贖罪にナイフを

3/4
383人が本棚に入れています
本棚に追加
/29ページ
 日が落ちてしまって真っ暗になった景色は、いつも以上に静かに感じる。三矢は浅野が住む市営住宅を外側から見上げた。すぐ側には駐輪場、途切れ途切れに光る街灯、まだ午後八時前なのに、人気の無いこの場所。歩いている人間も、気配も感じない。この住宅の住人達は、もう室内に入ってしまったのだろうか。三矢は制服のポケットに手を突っ込んだまま三階を見上げ、しばらくそこを眺めた。  大学には、合格していた。東京の郊外にあるW大学の経済学部だ。三矢は四月から、東京へ行く。  携帯をポケットから取り出した。浅野の名前を出し、一度深呼吸してから、通話ボタンを押した。 「はい」  浅野はいつもこうだった。はい、と言って電話に出て、口調はいつも同じだ。強弱を付けなくて、三矢からの着信を喜んでいるか或いは面倒だと感じているのか、それすら聞き取らせない。 「オレ」 「知ってる」 「今、来てんだけど。そっち行ってもいい?」 「どうぞ」  あんたはいつも唐突だね、浅野は最後、それを付け加えて通話を終えた。  歩き出すと、コンクリートとスニーカーの靴底が擦れた。静寂の中で、浮くように際立って聞こえる。すぐに階段があって、それを一段一段ゆっくりと上った。一階ごとに点いている蛍光灯は光の強さが酷く弱い。もう替え時だと来る度に思っていた。階段を踏み、上る、繰り返すごとに、三矢の足取りは重くなる。先日ここに来た時、大学の話をするつもりでいた。公募制推薦の入試も終わり、一週間も経たない内に合格通知が届き、入学手続きの書類も同封されていた。受かった、という歓喜が無いなんてそんなはずも無く、嬉しかったことに変わりはない。ただ、浅野に言わなければならないという事実だけは重くのし掛かった。オレはあれが欲しい、オレを見ているかどうかも知れないあれを。とはいえ、その欲求を満たす張本人が、自分の進路を妨げているのも確かだった。だって別に、繋ぐものって何かあんの? 何もないじゃん、なあ? それも聞きようもないし、言いようも無い。じゃあ何で。分からないまま居た所に、彼から大学の話を持ち出された。虚を突かれた気分だった。相手から話し出されることを予想もしていなくて、言葉に詰まった。とはいえ、大学行くんじゃねえの? その程度だ。それでも続きを自分から言うことは憚られ、かといって浅野から振ることもしなかった。  何つーか、幼馴染だった頃って、もう終わったんだな。三矢はあの時、ふとそれが頭に浮かんだ。あの二年間、一緒に居て色んな話をして来て、でもそれはもう過ぎた季節と年月だったことを思い知ったのだ。あの頃みたいにもう、何でも話せない。コウちゃんと呼ばれて嬉しいのに苛立つのは、浅野がコウちゃんを通した自分しか見ていないと感じるからだ。何だろそれってすっげえやだ。  だけれど頭の中は上手くまとまらなくて、歩くしか出来なかった。歩いて歩いて、とにかく階段を上って浅野の家に行くしか方法が分からなかった。気が付いたら目の前には玄関があって、インターホンを押していた。思考の在り方などまるで掴めないのに、その反対側で落ち着いている自分が居る。がちゃり、と重たいが玄関がゆっくりと開き、そこにはいつも通り、特に機嫌の良し悪しも分からない浅野が立っていた。どうぞ、と言われ、三矢は足を進めた。 「あんたはいつも唐突だね」 「そうだっけ?」 「そうだよ」  三矢はスニーカーを脱ぎ、浅野の背に続いた。彼は振り返ることなく、少しだけ猫背で歩いている。リビングに入ると、暖房が効いているのか暖かかった。そうだ、今は夏じゃない。夏はとっくに終わった。あの夏は過ぎた後だ。三矢は息を飲んだ。浅野と再会した夏は、もう終わってしまったことにまで気付いてしまう。幼馴染でもなくなり、ただ成長してしまった二人が再会した夏。 「何か飲む? 甘いコーヒー?」 「浅野」  三矢はこの部屋で、つい四ヶ月前に告げた。好きだと。目の前のこの男を理屈抜きで欲しくて堪らなくて、玉砕覚悟で、そう言った。 「東京の大学、受かったんだ」  キッチンを見ていた浅野は振り返り、三矢を見た。瞬きはしていたものの、変わりばえのない、いつもの表情だった。 「すげえじゃん、良かったね」  あれから、一緒に居ない日の方が少なかった。昼休みは屋上で話したし、会いたくなればここに来た。でもそれでも、浅野のことは分からないことと知らないことばかりだった。距離が近付いたかと思えばまた、心理的に離れる。その距離感は、聡い浅野ならきっと気付いていた。三矢だって同じだ。だけれど濁して過ごして来た。本当にオレのこと好きなの? 何を聞いてもいいの? それとも聞かない方がいい? そんなことより何よりオレをちゃんと見てる? 今のオレをコウちゃんじゃないオレを。考えれば考えるほど口を噤み、開いたかと思えばくだらない話か、それが終わればセックスするか。でもそれって何? 「そんだけ?」  自分に言ったようだった。そんだけ? と。浅野とオレは所詮そんだけだ。三矢は確信してしまう。幼馴染だった時期を背負って、彼を知った振りをしていた。幼い頃の面影を残した人。号泣した少年が成長しても尚、彼の特別な存在は自分なのだと信じていたかった。 「そんだけって?」 「言葉のまんまだよ。何言ったって言われたって結局お前が何考えてるのか、何にも分かんねえままだった。今も」  浅野は息を吐いた。三矢から目を逸らし、それだけで際立った変化はない。 「じゃあ、何て言ったらあんたは納得すんの?」 「だから分かんねーんだって」 「行くなとでも言えばいいの? 違うだろ」  違う、そうじゃない、じゃあ何? 「お前は」 「何だよ」  三矢の頭の中に、コウちゃんと呼んだ小さな浅野と今の成長した浅野が、重なるように交錯する。 「お前は誰を好きなの?」 「は?」 「お前が好きなのはコウちゃんなんじゃねえの?」  毎日放課後になると、公園で三矢を呼ぶ小さな浅野は、コウちゃん、と笑っていた。 「あの時のコウちゃんが、寂しかったお前に優しくしたコウちゃんが好きなんだろ。それを今のオレに重ねてるんだろ。お前は結局、寂しさを埋める為にオレを選んだんだろ、昔のコウちゃんだったから」  昔のコウちゃんしか好きじゃないくせに。  言った直後、三矢は後退った。靴下が擦れる一瞬の衣擦れが、耳に残るほど空気が張る。一歩後退り、もう一歩が出ない。浅野が近付いてようやく、三矢は一歩二歩と後退する。浅野の表情は、一点を見ていた。睨むでも凄むでもなく、ただ三矢を見て、後退する三矢を追うように足を踏み出していた。空気が張る。喉が渇いたように感じ、三矢は唾を飲み込んだ。それでも尚、潤うことはなかった。肩の辺りが、一気に重くなる。 「どういう意味だよ、なあ」
/29ページ

最初のコメントを投稿しよう!