6.染み

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 翌朝、沙保はまだ眠気眼の燈子に別れを告げて帰宅した。身支度を済ませ、電車に乗って待ち合わせ場所に向かうと、奈緒の姿はまだなかった。 最初は母に何と言われようとその気なんかなかった。  ――奈緒にもう一度会ったらきっと、忘れようとしたかつての自分も、奈緒への想いも、清算できずに封じ込めてきたものが溢れ出てきてしまう。それならこのまま何もなかったことにしてしまおうか。  一番にそう思った。そして、セフレだとはっきり言われてもなお、燈子に対して後ろめたいような気持ちもあった。自分の気持ちと向き合わず、いまだに奈緒がありのままの自分を受け入れてくれるかもなんて甘い期待をしていると。  それでも奈緒に連絡することにしたのは、そんな過去への感傷や未練にいい加減ふん切りをつけたかったからだ。そうは言っても心の中で完全に割り切れたわけではなかったけれど。  唐突に両手で肩を叩かれ、沙保の身体はびくりと跳ね上がった。ふわりと揺れたケーブル編みの白いマフラーは、去年か一昨年のクリスマスに燈子がくれたものだ。  彼女は出会ってから毎年、クリスマスやイベントごとに付き合ってくれる。恋人じゃないのがむしろ不思議なくらいだ。 「さーほ。待った?」  小鳥がさえずるような軽やかな声に振り向くと、前に電車で会った時よりもリラックスした雰囲気の奈緒が立っていた。  何も変わらない声の響きがたまらなく懐かしいのに、昔のようにあだ名ではなく当たり前のように本名を呼ばれたのが、勝手だと思いつつ少しだけ寂しかった。奈緒だけが呼ぶその名が何となく特別な気がして好きだったから。  つい今朝まで燈子と抱き合って眠っていたのが不思議に思えるくらい、六年前に引き戻されていく自分がいた。  土曜日の昼下がり、数年間の空白なんて無かったように、沙保と奈緒はランチをともにしながら近況を語り合った。  奈緒は勤めている旅行会社で新規プロジェクトのメンバーに選ばれたと目を輝かせていた。暇を見て語学や資格の勉強に勤しんでいて、いずれは海外事業に携わってみたいという目標もあるらしい。  沙保は?と問われて、沙保は一瞬言葉に詰まった。同じ場所で、同じ制服を着て、同じ時間を過ごしたのに、六年経った今では全く違うものを見ている。分かっているつもりでも、いざ目の当たりにすると、戸惑いが抑えられなかった。  沙保は動揺を隠して、大学の演劇サークルの先輩に誘われた劇団のオーディションに合格し、今はそこで活動していると早口で話した。演じるのも好きだけれどいつか劇作をしてみたいという夢まで話してしまったのは、いくらか奈緒に張り合う気持ちがあったからかもしれない。  だが、そうやって口にした言葉にどれほどの現実味があるのだろうと沙保は愕然とした。  自分で選んだ道とはいえ、チャンスは限られていて、毎月まとまった給料も無ければ、ボーナスもない。だからアルバイトを辞められない上、毎公演のチケットノルマもあって、生活はいつまでも安定しない。明確な目標に向かって着実に歩んでいる奈緒に比べて、あまりにも自分の足もとはおぼつかなく思えた。
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