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6.染み
どうしてもこの人だけは掴み切れなかった――。
沙保について、卒業文集にそう書いたのはクラスの学級委員だった。
誰とでも当たり障りなく接していたつもりだったのに鋭いというべきか、最初に読んだ時、もっとましな言葉はなかったのかとさすがに複雑な気持ちになった。だが同時に、何となく腑に落ちた。ずっと「ふつう」でない本当の自分を隠すことしか頭になかったのだから、そう思われたって不思議はなかった。
今では彼女がどうしているのかはもちろん、自分が何を書いたのかも、文集の行方すら分からない。でも、この一文だけは妙に頭にこびりついて離れなかった。
水族館に行った翌日、燈子との別れ際に何となく不安に駆られ、沙保はおそるおそる口を開いた。
「……いなくなったりしないよね?」
「唐突になによ」
「……これからも会ってくれる?」
「沙保がそうしたいなら」
意味深な言葉の意味を問う暇もなく、燈子は「またね」と微笑んで背を向けた。
どことなく心細そうな後ろ姿を追いかけそうになって、沙保はハッとして足を止めた。華奢な背中を抱きしめて引き止める権利なんか、自分にはないのにと。
――そろそろこんな事やめて恋愛したくなった? だから恋人ごっこなんて言い出したの? 思い出が欲しいなんて言ったのは別れを意識しているから?
そんな事が頭の中を渦巻いて霧の中にいるようだった。長い間に茶色く染みついた「傷つきたくない」という感情ひとつを残して、どうしたいのかも、どうするべきなのかも分からなかった。本当は見ないようにしていただけなのかもしれないけれど、沙保自身も自分を測りかねていた。
奈緒の手紙を受け取ったのはそんな時だった。とはいえ、沙保が通話ボタンを押すことが出来たのは、それから一週間は経った頃だったけれど。
二連休の最初の日を燈子の部屋で過ごし、沙保は俯せで眠る燈子の下からそっとすべり出た。秋も深まってきて、外はもう薄暗い。優しい温もりに、汗ばんだ髪の匂いに、かすかに上下する白い肌に、この部屋の全てに後ろ髪を引かれたけれど、こればっかりは仕方がない。奈緒と予定が合ったのは翌日の土曜日だけだったのだ。
ベッドを下りようとすると、もぞもぞ毛布の動く気配がして、腰に燈子の両腕が巻き付いてくる。そして沙保が脱ぎ散らかされた服に手を伸ばした瞬間、きゅっと腕に力がこもった。
さりげなく誘いの連絡をくれたことも、こうして甘えてくることも何もかもいつも通りで、沙保は密かにホッとした。振り返ると、まだ眠そうな顔で「いつもなら泊まっていくのに」と言いたげな燈子と目が合った。
「明日も休みでしょ? 泊まらないの……?」
「明日は予定があるから帰るよ」
乱れた前髪を優しく撫でると、燈子の目もとに長いまつ毛の影が落ちた。
「そうね、沙保にも都合があるものね」
「さびしい?」
「……さびしいから行かないでって言ったらそうしてくれる?」
ぽろりとそんな言葉がこぼれでた事に驚いていると、燈子は我に返ったように慌てて言い直した。
「ごめんなさい。分かってる、こんなのルール違反よね」
「何の予定か気になる?」
沙保がふふっと笑みをこぼすと、燈子は冗談めかして唇を尖らせた。
「どうせ他の女に会うんでしょ」
「遊ぶならわたしだけにしなさいって言ったの燈子さんでしょ。それにただの同級生とお茶するだけだよ?」
「でも女でしょ?」
いたずらっぽく燈子の目が瞬く。沙保がこの表情に逆らえないのを燈子はよく知っていた。諦めてベッドに戻ると、沙保はじゃれついてくる燈子の肩口に顔をうずめた。
こんな馬鹿みたいなやり取りをずっとしていたい――。
そう思ってぎゅっと華奢な身体を抱き寄せると、帰らないの? と耳もとでとぼけた声がした。
「この期に及んでそれ聞くかな。人恋しいんでしょ、分かったよ」
「別にそういう訳じゃないけど……。じゃあ他の女に会わない?」
「はぁ、会うけど、帰るのは明日の朝にする」
「ふふ、夜ご飯は生姜焼きがいいな」
「はいはいごはん目的ね。どうせ冷蔵庫お酒しか無いんでしょ?」
「だってどうせ一緒に買い物行くかなって」
沙保の深いため息を華麗に聞き流し、燈子は満足げに笑った。こんなに手がかかるのに嫌いになれない。むしろもっと色んな顔を見せてほしいと思ってしまう自分に、沙保は心の中でもっと深いため息をついた。
スーパーからの帰り道、燈子はビニール袋を楽しげに揺らしながら言った。
「同級生って大学の?」
「ううん。高校の」
「沙保の高校の話なんて初めて聞くわよ。女子校だっけ」
「あんまり思い出したくないから……かも」
「本当にただの同級生?」
「高校まで誰にも自分のこと話してなかったんだから、どうにもなりようがないでしょ?」
そんなことを聞いているのではないことは分かっていたけれど、奈緒に淡い片想いをしていたとは言えなかった。予想通り燈子は納得のいかない顔をしていた。でも燈子の反応を試すようなことをしたくはなかった。
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