もうひとりの替え玉

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もうひとりの替え玉

蒼は撮影の合間を縫ってオフィス街へ戻った。 待ち合わせは駅構内の喫茶店。 「久しぶり」 店の奥のほうに小西が待っていた。 「お待たせしました」 向かいの席につき、コーヒーを注文する。 小西にはずいぶん世話になったのに、気まずさやら何やらで連絡できずにいた。 このまえ道場の引っ越しの件で電話をくれて、ようやく会う話になったのだ。 「道場、あの物件に移れることになったんだって?よかったな」 なぜここまで面倒を見てくれるのか疑問なのだが、彰人によれば『高校時代の罪滅ぼし』らしい。 ふたつ先輩だった小西に後輩の世話をする義務などないのに。 「先輩のおかげで何とか。本田さんも感謝してましたよ。お礼言っといてくれって」 「いや、そんな。たいしたことじゃない」 小西は以前より無難な色味のスーツとネクタイを身につけていて、以前とどことなく印象が違う。 「転職したんだ」 「ああ……」 やはり。 前職の不動産会社では社長に不信感を持っていたから、ありうることだ。 「会社辞める話したら野島さんが、営業社員探してるからうちに来ないかって言ってくれて。だから今はあの人の部下だ」 「ええっ!そうなんですか」 営業社員を探していたのは恐らくIT企業買収によるものだろう。 小西の人柄が信用できるとみてスカウトしたのだ。 「岸川も会社変わったんだよな?今度はどんなとこ?」 今日の蒼の服装はオーバーサイズぎみのニットに柄もののスカート、ヒールのあるブーツでいつもよりは地味だ。 だがバッグは麻友と揃いでブランドものだし、脱いで置いたコートも一目で高級品とわかる。 「すみません、守秘義務があって、ほとんど話せないんです」 正直に謝ると小西は追及してこなかった。 「そうか。……それはそうと、社長には会ってる?」 「いえ」 なぜか長谷と同じように彰人とのことを気にしているようだ。 「会社が大きくなって忙しそうだとは聞きましたけど」 「まあね。こないだ親睦会があってさ、旧社員と新社員の。会の途中で得意先に呼び出されて抜けちゃったんだよな。ひとりで会社回してるわけだから、忙しいだろうな」 小西が何か言いたそうにしているのはわかる。 「野島さんには社会人として育ててもらった恩がありますけど、なかなか返せないです」 「う~ん、そうだね」 蒼が無茶なことをしそうになったあの一件を、小西はもちろん覚えているだろう。 「結婚でもして落ち着けば、社長も少しは楽になるのかもね。なんか最近彼女できたって親睦会で聞いたんだけど、樫村由梨(かしむらゆり)って人、知らない?」 「いえ」 いきなり個人名が出て驚いた。蒼は彰人の秘書だったから心当たりがあると思ったのだろう。 「大学時代の後輩とかで、女社長なんだって。前に付き合ってて、起業の時に野島さんがいろいろアドバイスしたらしいよ。小さい会社だから社長の元カノのこと、社員に知れちゃってんだな」 「元カノですか……」 少なくとも蒼の知る限り、樫村という女性と連絡を取っていた気配は感じなかった。 だが今社員の間で名前が出ているなら、最近交流が復活したのかもしれない。 いわば社長として彰人が育てた女性だ。 「気になったから調べてみたら、けっこうな美人でさ。まあ社長もイケメンだし、モテるよな。……モテてたんだろ?」 前に長谷も彰人のことをあれこれ尋ねてきたが、私生活が謎なので好奇心が刺激されるというのが理由だった。 小西も社員となった今、長谷と同じ気持ちなのだろう。 「モテてましたね……。確かに」 一緒に参加したパーティーの光景を思い出す。出会いを求める女性たちの視線は彰人に集中していた。 「旧社員の人たちが岸川の話しててさ。ボディガードとはいっても男を女装させて連れ回してたから、社長が危ない道に入っちゃったんじゃないかって心配してたんだって。彼女がいたんなら岸川に手なんか出すはずない、って安心してたよ」 「そりゃそうでしょう」 相槌を打ちつつも、蒼は胸を抉られる思いだった。 ぜんぶ言われたとおりだ。いくらでも女性が集まってくる彰人が、なぜわざわざ蒼のような男を選ぶのか。 学生時代を喧嘩に明け暮れて大学にも進まず、女装でボディガードくらいしかできる仕事のなかった蒼を。 「あれこれ訊かれると困るから高校時代の先輩後輩ってことはみんなに黙ってる。それでいい?」 「助かります」 Nコーポレーションの社員たちは蒼の身元にも興味津々だった。若くして何の資格もなくボディガードに採用されたのだから無理もないが、もし学生時代を知る先輩がいたら質問責めにあうかもしれない。 「……岸川も大変だと思うけど、やっぱりそれ、やんなきゃダメか?」 小西が深刻な口調になった。 『それ』とは、話の流れからいっても『女装』のことだろう。 「心配かけてすみません。……僕もずっとこのままのつもりはないですけど」 彰人は蒼を人間として成長させてくれた。 だが社会人としては、まだ何のキャリアも積んでいない。 その日その日を必死で過ごすだけでは周りに置いていかれるとわかっていても、まだ蒼はどうにもできずにいるのだった。
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