3.大切な思い

1/1
前へ
/6ページ
次へ

3.大切な思い

 それはいつの頃だろうか?  狐乃音の目の前には、小さな男の子の姿があった。  男の子はお稲荷さんがまつられている社に現れ、目を閉じ、手を合わせて祈り、お供え物を置いてくれた。  見るからに醤油タレが染み込んでいるとわかる、おいしそうなお揚げ。それと、ちりんちりんと小さな音をたてる小さな鈴が男の子の手によって、狐形の石像に結び付けられていた。 (どなた、なのでしょうか?)  セピア色の記憶。  ――狐乃音が人の形になる何十年も前の事。  狐乃音は一人の少年と出会ったのだった。そして優しくしてもらって、狐乃音は誓った。 (貴方の事。お守りしますね)  それから、狐乃音はお庭の片隅にまつられながら、この少年とその家族の幸福を祈り続けた。  その甲斐もあってか、少年はいつしか高齢の老人になるくらい、長生きをしていたのだった。  思えば、色んな事があったものだ。 (あ。進学されたのですね。制服、お似合いですよ~)  真新しい学生服に身を包んだ少年を見て、狐乃音は嬉しくなった。 (ご結婚されたのですね。おめでとうございます)  仲睦まじい夫婦の姿を見て、狐乃音は笑顔になった。 (元気な赤ちゃんですね~。健やかに大きくなってほしいです)  赤ん坊の、家の壁をぶち破らんばかりの大きな泣き声に、狐乃音は大変さと共に嬉しさを感じていた。 (お子様が独立されたのですね。幸せをお祈りしますね~)  小さな赤ちゃんはやがて大きくなり、独立して家を出て行った。  ――そして、やがて、その時は訪れてしまった。 (お別れ、なのですね)  彼は……元少年は、大勢の孫や子供達に見守られながら、息を引き取った。九十を越えて尚も生き続け、まさに大往生と言える人生だった。  最後の最後まで笑い声の絶えない、幸せな家族がそこにはあった。  小さな狐の神様は、ちりんちりんと鳴る鈴の音が大好きだった。可愛くて、幸せを運んでくれるような、そんな気がしたから。  だから、名も無き狐の神様は、いつしか自分の事をこう名付けていた。狐乃音、と。  かつて、目の前で祈ってくれた少年が、何気なく呟いた言葉を。 「狐乃音ちゃん」  誰かが呼んでいる。 「狐乃音ちゃん」  誰だろう? あ……わかった。お兄さんだ。 「あ、はい。おはようございま……」  どうやら自分は夢を見ていたようだ。お兄さんの呼び掛けで、目が覚めていく。ふかふかの布団に包まれて、疲れていたこともあってぐっすり眠ってしまっていたようだ。  と、そんな時。静けさをぶちやぶるようにして突如、でっかい声が響く。 「こんちゃんこんちゃんあそぼーぜーーーーーーーーーーーーーーーー!」 「うきゅうううっ!?」  元気一杯の地縛霊さんこと、拓斗が遊ぼうと誘ってきたのだった。 「まてまて拓斗。遊ぶのは狐乃音ちゃんが朝御飯を食べてからにしてね」  あ、何だか助かりましたと、狐乃音は心の中でお兄さんに感謝した。何しろ、まだお着替えもしていないし、お顔も洗っていないし、髪もぼさぼさです。女子としてそれはいかがなものかと思うのです、というところ。 「は~い。わかったよ兄ちゃん。じゃ、それまでマリカーで遊んでよーっと」  ものすごく元気な拓斗も、お兄さんの言う事は素直に聞くのだった。  そんなわけで、狐乃音は寝巻き姿からいつもの巫女さん装束に着替えて、朝御飯タイム。 「ちゃんと洗って乾燥しておいたよ。狐乃音ちゃんの服」 「あ、ありがとうございます!」 「巫女さんの装束、なんだよね?」  紅白の装束が、お兄さんの手で丁寧に畳まれていた。 「何だかそうみたいです。私、気がついたらいつのまにか人の姿になっていて……。何故か、こんな服を着ていたんです。何ででしょう?」 「そうなんだ。まぁ、とっても日本的だよね。狐の神様に、巫女装束って」  湯気を立てるごはん。鯵の開きに味付海苔。片隅にマヨネーズがかかった厚めのハムに、レタスと胡瓜のサラダ。それとお揚げと豆腐の味噌汁に納豆。  ……まるで、民宿の朝食のようだ。どこかホッとするような見た目で、間違いなくおいしいとわかる朝ご飯だ。 「い、いただきます」 「はい、どうぞ」  お箸を握りながら、おいしいと狐乃音は思う。  お兄さんはとても親切にしてくれる。何から何まで至れり尽くせりで申し訳ない。このまま、無駄飯食いのままではいられない。どうにかしなければいけない。どこかで何かしら、お役に立たなければいけない……。  狐乃音は、見た目は小さな子供のようだけど、とっても真面目な性格なのだった。 「今日も、尻尾とお耳が可愛いね」 「あ、ありがとうございます。照れちゃいます」  ――それから、狐乃音は昨日と同じように、拓斗と遊んだ。  神様と地縛霊という変わった組み合わせだけど、二人はすぐに仲良しになった。  そして……。 「うきゅうぅぅ……」 「お疲れ様」  拓斗とたっぷりと遊んで、狐乃音はおつかれモード。当の拓斗はおやつを食べて、くたくたになったのか早々にお昼寝モード。逆に狐乃音は、目を回してしまっていた。 「拓斗さん、ものすごく元気です」 「そうだね」 「でも、このお家からは出られないのですよね」 「そうみたい」  それは可哀想なことだと、狐乃音は思った。 「きっと、何か思い残したことがあるんだろうね」  お兄さんがそう言ったとき、二人は聞いたのだった。  拓斗の、小さな寝言を。 「お母さん……」  ああ、やっぱり。会いたい人がいるんですねと、狐乃音は拓斗が抱いた、切ない思いを感じとっていたのだった。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

105人が本棚に入れています
本棚に追加