見回せば、そこは"ひみつきち"の食堂だ。  夢か幻か、あまりにも生々しく存在を感じたウェンディ母さんは…、やはりどこにもいない。  何が…… どうなってる……  ザックの意識が戻ってくると共に、体の感覚も戻ってくる。  最初に気付いたのは血の味だった。口内が血だらけなのだ。鋭利な異物を舌で感じ、思わずテーブルに吐き出す。  血だまりの中に鎮座するそれは、小さな容器が砕けて出来たガラス片のようだった。一体何なのか。  確かめようと右手を動かした途端、今度は親指と人差し指に激痛が走る。見ると二本の指が千切れかけていた。  血まみれの口内に、千切れかけた指。意識を失っている間に何が起きたのか……。  だが、考える間える間もなく、第三の異変が始まる。  千切れかけていた指がジワジワと治り始めたのだ。同時に口内の傷も治り、出血も止まってゆく。  通常ではあり得ない奇跡を目の当たりにして、ザックはようやく理解した。 「助かったぜ。マンモス坊や…」  ザックはマンモスの別れ際に、アンプルを貰っていた。キュベリから喰らった毒で意識が朦朧とする中、懐からアンプルを取り出し、アンプルを指ごとかじったのだ。アンプルの中身は、超回復薬"ソーマ"の粗悪な模造品。裏社会で流通するまがい物だが、キュベリの毒を中和させ、傷を治す程度であれば十分な効果があったようだ。  そして回復効果が脳まで達したか、キュベリとの会話も鮮明に思い出してくる。 「あの野郎…。マジか。マジなのか。マジで部下を丸ごと……始末したって言うのかよ」  キュベリは確かに言った。マンモスを含め部下を全員入り口に待たせ、爆殺したと。  確かにキュベリには狂犬のような残酷さがあった。だがその狂気は、敵や女や裏切り者に対してのみで、味方には決して向けたりはしない。ましてや可愛い部下には尚更だ。  何が狂わせた。何がキュベリを……?  そうか。ケモノビトか!!  ジェイクの言動があまりにも常識的だったので、ザックは考えないようにしていたが、ジェイクも出会い頭にザックを殺そうとしたのだ。2人とも狂気に陥っていると考えて間違いない。  "商品"を"モナカちゃん"と呼び、自らを"にぃに"と名乗る。  "モナカちゃん"を守るために手段を選ばない。そして"モナカちゃん"を独占しようと、大切な仲間すら殺す。  なんて狂気。なんて呪いだ。  どうすれば呪いが解ける? どうすれば二人を救えるんだ?  殺るしかないのか…。ケモノビトを…。"モナカちゃん"を…。  ザックは苦悩する。何十年と殺し屋を続けてきたザックだったが、幼い子供を手にかけたことは、まだ一度も無かったのだ。  そしてようやく、ザックは最も重要な問題を思い出した。 「キュベリ……。そうだ。キュベリはどこへ行った? オレはどれくらい意識が飛んでたんだ!?」  考えるまでもない。ジェイクのいる最下の大広間だ。そしてどれだけ時間が経過したか分からない。  このままでは、二人がぶつかり合うのは必至だ。急いで止めねば!  慌てて立ち上がったザック。だが……  そこに激しい頭痛が襲いかかる。例えるならそれは、安酒の飲み過ぎでなった二日酔いを十倍にしたような苦しみだった。  マンモスから貰った"偽ソーマ"が、粗悪な模造品と呼ばれる由縁である。  頭を押さえながらも歩みを勧めるザック。  間に合え! 間に合ってくれ!  ザックは初めて、神に祈った。
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