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ハルヒト
ステージに現れた彼は、ばけものだった。
全身に音と、光が、ぶつかって溶け込むのだ。深く這うように響く文明はひんやりと冷たく、身体を貫通して、全てを明け透けにされているようにも思えた。立ち竦むまいと力を込めるたび、関節が震える。
畏怖だ、これは。
そして、もう二時間もすれば、崇拝に変わる。
背骨に沿って、滑らかなナイフで撫でられているような、そんな感触。傷つけるつもりはないと微笑むように、けれど手つきはいたずらに、こちらの身動ぎは許されないような、危うさで責め立ててくる。音楽にあふれているはずの会場はしんと静まりかえり、命の温度を失いつつある。ように、感じる。機械的なのか命にあふれているのか、哲学を超越した音の学問が、無知も博識もとり込んで離さない。今、この場の俺は、彼の先輩でもなんでもない、見下げられるべき烏合の衆にすぎないのだ。直感的にそう感じた。
歌詞を口遊もうとも変わらない表情は、死人よりも澄んだ純白さを抱き、その上で黒い装束に包まれている。時折その音楽を語る、爪の先までが神話のように完成されていた。
そんなはずは、そうは思うけれど、現実には逆らえない。そしてなにより、その研ぎ澄まされた視線の美しさが、一周回っておぞましいのだ。明け方のように青い光が、彼を縁取って変えて行く。その色に、いっそ飲まれてしまえたなら、停止寸前の思考が警鐘を打ち鳴らしている。
「美しい動物ね、人間と言うのは。」
決してかち合わない視線に刺し殺されそうだ。ここはライブハウスなんかじゃない。神聖すぎてグロテスクな、彼の世界だ。ごめんんなさい。聖域に踏み込んでしまった。そんな罪悪感が身体をおかしくする。そして俺がそう思うように、きっと惚けた観客たちもそう思っている、はず。
手の先にまとわりつき、脳天まで走る新しい文化の産声が、この瞬間を幸福のようなものだと錯覚させる。刻一刻と過ぎ行く革命的な時間の波に、体が吸い込まれていくこの浮遊感。こんなに異質なのに、きちんとライブだ。冷静な俺の感覚だけが現世とのつながりであるように感じられるのが、とにかく恐ろしかった。
「おめでとう、今日を祝って。
出会えなかった僕らを忘れないように。
三日後……指に誓って。
もう貴方を何処にも決して還しはいたしませんと……。」
ガラス越しの瞳に、どっと汗が噴き出した。膝が笑う。息衝く彼の存在に、誰もがめちゃくちゃにされている。期待の新星なんて、頭の悪い言葉で片付けやがって。彼を報ずる全てを呪いながら、息を飲んで、ただ、目をつぶった。彼はばけものなんかじゃない。間違っていたのは、俺の方だった。
なにかを超えた顔で歌う彼は、いっとき限りの神様だ。
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