Episode09

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Episode09

『恥の多い生涯』という有名な小説の一節を唐突に思い出していた。  映画化されたとかで話題になっていて、久しぶりに読み直そうかと思ったところ、リビングのテーブルの上に、まさにその文庫本が置かれているのを見た。『映画化決定!』とでかでかと書かれた帯が巻かれているところを見ると、つい最近日向が買ってきたものらしかった。日向もこういうのを読むのか。丁度手に取ったとき、リビングにやって来た日向が言った。「あっ、樹も読む? もう読んだ?」  読んだのは十年以上前だった。 「お前は?」 「あー、途中までね。でも読みたいなら先読んでいいよ」  どうやら挫折したらしい。ぺらぺらと頁をめくる。あの頃読んだものより字が大きくなっている。 「本とか買ったの何年ぶりだろ。あらためて読むといいよな、勉強になる。これ読んで初めて知ったよ」 「何が」 「写真ってさ、一葉、二葉、って数えるんだな」 「は……」  力が抜けた。  厭世文学の最高傑作を読んで一番に出る感想がそれか。まさか太宰もそういう読まれ方をされているとは夢にも思っていないだろう。しかも写真が一葉、二葉、って……物語の本当の本当に序盤じゃないか。おそらく日向は十頁も読んでいない。この調子じゃどうせ最後まで読んだところで物語の真髄なんて分かりっこない。なら初めから読まなくて正解だ。あらためて日向を見ると、『失格』とは正反対のほがらかな、きらきらした表情をしていた。いや、たとえ『失格』と烙印を押されても変わらず、日向はきらきらしているんだろう。常に泥水をかぶり続けているような、何でもない一歩でも全力でひきずらないければならないような感覚なんて、どれだけ言葉を尽くしたところでたぶん、日向には分からない。「分かるよ」とは言ってくれるだろうけど。 「あっ、樹、今ちょっと馬鹿にしただろ」 「したけど」 「したけど、って何だよ。はっきり言うなあ。そういうときは『してないけど』『嘘嘘絶対したー』『してないって』って、そういうラリーをすべきだろ」  はっ、とまた思わずため息が漏れてしまう。それなのに日向はにこにこしている。 「これ、久しぶりに読ませてもらう」  と、文庫本を日向から遠ざけるようにする。『えんせい』と聞いたら、『遠征』としか変換できないような日向にはこれは、似つかわしくない。ふれさせたくない。日向が買った本なのに、まるで自分の持ち物にべたべた手垢をつけられるのを防いでるみたいだった。日向に太宰をよごされたくないのか。それとも太宰に日向をよごされたくないのか。どちらなのかよく分からなかった。
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