贖罪にナイフを

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「……お前は、オレを、見てない。好きじゃ、ない」 「言わなかったっけ? 好きだって。てめえがコウちゃんだろ、違うのかよ」  三矢はかぶりを振った。分からない、それを示す為に。 「分かんねえなら教えてやる」  浅野が一気に近付いた。三矢の胸ぐらを強く掴み、そのまま喉に腕を押し付ける。壁と浅野の腕に首が挟まれ、喉が詰まる。また三矢に暴力を振るう。この男は以前そう言った。奪うしか出来ないのだと。奪ってもいい、何でもいい、こうして今オレだけを見てる、それがいい、なのに何で。教えてくれよ、分かんねえよ。 「あんたはな、自分が消えて許される道探してんだよ。ごめんってまた言わなくて済む逃げ道を、俺に言わせようとしてんだよ。昔のあんただけを見てんなら、今のあんたなんて要らねえって、俺に言わせた方が簡単だろ。寂しかったからそん時抱きたかっただけって、それが今欲しい答えだろ。離れても続くなんておめでたいこと、最初から考えてなかったのあんたの方だろうが。昔っから無責任な愛情と同情だけ寄越しやがって。てめえはそんなもんだ」  浅野の手に力が籠もる。喉が締まる。息が詰まる。苦しくて酸素を探そうとする。浅野の目が、幼い頃一人きりだった時の目と重なる。何も語らず、自分のことは喋らず、思考の読めない瞳と表情だった。だけれど、コウちゃんと初めて呼ばれた時のことは今でも覚えている。初めて食べるお菓子を口に含んだような、少しだけ照れ臭そうな口調で、凄く甘いものだった。無責任な愛情、出任せな同情、それって多分、今も昔も変わらない。浅野を傷付けたのはオレだ。これを言わせたのはオレだ。 「分かったら帰んな」  ふっと喉の圧迫が消え、急に入ってくる酸素に噎せる。体を屈めて膝を付いて喉を押さえ、目だけで浅野を探した。上を見上げるとうっすら揺れる浅野が見える。 「ばいばい、コウちゃん」  そう言って背中を見せた浅野の、もう表情さえ分からない。顔を見ることも出来ない。話すことも、もうない。 三矢はゆっくりと立ち上がり、リビングのドアを開けて廊下を歩く。肌寒くて一瞬だけ身構えた。それから玄関でスニーカーを履いて、もう一度だけリビングの方を見た。浅野の姿はない。玄関を開けた。重たいドアを押して、外に出る。また風が吹いた。海が近いから風が強くてとにかく寒い。廊下の比じゃない。コンクリートを歩くとスニーカーの擦れる音が聞こえて、それは雑音のようで喧しくて、耳を塞いでしまいたくなった。音が響く。他に誰も居ないからだ。まだ遅い時間じゃない。午後八時を過ぎたところだ。それでも居ない。同じだ。全部同じだった。ついこの間ここに来た時と何も変わらない。廊下の肌寒さもドアの重さも擦れる雑音も、何も何も変わらない。 それなのに何で。  何で全部が重たくて苦しくて喉が詰まりそうになるんだろう。  最初から続くなんて思わなかった、それはお前だってそうじゃないの? 離れて続くなんて思わなかった、それもお前だってそうじゃないの? じゃあ何て言えば良かったんだよ全然分かんねえよお前のことが分かんねえのに言葉なんて見付かんねえよ。そんな言い訳ばかりで本当は、見透かされるのが怖かったからあいつから言わせた。好きだの何だのほざいておいて、気休めの愛情と聞けやしない本心に薄っぺらい同情をして、終わりを見据えていたのもオレだ。たったそんだけだ。  いつの間にか階段も降り切っていて、駅に続く道を歩いていた。寒くて寒くて堪らなくて、ポケットに手を突っ込んでもそれは変わらなくてどうしようもない。波の音は規則的に聞こえていて、耳に張り付いて離れない。結局三矢は、浅野のことを何も知らなかった。どうしてあそこに住み始めたのかも、海を眺めていた時に見せていた表情の理由も何も。  だったら。何も分からないなら。欲しくても手に入らないなら。いっそ何でも良いから寄越せよ。一つでいい。何でもいい。手も目も口も表情も声も、どうせ記憶にしか残らないんだから何でも構わないから一つでいいから置いていけよ捨てるもんで構わないから。  絞められた喉元に手をやった。表現力の乏しい浅野が出来る方法。言葉足らずのコミュニケーションの取り方。あれしか出来ない、それは分かっていた。急に痛くなってきた。痛くて痛くて堪らなかった。何で痛いんだろう、分かっている筈だ。あいつがちゃんと、オレを好きだったからだ。そこにちゃんと居たからだ。でもそれを、呆気なく切り捨てたのはオレだ。もう来んな、そう言われた所で、続かないと分かった所で、切り捨てた所で、結局オレは未だにあいつを思う。簡単に終わる向こう側で、浅野は今ベランダで海を眺めている気がした。  初めてそれを見たあの日の朝が、頭の中で鮮明に蘇る。  三矢はようやく気付いた。幼馴染だから、謝罪したから、だから浅野の側に居たかったんじゃない。ただ好きだったからだ。今、あの夏に会った時に、ただ好きになったから。それだけだ。  ばいばい、コウちゃん。  ごめんって、それさえ言わせないようにしてくれたことも、今になって知る。
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