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十三話
香佑が激痛で目が覚めると、まったく見知らぬ場所にいた。病院でもない。そもそも相手は日本人じゃない。
ここが「異世界」だということに気づくまで、香佑はかなり混乱していた。
香佑の知識の中に、ゲームやライトノベルなどの「異世界」と呼ばれる世界は存在していなかった。だから、どうしてこうなったのかの理解も、現状に慣れようとする努力もできなかった。
「どうかね? 具合は?」
そういって香佑を助けてくれたスタン神父は時間を見つけては香佑のベッドのそばに来てくれた。
「君の話していることは全く分からないし、君も、どうしてなんだろうと思う。だけども、これも神の思し召しだろう。体を休め、ここで暮らすといい」
ここが、かなりの田舎にある孤児院だと解ったのは少し経ってからだった。
香佑は名前を聞かれ、名乗ったが、ほとんどが覚えにくいと言い、覚えれた音が「キリコ」だった。
香佑はどうせ全く違うところに来たのだから、「小田切 香佑」を捨てよう。新しく「キリコ」として生きようと決めた。
子供たちの煩い声が本当に我慢ならなかったが、スタン神父の一人娘のアメリにはすぐ心惹かれた。
柔らかい栗色のきれいな髪の人だった。体を拭いてくれたり、食事を与えてくれたりするうちに、ますます好きになっていた。
だけど、体が元気になると、世話をしてくれなくなり、他の子供の世話をするようになる。小さい子だからという理由だけで着替えを手伝ってもらったり、怪我をしたという理由だけで手当てをしてもらったり、眠れないからと本を読んでもらうなど、我慢ならなかった。
香佑であるキリコは、自分の中の「主張=欲」を中心に生き、全てを支配していった。
アメリが触ったものは自分が拭うようになり、服を着替えさせられた子供の服を破り、本を読んでもらった子供の耳を引きちぎろうとした。
―アメリはそんなキリコに恐怖し、スタン神父も、キリコの常軌を逸した行為に不安を覚え、規律正しい修道院への移動を願い出た―
ある日のことだった。スタン神父は、文字が読めるキリコに、
「キリコ。お前は賢い。だから、この教会を任せたい。だけど、お前は洗礼を受けていない。一年か、二年か修行をして、正式に立派な神父となってきてはくれないだろうか?」
というのだった。キリコは初めて期待され、才能を褒められた嬉しさにそれを引き受けた。
うれしさのあまりアメリに報告しに行ったら、教区教師であるジョージ・マクドウェルと話していた。
キリコはマクドウェルが嫌いではなかったが好きでもなかった。大きな体をしていて、キリコが他の子からアメリの存在を消そうとしているのを、片手でひょいと摘み上げるかのごとく邪魔をする。だが、他の奴らよりはキリコの話を聞いてくれた。
二人に声を掛けようとした時、
「これでやっと安心できるわ。私はキリコが怖いのよ」
「大丈夫。あの修道院に入ったら最後、ほとんどが一生を終えるのだから」
「なぜ、お父様はあんな子を助けたのかしら」
「大丈夫。もう居なくなるよ。そうしたら、結婚しよう」
キリコは「裏切り」にあっていたのだ。アメリにも、マクドウェルにも、スタン神父にも。
キリコは真っ黒い水の中に沈んだ気がした。息苦しくて、とてもじゃないが、思い出したように呼吸をしないと、息ができなくなっていた。
修道院の場所はこの村から三つ向こうで、往復一日かかるという。朝早くに行けば向こうには昼に着けるので、と早朝出発した。
村を出てすぐ、山道へ入る曲がり角だけが細く、スピードが緩む。
「朝早すぎて、もう眠くなってきた」
キリコはそういって荷台に行き、横になった。
神父は何度も振り返り、キリコが寝ていることを確認していた。だが、キリコが考えているあの「細い山道は」細いだけあって運転も慎重にしなくては行けなくて、荷台のキリコに気を取られている場合ではなかった。
速度が落ちた馬車からキリコは飛び降り、村へと向かった。
キリコが村を出ると解っていた村人は、走って戻ってきたキリコを見て家の中に入った。
どういうわけだか解らないが、キリコは村人全てから嫌われていた。何かをした記憶はないが、村人から言えば、そのただならぬものが怖かったようだ。
鍛冶屋に入り、出来たばかりのなたをかっぱらうと、修道院へと駆け込んだ。
どうやって暴れたのか不明だが、そこら辺にいた仲間を一振り、二振りで打倒していった。
悲鳴と、泣き声、喚き声。
「あぁ、煩い」
子供たちの騒ぎに家の中にいたアメリとマクドウェルが出てきて、慌ててキリコを抑えようとするが、キリコが常識では考えられない、見たことのない動きで、二人を断ち切った。
「残りは、神父だ」
キリコはスタン神父の後を追った。
真夜中を過ぎたころ、三つ村を超えた所の修道院に着いた。
だが、キリコはその村にすら近づけなかった。爪を噛み対策を練ったが、どうしても、その村の入り口から中に入れなかった。
村の入り口には、鉄の門があり、黒く変色していたが、銀を塗っていた。
キリコはいらいらしながら、村に戻ることにした。どうせ、スタン神父は村に戻るのだから、村に居ればよかった。と思っていたら、激しい疲労にそのまま倒れた。
目が覚めた時には雨が降っていた。起き上がり、村を目指した。
村に着いたのは朝だった。孤児院へ行くと、死体は片付けられ、血はそのままになっていたが、すっかり死体はなく、そのかわり、それぞれの墓ができていた。
孤児院の中には誰もいなくて、司祭室―神父の書斎―は荒らされていたが、大事なもの、特に金が無くなっていた。
外に出ると、村人の婦人が、
「あ、ああ。キリコ……、あ、あんた、無事、だったのかい? 神父は、居なくなったよ。あんたを探しに行ったのに、会わなかったのかい?」
と言った。
キリコが頷くと、
「そ、そう……。困ったわねぇ。あぁ、たぶん、あれだわ。向こうへ行けば会えるかもね」
と指さした方向は、キリコが帰ってきた方角だ。だから、キリコは反対に向いて歩きだした。婦人は何も言わず、慌てて家の中に入ったので、スタン神父はこの道を行ったのだろう。
キリコは歩きながら思った。非常に体が重かった。一歩を踏み出すのに時間がかかり、しまいには身動きが取れなくなってそのまま横たわるときもよくあった。
「死ぬのだろうか? ……それはないな。神父を殺していないもの」
そうやって、数歩歩いたら眠る、しかも、一晩ではなく何日も眠って、また数歩、歩くを繰り返し、二年が過ぎた。笑える話だが、隣村―普通歩いても半日もかからない―場所に着くまでに二年かかった。
その間に人は行き交い、キリコを助けるものはなく、生きていた時にはゾッとしながら、倒れているときにはこのまま起きないでくれと懇願するものさえいた。
二年目の夏のある日、ふと、体が軽くなった気がした。呼吸も楽になり、キリコはスタン神父を追うべく立ち上がった。
だが、スタン神父はどこへ行くというのだろうか? 修道院へ捜しに行くのなら話は分かる。だが、修道院とは逆方向だ。この先へは央都があるが、央都に何がある?
キリコはとにかく歩いた、央都にスタン神父がいる形跡はなく、規国との県境までやってきた。
キリコが顔をゆがめた。県境のしるし、規国のシンボルは銀でできていた。
キリコは踵を返し、央都に戻った。
―スタン神父を探さなくてはいけない。どうすれば探せる?―
「女が欲しい。女が欲しい」
キリコにだけ聞こえる声。
見た目は華やかだが、ただの労働者の男だった。
キリコは閃いた。この男を使おう。
―隠れているのならば、あぶりだせばいい。そうだ、神父が嫌うのは、悪行だ。そして、神父は貴族をあまり快く思っていなかった。貴族にしてあげよう。そして、出てこい。
子爵、男爵はそこいら辺にたくさんいるが、伯爵クラスはそうは居ないだろう。伯爵クラスの人間が殺人事件などを起こせば、新聞が大騒ぎを起こす。そうなれば、嫌でも出てくるはずだ―
キリコは名前もよく解らない男に近づき、それなりの身なりを整えさせ、「スタン伯爵」としてサロンに通わせ、貴族と知り合い、そしてそのつてで社交界へと連れて行った。
それなりに考えれば無謀な計画だが、こういう時、やたらと運よく「さいころ」の目が揃うものだ。
「血が欲しい」
と、またもキリコにしか聞こえない声を拾う。
やつは、開業眼科医のジミー・マイルズだ。
血が欲しいとは、面白い。人を集めて大いに血を集めよう。
キリコは、病気で性的不能となったが、性的欲求の強い男が、とある家を覗いていたので、そいつを伯爵に仕立てた。
伯爵に、ジミー・マイルズに近づかせ、有効に血を収集できる場を提供した。
田舎にある廃墟で、人一人斬り付けたって誰も気づかない。
そのうち、ジミー・マイルズの血への欲求が強まり、もっと、もっと効果的に集めたいと言い出し、宴を開いた。
血液型が会わないと輸血に失敗するというので、同じ血液型に反応する石を与えた。ジミー・マイルズは輸血者である娘の血ではなく、自分の血をそれに覚えさせた。いくら親子でも血液型が違うかもしれないと疑うのが医者だろうに、もうすっかり奴は血のとりこになっていたのだろう。
最初こそ娘のためだったのだろうが、後には自分が血を欲していたのだ。
干からびた死体は、都合よくあった氷室に隠しておいたが、氷室がいっぱいになると、古い順から川に捨てに行った。
つてはあちこちに伸び、ある時、鉄道王と呼ばれ、今は早期リタイヤをして田舎に引っ込み、家族と暮らしているというタイラーに会った。
この男こそ、規国との国境に銀の門を付けた本人だった。
タイラーは愛妻家で、隙などまるでなかった。イライラするほどの善人に会った。
タイラーにゆさぶりをかけたが、タイラーに悪癖はなかった。ただ一瞬、エミリア・マルソンを見たときに、
「きれいな髪をしている」
と思った。
キリコはその瞬間を逃さなかった。
「エミリア・マルソンはあなたを愛している」
ほんの少しの隙間さえあればいい。それさえあれば、人はすぐに壊れていく。特に真面目な奴が壊れていく様は、熟れた果実を握りつぶすがごとく容易く、そして、恍惚として気分がいいものだ。
タイラーは必死で正気を取り戻そうと足掻いた。ある時などは、庭に穴を掘り、体力を極限まで疲れさそうとしたし、家族をよそへ移そうとしたから、その前に家族を葬らせた。
正気を取り戻した時のタイラーの壊れ方は見るも愉快だった。もう後は坂道を転がるようにタイラーはエミリアに傾倒していく。
ああ、愉快。
ジミー・マイルズも徐々に正気を失い、いや、あの男は元々壊れていたのかもしれない。タイラーもあと少しで壊れるだろう。
女王陛下に会えるほどのつてができたが、女王陛下なんぞに用はなかったが、これでさらにスタン伯爵の名が広がるだろうと出かけた。
貴族の宴など面白みに欠けた。
キリコは震えが止まらないほどの感触を感じる。辺りを見渡すと、スタン伯爵が一人の男と話している。金髪で、緑色の目をした実に美しい男だ。
―あぁ、この男も、僕と同じく残忍なことが好きな男だ。こんな美しい男が仲間だなんて、なんていい日なんだ―
と思ったのに、
「非常にくだらない。それはひどく滑稽なものだ。まぁ、警察をおちょくっているのだろうが、その行為は子供が好きな人を困らせて喜ぶそれに似ている」
と言い放った。
腹立たしい、仲間だと思っていたのに。
キリコは自分の行動に違和感を感じた。サミュエルに馬鹿にされ、今すぐにでも殺そうと思ったのに、体が動かない。動かないどころか、居場所を示す名刺を渡している。
「―裏に書いている文字―タニクラ ナルなら読めますよ」
誰だ!
その頃から、キリコの頭の中で声が、心が二分するようになる。キリコが果たしたいスタン神父の殺害よりも、もっと大きな殺人や、人を操縦することに一生懸命になっているものがいる。
キリコは感じた。
「穴が、開いた?」
最初は、針で突いただけの小さな穴だ。急いで修復すればその穴は塞がるだろう。それなのに、修復する術がない。
タイラーが自殺した。残っていた自我が引き金を引いたのだ。
―面白くない。どうせするのならば、もっと殺してから死ねばいいのに。
用の無くなったスタン伯爵は処分だ。
ジミー・マイルズが捕まり、狂気で刑務所内で暴れ、そこで殺された。
―囚人を皆殺しにできたはずだ。自我が戻ったのか。
つまらん
つまらん
つまらん
つまらん
つまらん
新しいスタン伯爵はギャンブルにしか向かず、ただ、奴が金づるに選んだ女、その女に恋をしているキンケイド。そうだ、今度はキンケイドを取り込み操ってやろう。
なのに、キンケイドは、ソフィアにしか興味はなく、スタン伯爵も、ギャンブルにしか興味がない。
役立たずめ、これは、切り捨てて先へ行かねばなるまい。タイラーの件も、マイルズの件も、サミュエル・ガルシアが関わってきていた。
捕まるわけにはいかないのだ。
だって、まだ、スタン神父を殺していないのだから。
それなのに、捕食された。獰猛な獣はその牙と、爪を持っていかれ、おとなしい小動物と化した。
あれから、まったく力が出ない。そして、思考も停止気味だ。
なぜここにいるのか? よく解らない。何か目的があったのだろうけど、それをやり遂げる前にここにいるのだろうけど、目的って、なんだ?
サミュエル・ガルシアという人が面会をしたいと言った。身に覚えのない名前だと言ったが、渡したいものがあると言われた。
サミュエル・ガルシアはきれいな人だった。他にも何人がいたが覚えていない。ただ、きれいな金髪で、緑の目をしたサミュエル・ガルシアだけは本当にきれいだった。
サミュエル・ガルシアが預かってきたものだ。と言って机の上にジャラジャラと長い石の数珠を落とし、最後に十字架を置いた。
―キリコ、これはね、自分を戒めるための十字架なんだ。自分を律するときには、これを一つずつ数え、深呼吸をする。すると、「欲」が消える。欲は喜怒哀楽のもとだが、もっともよくない怒りをすぐに発動させる。
キリコは特に、この数珠を頭に描き、自分を律しなければいけないよ―
―キリコ―
―キリコ―
―キリコ―
優しくて、穏やかな声。大きな手。暖かいその腕。
涙が止まらなかった―。
ただ、愛して欲しかったんだ―
母に、父に、全てに、愛してもらいたかっただけなんだ―
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