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3.大切な思い
それはいつの頃だろうか?
狐乃音の目の前には、小さな男の子の姿があった。
男の子はお稲荷さんがまつられている社に現れ、目を閉じ、手を合わせて祈り、お供え物を置いてくれた。
見るからに醤油タレが染み込んでいるとわかる、おいしそうなお揚げ。それと、ちりんちりんと小さな音をたてる小さな鈴が男の子の手によって、狐形の石像に結び付けられていた。
(どなた、なのでしょうか?)
セピア色の記憶。
――狐乃音が人の形になる何十年も前の事。
狐乃音は一人の少年と出会ったのだった。そして優しくしてもらって、狐乃音は誓った。
(貴方の事。お守りしますね)
それから、狐乃音はお庭の片隅にまつられながら、この少年とその家族の幸福を祈り続けた。
その甲斐もあってか、少年はいつしか高齢の老人になるくらい、長生きをしていたのだった。
思えば、色んな事があったものだ。
(あ。進学されたのですね。制服、お似合いですよ~)
真新しい学生服に身を包んだ少年を見て、狐乃音は嬉しくなった。
(ご結婚されたのですね。おめでとうございます)
仲睦まじい夫婦の姿を見て、狐乃音は笑顔になった。
(元気な赤ちゃんですね~。健やかに大きくなってほしいです)
赤ん坊の、家の壁をぶち破らんばかりの大きな泣き声に、狐乃音は大変さと共に嬉しさを感じていた。
(お子様が独立されたのですね。幸せをお祈りしますね~)
小さな赤ちゃんはやがて大きくなり、独立して家を出て行った。
――そして、やがて、その時は訪れてしまった。
(お別れ、なのですね)
彼は……元少年は、大勢の孫や子供達に見守られながら、息を引き取った。九十を越えて尚も生き続け、まさに大往生と言える人生だった。
最後の最後まで笑い声の絶えない、幸せな家族がそこにはあった。
小さな狐の神様は、ちりんちりんと鳴る鈴の音が大好きだった。可愛くて、幸せを運んでくれるような、そんな気がしたから。
だから、名も無き狐の神様は、いつしか自分の事をこう名付けていた。狐乃音、と。
かつて、目の前で祈ってくれた少年が、何気なく呟いた言葉を。
「狐乃音ちゃん」
誰かが呼んでいる。
「狐乃音ちゃん」
誰だろう? あ……わかった。お兄さんだ。
「あ、はい。おはようございま……」
どうやら自分は夢を見ていたようだ。お兄さんの呼び掛けで、目が覚めていく。ふかふかの布団に包まれて、疲れていたこともあってぐっすり眠ってしまっていたようだ。
と、そんな時。静けさをぶちやぶるようにして突如、でっかい声が響く。
「こんちゃんこんちゃんあそぼーぜーーーーーーーーーーーーーーーー!」
「うきゅうううっ!?」
元気一杯の地縛霊さんこと、拓斗が遊ぼうと誘ってきたのだった。
「まてまて拓斗。遊ぶのは狐乃音ちゃんが朝御飯を食べてからにしてね」
あ、何だか助かりましたと、狐乃音は心の中でお兄さんに感謝した。何しろ、まだお着替えもしていないし、お顔も洗っていないし、髪もぼさぼさです。女子としてそれはいかがなものかと思うのです、というところ。
「は~い。わかったよ兄ちゃん。じゃ、それまでマリカーで遊んでよーっと」
ものすごく元気な拓斗も、お兄さんの言う事は素直に聞くのだった。
そんなわけで、狐乃音は寝巻き姿からいつもの巫女さん装束に着替えて、朝御飯タイム。
「ちゃんと洗って乾燥しておいたよ。狐乃音ちゃんの服」
「あ、ありがとうございます!」
「巫女さんの装束、なんだよね?」
紅白の装束が、お兄さんの手で丁寧に畳まれていた。
「何だかそうみたいです。私、気がついたらいつのまにか人の姿になっていて……。何故か、こんな服を着ていたんです。何ででしょう?」
「そうなんだ。まぁ、とっても日本的だよね。狐の神様に、巫女装束って」
湯気を立てるごはん。鯵の開きに味付海苔。片隅にマヨネーズがかかった厚めのハムに、レタスと胡瓜のサラダ。それとお揚げと豆腐の味噌汁に納豆。
……まるで、民宿の朝食のようだ。どこかホッとするような見た目で、間違いなくおいしいとわかる朝ご飯だ。
「い、いただきます」
「はい、どうぞ」
お箸を握りながら、おいしいと狐乃音は思う。
お兄さんはとても親切にしてくれる。何から何まで至れり尽くせりで申し訳ない。このまま、無駄飯食いのままではいられない。どうにかしなければいけない。どこかで何かしら、お役に立たなければいけない……。
狐乃音は、見た目は小さな子供のようだけど、とっても真面目な性格なのだった。
「今日も、尻尾とお耳が可愛いね」
「あ、ありがとうございます。照れちゃいます」
――それから、狐乃音は昨日と同じように、拓斗と遊んだ。
神様と地縛霊という変わった組み合わせだけど、二人はすぐに仲良しになった。
そして……。
「うきゅうぅぅ……」
「お疲れ様」
拓斗とたっぷりと遊んで、狐乃音はおつかれモード。当の拓斗はおやつを食べて、くたくたになったのか早々にお昼寝モード。逆に狐乃音は、目を回してしまっていた。
「拓斗さん、ものすごく元気です」
「そうだね」
「でも、このお家からは出られないのですよね」
「そうみたい」
それは可哀想なことだと、狐乃音は思った。
「きっと、何か思い残したことがあるんだろうね」
お兄さんがそう言ったとき、二人は聞いたのだった。
拓斗の、小さな寝言を。
「お母さん……」
ああ、やっぱり。会いたい人がいるんですねと、狐乃音は拓斗が抱いた、切ない思いを感じとっていたのだった。
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