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1.出会い
「も、もう、だめ……です」
とある街の、人通りの極めて少ない路地裏にて。行き場を失った子狐が今、疲労と空腹に耐えきれず、ぶっ倒れかけていた。
「おなか、すきすぎて……。動けません……」
どうにかして立ち上がろうとするも、やがて力尽き、ぐったりと横たわってしまった。ぐるぐると目を回し、ぐきゅるるるとお腹を鳴らしながら。
「うきゅぅ……」
それきり、彼女の意識は途絶えてしまった。
◆ ◆ ◆ ◆
捨てる神あれば拾う神あり。
……ではなく、神様を拾う人間あり。といったところだろうか?
「きゅ?」
子狐は目覚めた。
そして、何故だかわからないけれど、暖かいお布団に包まれていることに気が付いた。
はてさて、一体ここはどこなのだろう?
確か自分は路地裏で空腹のあまり、倒れてしまったはず。それからどれくらい時間が過ぎたのだろう?
何もかもわからないままだけど、とりあえず起き上がってみることにした。お布団の外には畳が敷き詰められていて、広々としている。どうやらここは和室のようだ。一体どこのどなたのお家なのだろうか?
「あ、起きたかな?」
「うきゅっ!?」
突然人の声がして、子狐はびくんっと震えた。
警戒しているわけではないけれど、びっくりしてしまい、ふさふさな狐の耳も尻尾も逆立っていた。
そして子狐はまた、新たな事実に気付いたのだった。
「あ、あれ?」
自分の体が、違う! 何だこれは?
子狐であったはずの自分は今、何故だか人の形をしていたのだ。今の今までまるで気付かなかった。何でだろうか?
本来自分は霊的な存在で、実態があるわけでもなかったはずなのだ。それがどうして、こんな事になっているのだろう? 彼女は混乱していた。
確か、作業服を着た人々によって社が解体されてしまったとき、子狐の形になって、追い出されるようにその場を逃れたのだった。
それから行くあてもなく、街を何日も彷徨い続けた。そのはずだった。
(私。人に、なっちゃいました!?)
身長は一メートルになるかならないかくらいで、人でいうと四、五歳くらいの幼い女の子。長い髪を、小さな鈴のついた赤い紐で結んでポニーテールにしている。今の彼女はそんな外見をしていた。
そしてなぜか、神社で巫女さんが祈祷の際に着ているような、和の雰囲気を漂わせる、紅白の装束を身にまとっていた。
「あ、あのっ!」
「君は神様?」
ふすまがゆっくりと開き、眼鏡をかけた若い男性が現れて、唐突に問うた。
彼が手にしているお盆の上には、湯気をたてている丼みたいな赤いカップが、割り箸と共に乗せられていた。彼女はそれが何なのかをまるで知らなかったが、赤いなんとかで有名な、某食品メーカーが製造しているカップうどんであることは一目瞭然だった。
「そ、そう、です。……どうしてそれを?」
お兄さんの質問に、彼女は素直に白状してしまう。
「そっか。やっぱりね。お腹すいてるんでしょ? 食べて」
「え? あ、はい。ありがとうこざいます。って、あの、その……」
「うーん。狐の神様みたいだから、お揚げとか好きかなって思ったんだけど。……ああ、こんな粗末なもので罰当たりかもしれないけど。お揚げ、好き?」
「はい! お揚げは大好きです! 罰当たりだなんてそんなっ! 粗末でもないです! 本当にありがとうございます! ……そうじゃなくて、あのっ!」
「うんうん。いろいろと聞きたいことはあるんじゃないかなとは思うけど、まずはゆっくりと召し上がってくださいな。お腹が空きすぎてるみたいだから」
「……あ、ありがとうございます!」
このお兄さんは、私が考えていることを全てお見通しなのですか? まったくその通りで、まるで反論できません。恥ずかしい事に、お腹がすきすぎていて、見苦しくもいき倒れてました……。と、彼女は思った。
思いがけず人の優しさに触れ、感激する。とりあえず、ご厚意に甘えて、食べさせてもらう事にしよう。
割り箸を手に、ふーふーしてからちゅるちゅると食べるうどんは粗末どころか、ものすごくおいしかった。おあげも大きくて、おつゆがたっぷりと染み込んでいてジューシーだった。こんなにもおいしいものが、世の中にはあるものなんですねと、彼女は思ったものだ。
「おいしい、です」
「そう。よかった。……あ、そだ。おいなりさんもあるんだよ。食べてね」
「お、おいなりさんっ!? いなり寿司ですかっ!?」
それは、彼女にとって大好物な食べ物だった。さりげなく追加で差し出されたもの。きつね色をした小さな塊は、魅惑に溢れていた。
「あ、ありがとうございましゅ! いただきましゅ! う……う……。おいなりさんもおいしいぃ!」
いつの間か、嬉しくて涙がこぼれていた。おうどんもおいなりさんもものすごくおいしくて、ついぱくぱくっと食べてしまった。甘じょっぱさが口内を満たしてくれる。心の底から幸せだと、彼女は思った。
「ご、ごちそうさまでした。あのっ!」
「あ。言い忘れてたけど、お茶もあるから飲んでね。冷たいほうじ茶で良ければ」
「あ、ありがとうございます!」
お茶もまた、おいしい。これまたおいしい! ほうじちゃって、香ばしくて最高です! 熱々のうどんを食べたことにより、火照った体が冷たいほうじ茶を飲むことによって、穏やかに静まっていくようです!
って、そうじゃなくてお話を! とか思っていたら、彼の方から話題を切り出してきたのだった。
「うちからすぐそこの路地裏でね、君が倒れていたんだ。買い物の帰りにたまたま見つけてね。狐の耳もふさふさな尻尾も本物みたいだし、巫女さんみたいな服も着ているし。……すごくよく表現できたコスプレイヤーってわけじゃなくて、これは本当に神様なんじゃないかなって思ってね。勝手ながら、この部屋に運ばせてもらったんだ」
「……。はい。全くその通りです。こんな私ですが、これでも、神様と呼ばれていました」
「そっか。それがまたどうして?」
何故、路地裏でのびていたのか。彼女はその経緯を説明することにする。
「実は私は、この近くにある大きなお屋敷のお庭にまつられていた稲荷神なんです。……けれど、ある日そのお家がお屋敷ごと壊されてしまって、私がまつられていた小さな社も、一緒に撤去されてしまったんです」
ああ、とお兄さんは頷く。
「この近くで大きなお屋敷というと、津田さんのところかな? 確かおじいさんがいてだいぶ高齢で、しばらく前に亡くなったそうだけど。……そうか。それで相続が発生したってことか」
「そう、ぞく?」
「お金持ちの人が死んだりすると、財産を子供達が分けたりするんだけど、税金なんかもかなりかかったりするんだ。それで、税金対策に土地を売ったりしたんじゃないかな」
「そう、なんですか」
「つまるところ、社がなくなって、行くあてもなくなっちゃったってことなのかな?」
「はい……」
これ以上ないくらいに簡潔なまとめだった。彼女は悲しそうにうつむいた。あてもなく彷徨った結果が、路地裏での醜態だ。これからどうすればいいんだろうと悩んでいると。
「じゃあ、うちにいる?」
「え?」
唐突に、お兄さんの方から気軽に居候の立場を提案され、きょとんとする彼女。
「それとも、どこかに行くあてでもあるの?」
「ない、です……。まったく……。どこにも……」
もはやまつられもしない野良神様になってしまった。貧乏神もいいところだ。
「じゃあそういうことで。遠慮はいらないよ」
「で、でも、あの、その。ご迷惑をおかけしちゃ……」
「別に迷惑じゃないから大丈夫だよ。嫌?」
「嫌じゃ、ないです。……嬉しくてたまらないです」
「じゃ、決まりだね」
トントン拍子に物事が決まるとは、まさにこういうことを言うのだろう。
「うきゅ……。どうしてそんなに、親切にしてくれるんですか?」
「うーん。話し相手が欲しいんだ。……それにね。お耳と尻尾が可愛い。すごい可愛いから」
「そ、そう、ですか?」
「うん。可愛い」
「あ、ありがとうございます。……そんな風に言ってもらえたの、はじめてで。というよりも、人の形になったのが、はじめてなんですけど」
可愛いと言われて何だか嬉しい。彼女は笑顔になっていた。
「ああでも、神様に対して口の聞き方がまるでなっていなかった。これじゃいけないよね。改めないと。……どうか、これまでの非礼をお許しください。狐の神様」
お兄さんはぺこりと頭を下げて謝罪した。
あ、それは嫌だ! 嫌な感じの気の使われ方だ! そんなのはだめですと、彼女は強く思った。
「きゅっ!? よよよ、よしてください! 私はそんな、敬ってもらえるような尊い神様じゃないです! ご覧の通り、行き場を無くしてお腹が空きすぎて路地裏でいきだおれてたダメな神なんです!」
慌てふためく狐娘だった。
お兄さんは思う。こうして見ていると、本当に見た目相応の小さな女の子だなと。それも、とても礼儀正しい口調の。
「助けていただいて、本当にありがとうございます。その上、ご飯までいただいて。更に、このまま居候させてもらっても構わないだなんて。本当に、感謝の言葉もありません……。でも、その。私のことは神様じゃなくて、普通の人として接して頂けると……その……」
恐縮しきり。
「わかった。じゃあ、敬語はやめるよ」
「そうしてください。お願いします」
よかった。わかってくれたと、ぺこりと頭を下げる狐娘だった。
「それであの。折り入って、お願いがあるんだけど」
「は、はい。何でしょうか? 私にできることなら、何でもします!」
彼女の固かった表情が、お兄さんの一言できょとんとしたものに変わる。
「尻尾とお耳を触らせてほしいんだ。……嫌じゃなければ、だけど」
「いいですよ。そんなの、お安いご用です。嫌じゃ、ないです」
そして。ソファー上にて、彼が腰かけた。その上に、狐娘がちょこんと乗っかる。
「じゃ、触るよ」
「はい。どうぞ~」
お兄さんは、彼女の耳に軽く撫でるように触れていた。最初はちょっとこそばゆかったのか、ぴょこんと震えた。
「あ~。ふわふわ~」
「気持ちいいのですか?」
「うん。すっごく可愛いよ」
「そうですか。えへへ」
「尻尾も触っていい?」
「はい。どうぞ~」
綿菓子みたいにボリュームたっぷりの、もふもふした尻尾。
「ふさふさ~」
「えへへ~」
嫌どころか、彼女は段々楽しくなってきてしまった。
「そういえばさ」
「何でしょうか?」
「お名前を教えてもらえないかな? 狐の神様のお名前を」
「名前、ですか? ……それでしたら」
彼女はちょっと後ろ……。お兄さんの方を向いてから、こう言った。
「私のことは、狐乃音とお呼びください」
「このねちゃん、ね」
「はいっ」
「可愛い名前だね」
「ありがとうございます~」
ちりんちりんと鳴る鈴の音。かつて、大きなお屋敷のお庭にまつられていた時、よく聞こえた音。
おじいさんが時々やってきては、お供えものを置いてくれた。そして、社の前で祈った。備え付けていた小さな鈴をちりんちりんと鳴らしてから、手を合わせたものだ。それはまるで、狐さんが鳴らしているかのような音だった。
だから『狐乃音』だなと、おじいさんは何気なく呟いたものだ。ああ、それはきっと、自分につけられた名前なのだろうなと、彼女はずっと思っていた。
「あ~。ふさふさのふかふか~。可愛い~」
「あはは。喜んでもらえて、嬉しいです~」
この日から、お兄さんと子狐な神様との、おかしくもほのぼのとした生活がはじまるのだった。
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