反転

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 取引先との打ち合わせを終えて会社に戻った頃にはすっかり暗くなっていた。  首の付け根のあたりに重たい疲れがたまっている。瞼がぴくぴく痙攣するのはストレスのせいだろう。  事業企画部スポーツイベント課長の楠田真澄(くすだますみ)は、エレベーターの中で一人、ネクタイの結び目をわずかに緩めた。  先方の都合で予定が狂うのは慣れているが、自分の部下にここまで振り回されるのは初めてだ。それも、哀しくなるほどくだらない理由で。  この九月に楠田の下に配属されてきた入社二年目の妹尾辰之(せのおたつゆき)は、とにかく一日一回は何かしら騒動を起こしてくれる。今日などは、百ページ以上あるPDFファイルを誤って全ページ印刷指定してしまったとパニックになり、いきなりプリンタの電源コードを引っこ抜く暴挙に及んだ。  しかも彼が力任せに引き抜いたのは、プリンタではなく楠田のデスクトップPCの電源コードのプラグだった。  不幸にもその日に限って、楠田は作業中のファイルを保存するのを忘れていた。午前中一杯かけてまとめた企画書はすべて跡形もなく消えた。迂闊な部下を叱りつけたところでデータが戻るわけではない。  部下には常日頃から、金曜日に残業するのは一週間の仕事の計画をきちんと立てられなかった証拠だと思え、と厳しく言い聞かせている。その代わり、緊急事態が発生した場合は自分が責任を持って対応する。交渉力も仕事の処理能力も人に優れているからこそ管理職を任されているのだと自負している。長時間労働は生産性の低さを示す証拠で、自慢にもなんにもならない。  それなのに、こんな理由で本来必要のない間抜けな残業をする羽目になるとは。忌々しさが疲労を倍加させる。  エレベーターを降りると、意外にもフロアの明かりはまだ点いていた。こんな時間まで残業しているのは誰だ、と端正な眉をしかめたときだった。 「あっ課長! おかえりなさい!」  いかつい身体と童顔がクマのぬいぐるみを思わせる部下が、楠田のところに駆け寄ってきた。 「……妹尾? まだ残ってたのか?」  どうやらフロアにいるのはこの諸悪の根源だけらしい。嫌な予感に、楠田の眉間の皺が深くなる。 「はいっ。課長の帰りを待ってたんです!」  足早に自分のデスクに戻った楠田は、スーツの上着を脱ぎながら深々と溜息をつく。残念ながら、自分の仕事を始められるのはまだ先のようだ。 「今度はどんなミスをやらかしたんだ」 「えっ。まだ何も言ってないのに、どうしてわかったんですか?」  妹尾が、ただでさえくりっと丸い目をさらに大きく見開く。 「お前がこんな時間まで俺を待ってた理由なんて、他に考えられないだろうが」 「えー、そんなことないですよ……」  すかさず否定するが、妹尾の声は尻すぼみだ。やはり何かしでかしたようだ。 「さっさと説明しろ。俺はこの後まだ仕事があるんだ」  誰かさんのおかげでな、と、切れ長の目から冷たい視線を投げる。社内最年少で課長に昇進した切れ者の楠田にこんな風に睨まれたら、大抵の社員は震え上がる。  だが、なぜか妹尾はぱっと顔を赤くして、黒目の濃い目をあらぬ方向に泳がせた。 「あの……例のマラソン大会の協賛ブースで配る試供品の件なんですけど」  楠田と妹尾の勤める「江口スポーツサポート」は、スポーツサプリメントの製造販売を行っている会社だ。来週末に開催される市民マラソン大会では、メインスポンサーのひとつになっている。 「なんだ、まさか手配を忘れたのか」 「違いますよ! 今日の夕方に社内便でちゃんと届きました。ただ……中身がちょっと変なんです」 「変ってなんだ」  要件は簡潔に言え、と内心で小言をこぼしながら、楠田は妹尾の後に続いて窓際のスペースに向かう。 「……は?」  足元にある開封された段ボール箱の中身を一瞥するなり、楠田は目を剥いた。  大会で配る予定になっているのは、クエン酸配合で疲労回復効果もある新発売のエナジージェルだ。柑橘系果物をイメージしたシンプルで爽やかなパッケージデザインで、アスリートだけでなく女性の一般消費者もターゲットにしている。  だが、箱の中を埋め尽くしているのはパッケージにピンクのハートマークがちりばめられたプラスチックのボトルだった。一本手に取って、楠田は思い切り仰け反る。  それは、ラブローションなどのアダルトグッズを手掛けるグループ会社の新製品と思しき、催淫効果のある潤滑ジェルのボトルだった。 「妹尾! 貴様、倉庫にどんな注文出しやがった!」  声が変な風に裏返る。あまりのクールさに「氷点下の貴公子」などと陰で呼ばれているらしい自分をここまで激高させられるのだから、この部下はある意味天才かもしれない。 「え、あの、社内便の発注リストで新製品のジェルっていうのにチェックを入れたんですが……」 「莫迦野郎、ジェル違いだ!」  市民マラソンの参加者にこんなものを配ってどうするつもりだ。 「社内便の伝票持って来い、今すぐ!」 「はいっ」  学生時代はずっと空手をやっていたという妹尾は、動作だけは機敏だ。格闘家のような巨体を瞬時に翻し、デスクの方へと戻っていく。  楠田は頭を抱えながらジェルのボトルを箱の中に戻した。確認のためにまずは一箱だけこちらに送るよう指示しておいて正解だった。大会当日にこれらが大量に現地に到着していたら、と想像すると背筋が寒くなる。  少し頭を冷やそうと、楠田は窓の外の夜景に目をやった。敷地内のすぐ隣には、同じグループの別会社の社屋が建っている。もっともこの時間なので、正面に見えるフロアはほとんど明かりが消えている。 「ん?」  その薄暗い窓の向こうに何やら動くものが見えた気がして、楠田は首を傾げた。  窓際に人のシルエットのようなものが見える。だが少々様子がおかしい。そもそもなぜあんなに輪郭が白く浮き上がって見えるのだろう。  不審者でも侵入したんじゃないだろうなと窓に顔を近づけた楠田は、次の瞬間、我が目を疑った。  向かいのビルの窓際にいるのは二人の男性だった。そのうち前屈みの姿勢になって窓ガラスに手をついている細身の男性の方は、一糸まとわぬ全裸だったのだ。彼が後ろに突き出した腰を、その背後に立ったもう一人の男が鷲掴みにしている。 「な……な、」  何をやってるんだあの連中は。  向かいは確か「江口ヘルスケア」のビルだったはずだ。人の少ない時間帯とはいえ、オフィスビル内であんな行為に及ぶとは。しかもあろうことか男同士で。  だが、楠田の胸に真っ先に湧き上がってきた感情は、嫌悪感とは違う何かだった。 ――なんであいつら、あんなに……気持ちよさそうなんだ。  背後に立つ男の方はワイシャツを着たままだが、既にボタンはいくつか外れているらしく、腰を荒々しく突き出すような動きをするたびに裾がひらりとはためく。全裸の男が、窓に手をついたまま喉を大きく仰け反らせた。表情までは見えないが、なまめかしい喘ぎ声が聞こえるかのようだ。  楠田の背筋を、ぞくりと怪しい感覚が駆け上がったときだった。 「伝票、ありました」  声がほとんど耳の真後ろから聞こえた。楠田は咄嗟に「ひっ」と息を呑んで、バネのように背をしならせてしまった。  すると、まるで楠田の姿を鏡に映したかのように、窓辺の全裸の男も背を弓なりに反らせた。窓ガラスの向こうで彼の裸の胸元に、何かがきらりと光る。 ――乳首に……ピアス?  はっきり見えたわけではない。だが、もしかしてと想像しただけで、楠田はワイシャツの下の自分の胸の先端がきゅっと硬くなるのを感じた。 「課長? どうかしましたか?」  すぐ後ろに立った妹尾が、楠田の肩越しに窓ガラスの方へ背を屈めてくる。その気配に、楠田の腕にそわっと鳥肌が立った。  全裸の男は尻を後ろに突き出したまま背後の男の方を振り向いた。後ろの男がその顎を片手で掴んで、ゆっくりと顔を寄せていく。いやらしいキスを交わす二人から、なぜか目を引き剥がすことができない。 「うわ……すげーな……」  楠田の視線を追って窓の外を見た妹尾も、同じものを目にしたらしい。低く抑えた呟きは、いつも頭の悪い失敗ばかりやらかしては情けない顔をしている新人とは別人のような男臭さを感じさせる。その息遣いにはっきりと興奮の気配を感じて、楠田の身体の奥で何かがびくんと跳ねた。  怖気づくように一歩窓から後退したが、その弾みに、背後の妹尾の胸元にどしんと肩をぶつけてしまう。 「か、課長? 大丈夫ですか?」  妹尾が慌てたように楠田の身体を支えてくる。スーツの上着を着た肩先をすっぽりと包み込んでしまうほど大きな手だ。 「やめろ」  咄嗟にその手を振り払ってしまった。  楠田は決して小柄な方ではない。だが、身の丈百九十センチ近く、肩幅も広くて胸板も分厚い妹尾と並ぶと、自分の体格がひどく華奢に想えてしまう。それがなんだか無性に腹立たしい。 「そこをどけ。伝票処理は俺がやる」  石像みたいにどっしりと逞しい妹尾の身体を、わざと乱暴に押す。 「……課長」  だが、妹尾はいつものように従順にその場を譲ることをしなかった。 「顔、赤いですよ」  背を大きく屈めて楠田の顔を覗き込んでくる。その顔をきつく睨み返しても、妹尾は一向に怯まない。  よほど鈍感で図々しい性格なのだろう。そうでなければ、あんな生々しい場面を目撃した直後に、こんな近距離で瞬きもせずに相手の顔を覗き込んだりできるはずがない。  考えてみたら、妹尾は最初からこうだった。  自分が人に威圧感を与えるタイプなのを、楠田は自覚している。部下どころか上司でさえ、楠田と接するときは常にどこか緊張気味だ。それが妹尾だけは完全に無防備で、平気で間抜けな失敗をやらかすし、どれだけ厳しく叱責しても怖がるそぶりを見せない。むしろ、かえって懐いてきているような気さえする。  妹尾は楠田の顔をじっと見つめたまま、童顔をことりと傾げた。 「もしかして……向かいのビルのあれを見て、興奮しました?」  不覚にも、ひやりとした。 「……そんなわけがないだろう」  凄んだところで労力の無駄使いだと悟り、楠田はしらを切ることにする。ポーカーフェイスには自信がある。こんな間抜けな新人に内心の動揺を見抜かれたりするはずがない。  だが妹尾は妙に自信ありげな表情で、視線を下向きに落とす。 「でも。これ、きつくないですか」 「!?」  スラックスの前立てをいきなり撫でられて、楠田は声にならない悲鳴を上げた。 「見てわかるくらいになってますよ」  先程の大きな手で急所を庇うように包み込まれる。妹尾の言うとおり、そこはくっきりと興奮の形を示していた。  かあっと頭に血が上る。なぜこんなに反応しているのか、自分でも意味がわからない。 「は……離せ……っ」 「離しちゃって、いいんですか?」 「あ……っ」  硬くなったところに指を添わせるようにゆっくりと撫でられて、ぞくぞくっ、と甘い震えが背筋を伝う。 「課長」  耳元で低く囁かれて、楠田の腰からへたりと力が抜ける。崩れ落ちそうになった腰に、すかさず妹尾の腕が回された。 「ああいうこと、してみたいですか?」  何を、莫迦なことを。  と頭では思うのに、なぜか否定の言葉が出てこない。窓辺で背をしならせていた細身の男の胸に、まるで見せつけるみたいに光っていたピアスを思い出して、楠田の胸に、つんと針を刺すような感覚が走る。  気が付いたら、楠田は妹尾の腕にすがりつくような姿勢で、こくこくと首を縦に振っていた。
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