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誘惑
これからデートだという麻友のため、蒼は今日の彼女とコートまでそっくり同じ服装で事務所へ戻ることとなった。
事務所の駐車場に車を停めて帽子を目深にかぶり、サングラスとマスクで外に出る。
駐車場とビルの入り口の間には細い車道がある。
蒼は横断歩道のない道を渡りかけて、前方へバランスを崩した。
誰かに背中を強く押されたのだ。
車が右から来ていたから踏ん張った方がいいのだが、あえて躓くふりをし相手を油断させる。
足音は後方の住宅街へ向かったようだ。
蒼はよろめきながら道に手をつき、その反動を利用して立ち上がると敵の後を追いかけた。
だが入り組んだ道を一人で追跡するのには限界があり、結局あきらめるしかなかった。
「お疲れさまです」
事務所のオフィスへ入る。
麻友のマネージャーの笠間が待っていた。
笠間は34歳で、一年近く前から麻友の担当になったという。
今回蒼に与えられた肩書きはマネージャー見習いなので、笠間と話す機会は多かった。
「岸川さん、麻友ちゃんは?」
「疲れたって言ってたので、先に送っていきました」
笠間はどちらかというと若手俳優・原田晃成と麻友の交際に反対の立場だから、たびたび会っているのがバレると小言を言われるらしい。
それでスタイリストの相原が蒼を巻き込んで麻友の恋を応援しているのだった。
「疲れてる?撮影がハードすぎるのかな」
「そうかもしれませんね」
笠間は悪い人ではないのだが、いかんせん二十代の女子と比べると話が通じにくく、頭が堅い印象を受ける。
早くいえば真面目すぎるのだ。
「明日も早いけど……気を配ってやってくれ」
「はい。そうします」
笠間はこの芸能事務所「オンリーワン」で将来を期待されるエリート社員なので、麻友のマネージャーの仕事をできれば誰かと分け合って別の仕事をやりたいと希望していた。そのためマネージャー見習いの蒼は麻友のスケジュール管理や送迎などの雑務を手伝っている。笠間が今やっているのは、マスコミ対応などの頭を使う仕事が中心だった。
二人で今後の麻友のスケジュールを打ち合わせ終わると、笠間はオフィスを出て行った。
「お疲れっす」
入れ替わりに背の高い青年が入ってくる。
黒いTシャツにダメージジーンズ、革のジャケット姿の彼は、キョロキョロと辺りを見回した。
「遠藤さん知らない?」
気安く蒼に声をかけてくる。
「いえ……」
首を振るしかなく、蒼はその場を立ち去りかけた。
「ああ聡志くん、遠藤さんから預かってるよ」
事務員が彼に本のようなものを手渡す。
「はあ~、オレが嫌がってんのわかってて逃げたな、アイツ」
蒼が出ていこうとオフィスのドアを開けた時、目の前に見知らぬ女性が立っていた。
「あっ!岸川さん!書類修正お願いします!」
「えっ?」
「私知らなくて性別の欄、間違えちゃったんですよ。男でいいんですよね?」
「ええ、そうです」
差し出された書類によると彼女は人事の事務員らしい。
蒼が提出した身分証明書類を処理する際、見た目で女性のところに丸をつけてしまったのだという。
「言いふらすようなことじゃないのは分かりますけど……そういうのは、こっちに話通しといてもらわないと困りますよ」
「ごめんなさい」
事務仕事に疎い蒼は書類関係の苦情にまったく抵抗しない。
言われるまま差し出された書類にサインし、頭を下げた。
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