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「好きな人――付き合っている人はいる?」
沙保が曖昧にリビングのほうに視線をやったのを見て、全てを理解したというふうに燈子は眼差しだけで頷いた。
「サークルに入った時から瑠璃のことが好きだけど、彼女は同性異性ともにモテるし、つねに誰かと付き合ってるから……」
勇気を出していたなら、もしかしたらその中の一人にもなれたかもしれない。けれど瑠璃は一年の時からずっと高嶺の花で、正直気後れしていた。けじめをつけないでいるうちに、今や好きなのかどうかさえはっきりとは言えない。
「じゃあさ、お姉さんと遊んでみない?」
こういうの言ってみたかったんだよね、と冗談めかして笑ってから燈子は沙保に「どう?」と返事を促した。
「やけくそですか」
「そうかも」
「……ここで?」
「ここで」
「……いいですよ」
どうしてか瑠璃と実花がすぐ側にいるのも気にならなかったし、拒否感はなかった。むしろ実花に、あなたが気持ち悪いと言ったのはこんなにいい女なのだ、と言ってやりたいような気分だった。お互いに後になって虚しくなるのは分かりきっていたけれど、止まらなかった。
アプリやネットで知り合った人と会ったこともある。その中の何人かとはしばらく続いたりもした。でも、キッチンの隅で服を着たまま隠れて抱き合うなんて、後にも先にもこの時だけだった。
ぱちりと長いまつ毛が上を向いて、甘えるように燈子の目がじんわりと潤む。どう振る舞えばいいかは言われるまでもなかった。
顔を近づけると、「酒くさいから」という理由でキスは拒まれた。そんなもんかと特に気にせずに、青白い蛍光灯の下でムードも何もなく、沙保は汗の香る首筋に口づけて、そっと舌を這わせていった。
「……んっ、」
一瞬粟だった肌と押し殺した声に、どうしようもなくぞくぞくする。かすかにべたつく肌は、シャツのすそにすべり込ませた指先に吸いつくようだった。
はだけた服とブラをたくしあげて胸もとに唇を寄せると、汗とまろやかな肌の匂いでむせかえりそうになる。ツンと上を向いた乳首を舌先で転がしながら、下着に手のひらを差し入れると、ぬるりと蜜が指に絡んだ。
「やらしいですねこの状況で」
「……そっちこそ」
この非日常的な状況に興奮していたのは沙保も同じだった。歳は離れているけれど、自分の指先で震え、必死で声を殺そうとする燈子を素直にかわいいと思った。でも同じくらい悔しかった。
無意識に溢れた涙が、沙保の頬を伝って燈子の剥き出しの肩に落ちた。
「……何で沙保が泣いてるの」
沙保の前髪を燈子の指が優しく梳いた。
「……気持ち悪くなんかないです。きれいだし、かわいい。こんなに魅力的なのに」
うまい言葉が見つからずにぎこちなくそう言うと、燈子は黙って小さな子をあやすように沙保の額に口づけを落とした。
起きると、腕の中にかすかなぬくもりだけを残して、燈子の姿はもう無かった。そういえば、夢の中でシャワーを浴びる音が聞こえた気がする。
床で寝ていた二人を起こし、送り出すと急に部屋ががらんとしたように感じた。もしかしたら瑠璃と距離を縮めるチャンスだったのかもしれないけれど、そんな事は頭に浮かびさえしなかった。昨夜のことは全て夢だったかのように思えた。
外の空気に触れたくて買い物にでも行くつもりで、沙保は冷蔵庫の前に立った。めんつゆが切れていたはずとぼんやりした頭で考えながら。
その時だった。
――え?
冷蔵庫の白い扉に見つけたのは、マグネットで留められた買い物メモのような顔をした紙片。それが燈子と沙保の始まりだった。
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