ありふれた淪落

1/4
383人が本棚に入れています
本棚に追加
/29ページ

ありふれた淪落

会わねえもんだな、浅野は屋上に続く階段を上りながら、今日もネクタイを着けていないことを今更知った。ポケットに毎日入れているそれは、取り出されることはなかった。  今は昼休みだった。自然と足が屋上に向かっていて、ドアを開けるとそこは閑散としていた。いつもの場所に座るのは何となく憚られ、柵に腕を掛けてそのまま凭れる。見下ろすと、校門の辺りが見えた。生徒の出入りが今は多い。校門の辺りを見下ろしていた浅野は、今日も三年が着けているネクタイの色を見付けることはなかった。年が明けてしばらくして、三年生は自由登校になった。三年校舎はがらんどうのようになり、ふとした瞬間に感じる校内の生徒の減少に、空になる違和感が時々あった。もっとも、元々その場所に用事のない一年は、がらんどうだろうが脱け殻だろうが、全く問題はないのだけれど。もう二月も終わる。卒業式間近の屋上は、冬の匂いを残している。乾燥したそれが吹き付けられ、自然と目を細めた。浅野は手摺に腕を乗せ、体を預けている。  三矢とは、あれからずっと顔を合わせていない。校内で会うこともなかったし、市営住宅に訪れる唐突は、ぱったりと無くなった。浅野は彼が、何をしているのかもどうしているかも、もう知らない。東京の大学へ行く、それを聞いたのは、もう数ヶ月も前のことだった。きっとそれ以前から彼なりに努力をしていたに違いない。実って良かったね、そう言ってやりたいけれど、あの人は居ないし会うこともなかった。もちろん連絡もない。会わねえもんだな、もう一度そう思う。  風が少しだけおさまって来たようだ。浅野はなぜ、自分がここに居るのかも今はよく分かっていない。ここから校門を眺め、早春の風を浴びた所で、何かを見付けられることもない。その時、重くて錆びた、ドアを開ける軋んだ音がした。首を動かすと、背後に見知った友人が居る。 「洋平ー」  間延びした声を聞き、浅野は手摺に体を凭れさせたまま片手を挙げた。そこに立っているのは大澤雄二だった。さみー、彼はそう言って、体を揺らすようにして近付いて来る。浅野はまた、顔を校門の辺りに向けた。校舎から出て行く生徒、戻って行く生徒、様々だった。浅野はそれを、ぼんやりと眺めている。大澤はというと、彼は校門の方は見ていなかった。柵を背凭れのように使っている。小さく、息を吐く声が聞こえる。 「もうすぐ卒業式だな」 「何だよ急に」  何の脈略もなく、突然卒業式のことを話し出す大澤に、浅野は軽く息を吐くように笑った。 「出んの?」 「さあ」  浅野の言葉に、少しの間沈黙が横切る。同時にまた、すっと通るように風が流れ、浅野は肩を竦めた。通り過ぎてしまった風を追うように、浅野は空を仰ぐ。晴れている、それを今ようやく知った。 「三矢くん、来ねーなあ……」 「そりゃ来ねえよ、用ねえだろ」 「お前幾つよ」 「は?」  何言ってんだこいつ、浅野は訝しむように大澤を見た。眉を顰め、じろりと見た後に瞬きをする。そうして見ても、彼は素知らぬ顔だ。 「お前とうとう、数の数え方も分かんなくなったか?」 「いいから、幾つだよ」 「……十五」 「だよなあ、誕生日まだだもんなあ」  はあ、と彼は深々と溜息を吐き、半分呆れたように目線を空の方に向ける。 「おい、さっぱり分かんねえよ。説明しろ」  そうだよなあ、大澤は空に向かって呟くように言って、目線は浅野には寄越さなかった。 「たかが十五で落ち着いてどうすんのって話」 「誰の話? 俺か?」 「オレはよー、お前が誰とどういう付き合いしてるとか、そんなんはどうでもいいんだけどよ」  未だに何の話かは掴めない。浅野自身の話だということ以外は。 「少なくとも、中学ん時に歳上のおねーちゃんと付き合ってた時よりはいい顔してたぜ?」  浅野は吹き出した。この男も唐突におかしなことを言い出すのだ。彼に言われて思い出した。大澤が言っているのは多分、中学時代の、ほんの数ヶ月しか付き合っていなかった歳上の女性の話だ。その彼女の話を出されたことに、浅野は笑ってしまう。 「はは、何言ってんの。お前」 「人間臭いっつーか年相応っつーか」 「だから分かんねえよ」 「さっさと大人になろうとすんなよ。たまにはなりふり構わずいこうや」  じゃあ行くわ、最後に彼は言うとひらひらと手を振って歩き出した。そういうことね、浅野は彼のお節介に、目を伏せて口元を緩ませる。要するに、そういうことらしい。気付いていたのかいないのか、それは別にどうでも良かった。知られていても構わないし、とはいえ三矢とのことを触れられなかったことにも感謝もした。お前らの方がよほど大人だろ、浅野はまた空を仰ぐ。青いなあ、雲が流れて行く。そんなことを考えて息を吐いた。俺は多分、誰よりも子供で、誰よりも大人げない。また居なくなってしまうあの人を、コウちゃんじゃない今のあの人まで、居なくなることを直視出来ないだけだ。自己満足で相手を振り回し、暴力的に抑え込む。それのどこが大人なのだろう。三矢は浅野を、分からないと言う。浅野も自分自身が分からない。分かるのは、たかが十五のガキということだけだった。  そもそも三矢は、最初から居ない人だった。突然また浅野の前に現れて、不意にあの人が気付いた。見ていただけでそのまま去ってしまえば良かったのに、コウちゃんと呼んでしまった。その意図さえ、自分でも測りようがない。何度考えても一緒に居る理由がないのは明白で、続ける意味もない。いずれ居なくなるはずだった人が、その通り浅野の前から消える。それだけだ。浅野の生活も生き方も何も変わらない。変わらないはずだった。それなのに。 「どうしようもねえなあ」  呟いてみた所で誰も居なくて、空気に溶ける。もう消えてしまって、残った言葉は何もない。浅野しか知らない。本当に、どうしようもなかった。どうにもならなかった。浅野が言わなければ、きっと三矢は決断しなかった。「ごめん」を言わない方法ばかり彼は考えるくせに、切り捨て方も知らない甘ったれだ。彼の甘さと自分の好意は、見据える先も無く終わりの見えない暴力だった。だから言うしかなかった。それなのに、時々途方もなく苛ついた。  昼休みが終わりに近付いても授業に出る気にはならず、屋上を後にする。それから教室に立ち寄り、リュックサックを手に取った。肩に掛け、浅野は制服のポケットに手を入れた。さらりとした布が指に当たる。ネクタイだった。三矢と会わなくなり、浅野はネクタイを着けることをしなくなった。着けないくせに、毎日ポケットに突っ込んでいた。  廊下に出ると、昼休みだからか騒々しかった。生徒達が思い思いに話している。五限目が何で、部活が面倒だ、誰が好き、ただ流れていく会話が淡々と続いて行く。俺も変わんねえんだよなあ、と浅野は知る。そこに居る誰かにとっての浅野は、ただの他人。浅野にとっても同じだ。あの人という他人が居ない。それだけだった。それだけのはずなのに、周りの色が曖昧に見えて、今日が晴れていたことにも浅野は気付かなかった。屋上で話す時間も、家で過ごすことも、一人になって知る。こんなにも世界が違う。 「浅野」  よく知った声が背中に当たる。彼もまた、浅野を気遣う一人だった。 「帰るのか?」
/29ページ

最初のコメントを投稿しよう!