1.再会

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1.再会

 沙保は猛烈に後悔していた。  もっと早くに家を出るべきだった。満員電車が苦手なのも、夕方のこの時間帯が帰宅ラッシュなのも今に始まったことじゃない。そんなことは分かり切っていたのに。  人ですし詰めの電車内では距離感なんて言葉はあって無いも同じだ。今だって沙保は、見ず知らずの肘に小突かれ、電車が揺れるたび目の前の女子学生のポニーテールに顔面をくすぐられていた。その上、上半身を分厚い肉の海に挟まれて、地面にまっすぐ立っていることすらおぼつかない。  こういう時は感覚のスイッチをオフにしてやり過ごすしかない――。  沙保はそう諦めて小さくため息をついた。  ちらちらと視界に入るやたらと光の点滅するスマホゲームの画面も、夏の終わりの蒸し暑い空気と汗と香水の入り混じった酸っぱいような匂いも、すべて取るに足らないノイズ。そう思わなければやっていられない。だからその日の偶然も、そういうよくあるノイズの一つとして処理されるはずだった。  唐突に何ものかに肩を叩かれて、その明らかに意思を感じさせるリズムに沙保は我に返った。だが振り返りたくても首をひねる余裕なんか無くて、沙保は気にかかりつつも押し出されるようにして目的の駅に降り立った。  どこからかふわりと潮の匂いが香り、海が近いことを知らせていた。やっと混雑から解放され新鮮な空気を胸に吸い込むと、今度は腕を掴まれた。  ひやりと冷たい汗が背筋を伝った。女性にしては高めの身長、短い髪にサイドを刈り上げている沙保は後ろ姿を男性と間違われることも少なくなかった。それでも痴漢と間違われるなんて面倒なことは今まで一度もなかったのに。  沙保はげんなりしながら後ろを振り返った。相手の顔を見る前に、聞き覚えのある声が響いた。 「沙保だよね?」  記憶の中の面影よりも大人っぽい出で立ちに変わってはいても、一目で分かった。 「……まろ?」  もうとっくに忘れたつもりでいた高校時代のあだ名は、つい昨日会ったかのような顔でこぼれ出た。「まろ」こと奈緒と会うのは高校の卒業以来だった。  やんごとない、という言葉がぴったりの品よくおっとりした笑顔で実は毒舌という、「まろ」というゆるキャラが同級生の間で流行ったのは六年前の高校三年の頃だった。雰囲気がそっくりで、奈緒は皆にそう呼ばれていた。  笑うと糸のようになる奈緒の奥二重のまぶたは、今ではアイシャドウできれいなグラデーションに彩られていた。高校の頃よりすっかりあか抜けて見えるのに、かえって記憶の彼方に消えていたゆるキャラの姿形がはっきりと思い出されるのが不思議だった。 「何年ぶりかな」  言葉とは裏腹に、奈緒の親しげな話しぶりは歳月を感じさせないものだった。沙保はなんとか平静を装って、声が上ずるのを咳払いでとっさに誤魔化した。 「ひ、ひさしぶり。痴漢に間違われたかと思ったよ。この見た目だもん」  数年ぶりに会ったにしては日常的すぎる反応をやっと返して、沙保は自分でそのぎこちなさに苦笑した。年月はそのくらいの余裕は与えてくれたけれど、バクバクと速まる鼓動まで抑えてはくれない。 「よく分かったね」 「二度見したよ、雰囲気が変わってたから。なんか吹っ切れた?」 「ああ、まあうん、それはそうかも……」  吹っ切れた、というのは確かにそうだった。  奈緒が知っている高校までの沙保は、ずっと髪を肩まで長さのあるウルフカットにしていた。  中途半端にはねる襟足なんか切ってしまえばいいのに。奈緒にはよくそう言われていた。けれど当時は、頑なにそのままでいなければいけないような気がした。まるで何かのジンクスにでもすがるように。
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