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龍を編む
玲蘭は蝶になって、知らない世界に旅立っていく。それは一人で一族の天幕に取り残される玲蘭の何よりの慰めであったし、楽しみでもあった。純白の蝶となった玲蘭は、自分の口から這い出て体を置いて旦那様のもとに旅立っていく。
魂である蝶の玲蘭を吐き出した体は、冷たくなることもなくまるで心地よさそうに眼をつむって眠り続けるのだ。
複眼となった眼で、玲蘭は人である自分の体をまじまじと見つめる。射干玉のように黒い髪は流れるように長椅子に散らばり、玻璃を透かしたような美しい眼はしかと閉じられている。
けれども注目すべきは足。
異様に小さく、豪奢な刺繍の施された沓に包まれた足にこそ、玲蘭が、身動きがとれぬ原因でもある。
纏足。
足を小さく美しく見せるために、女の足を小さな頃より縛り上げ変形させるその習慣は、玲蘭から歩く自由を奪った。なので彼女は、嫁いだ旦那様に同行して遊牧や狩りにでることすらままならない。
もっとも、その旦那様というのは、玲蘭の街を襲った凶賊風情なのだが。
豊かな商人であった玲蘭の父は、玲蘭を良いところへ嫁がせようと纏足にし、その玲蘭を命乞いのために凶賊に差し出した。
哀れに思ったその親方が、玲蘭の今の夫だ。
けれども、玲蘭はその夫を心から好いている。彼は優しく、足が不自由で家事すらロクにできない玲蘭をいつもいたわってくれていた。
そんな優しい旦那様に思いをはせながら、玲蘭は住居である天幕を出て蒼い草原の広がる外へと飛び立つ。高く飛ぶと大地と同じ青をした空に、鷹が飛んでいるのが認められた。
魂を飛ばす術を覚えたのは、いつ頃だっただろうか。物心つく頃から、玲蘭は遠い場所へと行きたいと思うたび、蝶となって体より離れて旅をしてきた。
それは、玲蘭を溺愛していた父が、旅のために遠くにいくときにもおこなわれたし、病弱な玲蘭の母が、離縁されて遠い隣国へと帰っていったときにもおこなわれた。
それが夢ではなく現実だと分かったのは、つい最近のこと。
蝶と人、自分はどちらなのだろうかと玲蘭は思う時がある。人の体をしているときは窮屈な思いしかしないけれど、蝶のそれはとても軽く純白の翅で玲蘭をどこへなりとも誘ってくれる。
今も玲蘭の蝶の体は、優美に翅を動かして玲蘭を愛しい旦那様のもとへと送ってくれる。やがて玲蘭は高度をさげて草原すれすれを跳び始める。上空から愛しい人を認めたからだ。
高い丈を持つ草をかき分け、馬の下半身を持った男たちが一心不乱に駆けていた。どっしりとした輓馬を想わせる馬の体で緑の大地を蹴り、男たちは草原を駆ける。その先には、樹で編まれた龍がいた。
否、草原から無数に生え出る木々が龍の形をとって、人馬の男たちから逃げているのだ。男たちは手に弓矢をつがえ、樹の龍めがけて放つ。矢じりに火を纏ったそれは、龍の体に突き刺さり龍を赤く照らしていくのだ。
だが、生木は簡単には燃えない。火矢は陽動だ。攻撃を受けて怯んだ樹の龍に大剣を振り回す人馬が襲い掛かる。灰の美しい毛並みをした馬の下半身と、引き締まった褐色の肌を持つ人の上半身を併せ持った人馬だった。
玲蘭の夫、イェイルだ。一族の長である彼は、大地の化身である龍を鎮める役割を担っている。彼の剣舞に合わせ、後方に控えていた人馬の女たちが弦楽器を奏で、歌を歌い始めた。
それは、神たる龍を鎮める歌だ。
龍は、この大地の力の化身ともいえる存在である。その龍が通る場所を人々は龍脈と呼び、その龍脈の恩恵を求めて、人々は龍脈の側に街をつくる。
けれど、それがときに龍の脅威となることがあるのだ。街が大きくなりすぎて、龍脈を知らず知らずのうちに塞いでしまう。
そうなると、龍は通る道を失い暴れだす。大地の化身ともいえるそんな龍を鎮めるのが、人馬こと鎮め一族であるイェイルたちの仕事なのだ。
龍脈を塞ぐ街の拡大を防ぐために彼らは凶賊となって人間を襲い、荒ぶる龍を刃と歌をもって鎮める。
玲蘭もそんな龍脈の上に立つ街から連れてこられた。一族の血をひかない人の玲蘭がこの鎮めの戦いに加わることを許されることはなく、彼女は一族が龍を鎮めているあいだ、一族の天幕を守るために留守を任される。
けれども、玲蘭にとってそれは不満だった。
夫であるイェイルは酷い怪我をして帰ってくることもある。そんな彼の安否が知りたくて、玲蘭は蝶となって彼の戦いを見守りに来るのだ。
女たちの歌が奏でられるたび、龍の動きが鈍くなっていく。玲蘭の夫は刃を背中に背負った巨大な鞘に納め、後ろ足を折る。
しゃがみこんだ彼は頭を垂れ、大地の化身である龍に恭順の意を示す。他の人馬たちも同じく後ろ足を折り、恭しく頭を垂れた。
樹の龍が止まる。幹でできた咢を開き、龍は優しく唸る。彼らの態度に龍は怒りを鎮め、動きを止めた。
ほうっと心の中で蝶である玲蘭は胸をなでおろす。この間の戦で、胸に大きな切り傷を負って帰ってきた夫の姿を思い出して、玲蘭は気が気ではなかったのだ。これで愛しい伴侶は、怪我をすることなく無事に自分のもとへと戻ってくれる。
そう思った瞬間だった。止まった龍に火矢が放たれたのは。
無数の蹄の音がした。
馬に乗った人間たちが、矢をつがえ前方からこちらへと駆けてくる。彼らは動きを止めた龍めがけ、容赦なく火矢の雨を降らせた。矢の雨は、龍の前に膝まづく、人馬たちにも襲い掛かる。玲蘭は無我夢中になって、夫のもとへと飛んでいた。だが、火矢は残酷にも顔をあげた彼らを貫いていく。イェイルは大剣を振り回し火矢を避けるが、そんな彼に馬に乗った人の兵が襲い掛かっていた。
心の中で玲蘭は悲鳴をあげる。イェイルは自分に襲い掛かる騎兵と刃を切り結んでいた。相手はなかなかの手練れらしく、馬から跳び下り大胆にもイェイルの懐に跳び込んできたではないか。
ぎょっとするイェイルの首めがけ、刃が放たれようとした瞬間、玲蘭は彼らのあいだへと割って入っていた。白刃の刃が、玲蘭の美しい翅を引き裂いていく。劇痛が体に走り、玲蘭は複眼に眼を見開く夫を映しながら意識を手放していた。
夢を見ていた。夢の中で玲蘭は人の体の中に入っていて、人馬の老婆と共に糸を紡いでいる。草から採れる麻糸を撒きながら、老婆は好々爺然とした笑みを浮かべ、玲蘭に語り掛ける。
「イェイルは気難しい性格だから、きちんと嫁を貰ってくれるのが心配だった。まさか、瑞祥を持つ乙女を伴侶に迎えるなんでなんてめでたいことだ」
麻糸を撒く作業は、玲蘭にできる数少ない仕事の一つだ。嫁である玲蘭は、そんな自分に嫌な顔一つせず仕事を教えてくれる姑が好きだった。そんな姑に玲蘭は微笑む。
「そうそう、その笑顔。嫁に来るときにあんたはよく笑っていたね。笑顔を持つ花嫁は瑞祥の証なんだ。笑えば笑うほど、そこには善き大地の気が、善き龍の気が集まって周囲を豊かにする。我ら鎮め一族の女たちは龍脈に集う竜が悪しき気に染まらぬよう、よく笑うのが仕事なんだ。龍はね、歌も好きなんだ。まだあんたは一族の他のものに認められてないけれど、そのうち鎮めの戦にも参加できるだろう」
そういって祖母は不思議な旋律の歌をうたう。訊くと、それは鎮めの戦で歌う、女たちの歌だった。鎮めの戦とは、龍を鎮める戦のことだ。人の街が大きくなり龍の通り道である龍脈を塞ぐと、道を失った龍たちは暴走して周囲のものを壊し出す。
そんな龍を鎮めるのが、玲蘭の嫁いだこの人馬の一族の役割であり、宿命でもあった。彼らは龍脈に沿って旅をし、気の乱れを正すことを一族の生業としている。族長の嫁となった玲蘭は姑であるマルマキには気に入られていても、他の人馬たちとは口もきけない有様だ。
なにより、言葉が通じない。一族をまとめるイェイルとマルマキは人の言葉が分かるが、人馬たちは自分たち独自の言語を持っており、それが分かる者は人の中にも稀にしかいない。狩りと放牧、そして鎮めの戦で忙しいイェイルに代わり、マルマキは必死になって鎮めの一族の言葉を教えてくれるが、玲蘭は他の人馬たちに挨拶をするのがやっとの状態だ。
会話など夢のまた夢、それに話しかけても彼らは大きく眼を見開いて、玲蘭から顔を逸らしてしまうのだ。
ここに来て、本当に自分はよかったのだろうかと玲蘭は不安になる。
初めは、自分の生まれ育った街を襲った人馬たちが恐ろしかった。強がって笑いはしていたが、それも上辺だけのものだ。
けれど彼らと過ごすうちに、彼らの人柄や価値観にふれ、玲蘭はその想いを改めていった。
大地に寄せる彼らの想いはなによりも強く、彼らのおこないがなければ、人はとっくの昔に暴走した龍たちによって滅びていたかもしれない。自分たちが平和な生活を送れるのも、龍を沈めてくれる彼ら鎮めの一族のお陰だ。
何より、夫となったイェイルは玲蘭にとてもよくしてくれる。帰るたびに、街で売っている織物や宝飾品も玲蘭のために買ってきてくれたり、マルマキと一緒になって玲蘭に歌を教えてくれたり。
鎮めの一族は、祖先の骨で作った弦楽器を奏で暴れる龍を鎮める。その弦楽器の演奏を帰ってきた夫に教えてもらうのが、玲蘭の何よりの楽しみだった。
白い月明りの下で、足の不自由な玲蘭は夫の背に乗り拙い演奏を草原で披露する。すると、どこからともなくマルマキのしゃがれた歌声が聞こえてくる。
月光に照らされる銀の草原に、イェイルの蹄の音と、玲蘭の演奏と、マルマキの歌がこのごとく反響する。
玲蘭はその瞬間がとてつもなく好きだった。自分の存在を、新たな家族となった夫と姑が歓迎してくれているようで、心が温かいもので満たされるから。
そんなかけがえのない姑が亡くなったのはつい最近のこと。彼女の白い骨は玲蘭のために弦楽器となり、イェイルと共に住まう天幕の中に飾られることとなった。
マルマキがいなくなってから、玲蘭は天幕の留守を一人で預かるようになる。夫のいない寂しさに一人涙し眠るとき、彼女はたびたび蝶になって夫に会いに行く夢を見た。
それが現実のことだと気がついたのは、ほんの最近のこと。それからというもの、玲蘭は夫の様子を蝶になって見に行くようになったのだ。
長い夢が終わる。
夢で語り合った愛しい姑のことを思い出して、玲蘭は玻璃のように美しい眼に涙をためていた。蝶の姿となって夫の様子を見に行った自分は、夫を襲った兵に切られたはずではないか。そう思いだして、玲蘭は急いで寝そべっている寝台から起き上がっていた。
長い玲蘭の射干玉色の髪が、視界のすみを横切り、天幕の布を照らす夕陽が玲蘭に時間の経過を教えてくれる。
どうやら自分は、無事体に戻ることができたらしい。草原に建てられた天幕の周囲は静かで、虫の声すら聞こえない。
嫌な予感がして、玲蘭はそっと不自由な脚を天幕の床へとつけていた。つま先立ちに近い朧げな足取りで、天幕の入口へと向かう。入り口にかかる布を掴み支えとした玲蘭は、そこでとんでもないものを見た。
草原が燃えていた。その燃え盛る紅蓮の中に、滅茶苦茶に暴れまわる巨大な龍がいる。八の字を描く長い龍の体は大地から生える無数の樹木により構成され、燃え盛る炎にその身を浮かび上がらせている。
はるか遠くに見える街はその炎に飲まれ、人々の叫び声が遠いこの天幕まで轟いてくる。あまりの恐ろしさに、玲蘭は震えながらへたりこんでしまっていた。
龍が暴れている。おそらく、街を襲う鎮めの一族たちの行為を良しとしなかった人間たちが手を組み、彼らを襲ったのだろう。
人間はどうして彼らが人の街を襲うのか、ほとんど知らないし、その理由を知ろうともしない。
その結果が、大地の龍の暴走だ。行先を失った大地の力の化身である龍は、その身を生んだ母たる大地を燃やし、傷つけていく。そうならぬよう、イェイルたちは龍脈を見守ってきたというのに。
「あなた……」
イェイルは無事なのだろうか。この炎の中、鎮めの一族たちは無事に逃げることができたのだろうか。最悪の事態が脳裏を過ぎり、玲蘭は玻璃の眼から涙を流す。
「無事だったか、愛しい妻よ」
そんな玲蘭に声をかけるものがあった。
愛しいその声に玲蘭は顔をあげる。浅黒い人の体を持った人馬が、整った顔立ちに笑顔を浮かべ玲蘭を見下ろしている。
「あなた……」
ああ、愛しい人が無事だった。喜びのあまり、玲蘭はイェイルの逞しい馬の体に抱きついていた。そんな彼女を人の手で優しくなで、夫は口を開く。
「心配させて申し訳ないが、あれを何とかしなければここも火に包まれてしまう。他の同胞たちはどうなっているかも分からない。助けてくれないか、我が妻よ」
真摯なイェイルの眼が、しかと玲蘭に向けられる。玲蘭はその眼差しを見つめ返し、静かに頷いていた。
義母マルマキの遺骨でできた弦楽器を構え、夫であるイェイルに横向きに跨った玲蘭は炎の中で暴れまわる樹の龍をじっと見つめていた。
「玲蘭っ」
業火を駆けるイェイルが玲蘭を呼ぶ。玲蘭は弦楽器の弦にそっと長い爪をあて、音楽を奏でていた。
玲蘭が歌う。
彼女の射干玉の髪を業火の巻き起こす風が翻し、彼女の歌声を草原に轟かせる。
それは、あまたの生命を賛美する歌。生命を育む大地に感謝をささげる歌。暴れる龍に、恭順の心を伝える美しくも儚い旋律の歌だった。
イェイルがいないあいだ。玲蘭はマルマキの教えてくれた歌と音楽を、繰り返し繰り返し練習した。いつか、鎮めの戦に自分も一族の一員としてでられるよう。マルマキのように、生まれてくる我が子に、この鎮めの旋律を伝えられるよう。
妙なる彼女の音楽は、燃え盛る草原を駆け抜け暴れまわる龍へと届く。その龍へと玲蘭を乗せたイェイルは駆けていくのだ。
龍の動きがとまる。イェイルは大声をだして、玲蘭に自身の背中に捕まるよう呼び掛けた。玲蘭が背中にしがみつくと同時に、彼は背中に背負う鞘から大剣を引き抜く。
夕闇は去り、あたりは猫の爪のように細い月によって照らされていた。その月の光を帯びたイェイルの大剣が、巨大な龍の首へと襲いかかる。美しい弧を描くその攻撃は、龍の首を見事に一頭した。
月光を帯びた刃の輝きを受けながら、大きな首が瑠璃色の夜空を舞う。その首を見つめながら、玲蘭は物悲しい歌を奏でる。
亡くなった者を悼む鎮魂の歌を。
その歌がやむと同時に、龍の首は地へと落ちた。
妙なる女の歌声が、美しい旋律と共に蒼い草原に広がる。射干玉の髪を風にゆらし、草原に坐した玲蘭の周囲には、人馬の子供たちが集っていた。あれから早数年、玲蘭は一族の一員として認められ、今では一族の子供たちに鎮めの歌を教える仕事を受け持っている。
黒い子供たちの瞳が、ひたと玲蘭に向けられ、玲蘭の歌声を聴くごとに美しい輝きを宿す。
玲蘭が演奏をやめると、子供たちは練習用に作られた木製の弦楽器を構え、拙い声で歌をうたうのだ。
それは、玲蘭があの日紡いだ鎮めの歌。その歌が愛らしい子供たちのそれとなって草原に広がっていく。
玲蘭もまた、そんな子供たちの歌に合わせ、義母の骨で作られた弦楽器を奏でてみせしる。
夫のイェイルは、今日も鎮めの戦に向かっている。彼の無事を願い、玲蘭は弦を弾き、音を奏でるのだった。
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