コウエキセイ

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 呼び鈴が鳴った。 「誰だろね、こんな時間に」  立ち上がって玄関に向かう妻の大きな尻が揺れる。すっかり母親になってしまったな。 「あ、あなたっ」  悲鳴に近い叫び声が響いた。なにごとだ。慌ててビールのグラスを倒してしまったがそれどころではない。廊下を走って玄関に行くと、開けっ放しの扉の前に黒服の男が立っていた。足許で妻が泣き崩れている。 「どうも」男はニコリともせずに頭を下げる。「娘さんのパンツをいただきに上がりました」  はっ? 何を言っているんだ、こいつは。声を失っている私の脇を通り、男は土足のまま家にずかずかと入ってきた。 「おい!」  男の肩に手を伸ばす。しかし私の手は黒い背広をすり抜けて空を切った。男が振り返る。その目はどこにも焦点が結ばれていなさそうなのに、肉食獣に見竦められた気がして怖気立った。  娘が危ない。十歳の京子が男に蹂躙される映像に頭を奪われた。私の怯えを見透かしたのかどうか、男は一瞬悲しそうな目をして踵を返し、奥の部屋へ歩いて行く。 「京子、逃げろ」  叫び終わらぬうちに、奥の部屋で寝ているはずの娘の爆ぜるような泣き声が耳を突いた。草食動物の俊敏さで寝室に駆け寄ると、布団から引きずり出され、こぼれたビールの上に転がり必死でパンツを掴み、脚をばたつかせて抵抗している娘がいた。男は無表情で娘のパンツを握り剥ぎ取ろうとしている。餅のように引き伸ばされた木綿のパンツを見て呆然とした。  直後、我に返ると怒りに突き動かされて全力で男に体当たりを……したはずだったが、向こうの壁に肩をしたたかぶつけてしまった。 「いったいなんなんだ、おまえは」  痛む肩を押さえて声を振り絞る。 「コウエキです」  どこか諦めたような声色だ。 「何でこんなことを……。一体何のために」 「コウエキです」  片手に娘の濡れたパンツをぶらさげて、男は言った。床では娘が座り込みシャツを目一杯降ろして泣きじゃくっている。裾から白い尻がのぞいていた。 「世間は娘さんのパンツの柄に関心があるんです」 「ふざけるな」  世間の関心とか関係ない。私も妻ももちろん娘もそんなことを知られたいとは思っちゃいない。そう思い奥歯を噛みしめる私の脇を疾走するものがあった。妻だ。手に包丁を握っている。  妻は男に体ごとぶつかった。だがやはりすり抜けて柱に当たり、折れて跳んだ刃が妻の頬を切った。妻はなおも折れた包丁を振りかざして男に切りかかる。 「やめろ」  私は力なく妻を抱き寄せ制止した。 「おれたちの声はこいつには届かない」 「一体どうしたんですか」  玄関から声がした。声の方を見ると、隣の奥さんが目を見開いて立っている。妻が包丁を投げ捨て、玄関に走った。 「奥さん、たすけて。たすけてください」隣人の脚に縋って泣いている。気丈な妻のこんな姿を見るのははじめてだ。頬から流れる血で隣人のズボンが赤く染まる。  男がゆっくりと歩き出した。手にさげた花柄のパンツから雫が滴る。仄かに尿臭が漂う。 「くそ!」  無駄だと知りながらも男の背中を追い、繰り返し殴り蹴る。しかしすべては宙を舞い、奇妙な踊りをしているようだ。自分の滑稽な動きの一挙手一投足が、私の精神を削り取る。 「あなた、誰ですか」  隣人が詰問する。 「コウエキです」 「何がコウエキだ。娘のプライバシーはどうなるんだ」 「プライバシーよりもコウエキが優先です」  男の目がはじめて私を見た。憐れむような視線だ。 「人の好奇心は最大のコウエキです。あなたにも心当たりはあるでしょう」 「あら、そうなんだ」  隣の女が目を輝かせて男を見る。 「コウエキのためだったら仕方ないですわね。お気の毒ですけど」  足許ですすり泣く妻に半笑いで言う。 「わたしはそんなこと興味ないんですのよ。でも世間がそうだったらね」男の手のパンツを凝視しながら唇を舐めて言った。「どうしようもないですわよ」  男は頭上に娘のパンツを掲げて、玄関を出て行った。  誰にも知られたくないパンツの柄を、コウエキなどという実体のないもののために町中、国中に晒される娘の屈辱を思うと、怒りと無力感とが溢れ出す。  こいつがそのコウエキの一端を担っているのか。口許をうずうず震わせている隣人の好奇に満ちた顔を見ると、遣る方のない憤りが湧いてきた。 「おまえみたいな奴らがいるから」  怒りにまかせて女に殴りかかった。しかし私の拳が届く直前に、妻が後向きに立ちはだかった。すんでに止めた拳が妻の黒髪を薙ぐ。  妻は熊が威嚇するように両手を挙げると、勢いよく振り下ろした。女の驚いた顔の下で、指がブラウスの首に引っかかりボタンを飛ばした。  女の胸が露わになった。垂れた乳は右側が少し大きく、大きな乳輪と乳首は黒ずんでいた。けたたましい女の悲鳴に近所の人々が集まってきた。誰かが通報したのだろう、パトカーがやってきて妻は現行犯逮捕された。  なぜ娘のパンツはよくてこいつの乳はだめなんだ。同じ辱めなのに納得がいかない。私は警察官に詰め寄った。  若い巡査は鼻で笑って言った。 「あんなもの誰も見たくないでしょ」  遠巻きに眺める近所の人々が、こそこそと囁き合っている。 「娘さんのパンツ、花柄なんですって」                         <了>
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