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沙保は黙って、長い髪が簾のように落ちた背中をさすった。ゆっくりと燈子が振り向くと、見開かれた目はじわりと滲んだ。みるみるうちに涙があふれ、ぽろぽろと頬を伝う一滴一滴が小さな宝石の欠片のようだった。
「……ごめんなさい。いい年した大人が見ず知らずの子にこんな情けない所見せて、気を遣わせちゃって」
「謝ることなんかないです。お姉さんの髪、綺麗だからつい触っちゃった」
急拵えの言い訳だったけれど、濡れた唇の端がほんの少し上がって沙保はホッと胸を撫で下ろした。
優しいね。小さくそうつぶやくと、燈子は目尻の涙を拭ってそろりと視線を上げた。
「もう少しだけ甘えてもいい……?」
かすれた声でそう言うと、燈子は両腕に顔をうずめた。沙保は汗でシャツの張りついた背中を不器用にさすり続けた。まるで同志にでもするように。
燈子が落ち着くのを待って店内に戻ると、宴会はそろそろお開きという雰囲気だった。
何人かは少し目を離した隙に座卓に突っ伏していて、沙保を含め近所に住んでいる数人が分担して、彼らを自宅に連れ帰ることになった。沙保の家にはサークルメンバーの瑠璃と、なぜか燈子が片思いしていた実花まで泊めることになってしまった。金曜の夜で羽目を外しすぎたのかもしれない。
家に近いこの界隈で飲むことはよくあったから、こんなのはいつもの事だ。さすがに、見ず知らずの他人を泊めるのには多少抵抗があったけれど。
むにゃむにゃとうわ言のように何かをつぶやいている実花に、燈子は心配そうな視線を送っていた。それを見ていたら、「良かったら一緒に来ませんか」と声をかけないわけにはいかなかった。
実花が酔いつぶれなかったら、燈子を家に誘わなかったら、燈子が応じなかったら、きっと違う未来があったはずだ。
気を遣って乗せてもらったタクシーの中で、沙保は助手席に座った。燈子は、あえて後部座席の真ん中に瑠璃を座らせ、自分は窓ガラスに左の頬をくっつけていた。律儀にも、実花の近くにいてはいけないとでも言うように。
三階の沙保の部屋に足もとのおぼつかない二人を運び込むのは、女二人では中々大変な作業だった。ワンルームの部屋は大人が四人も入ればもう一杯で、床のほとんどを酔っ払いたちが占拠していた。
二人にタオルケットをかけた後で狭いシステムキッチンでコーヒーを飲んでいる間も、燈子の視線は時おり気遣わしげに酔っ払いが寝ている方へ向けられた。
気になるなら自分の家に連れて帰れば良かったのに――。
沙保がそう言いたげなのを察したのか燈子はこう言った。
「振った相手の家に行くなんて向こうが嫌でしょ。沙保ちゃんには申し訳なかったけど」
「何か言われたんですか?」
「……ずっと友達やってた裏でそんなふうに自分を見てたなんて、気持ち悪いんだって。ありがちだよね」
ソファーで寝息を立てている女性は、ばか騒ぎしている学生にもひまわりのような笑顔を振りまいていて、人当たりの良さそうな人に見えた。そんな事を言うようには思えなかったけれど、同性に告白されたヘテロの反応はそんなものだろう。
「……辛かったですね」
「私が彼女にしてあげられるのは離れることだけ。だから悪いんだけど始発が動き出したら、あの子が起きる前にすぐ出ていくね」
それ以上安易な同情の言葉もかけられなくて、沙保はただ燈子の華奢な手をさすっていた。
「沙保ちゃんはさ、」
ふいに燈子の声が固くなった。
「呼び捨てでいいですよ」
「じゃあ沙保、沙保は女の人が好き?」
こんなに真っ直ぐに、しかも確信を持って聞かれたのは初めてで、不思議となんでと聞く気にはならなかった。驚いた沙保が曖昧に頷くと、「だと思った」と燈子はつぶやいた。その眼差しはうって変わって誘うような光をたたえていた。
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