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 幼い頃の数年間、幼馴染と過ごしたこの公園から離れてしまった自分が、またこの土地に戻って来たのはそれから六年後のことだった。そしてまた、同じ公園であの頃と同じように、バスケットボールを突いている。  三矢巧がバスケット部を引退したのは、もう二ヶ月も前のことだった。五月の地区予選で敗退し、その後はずっと、暇があればこうして公園でボールを突いていた。今はもう、七月の暑い時期だ。そして高校三年の夏といえば、受験勉強。が、気が向かなくなるとこうして、日暮れ前にボールを突いている。学業は苦手ではないが得意でもない。勿論体を動かす方が断然好きだ。だけれど、三矢には目標があった。その目的を達成するには、大学受験は必要不可欠だった。  バスケットは昔から好きだった。幼い頃からずっと、スポ少や部活動で続けてきた。部内では期待もされていた方で、その能力も買われた。かといって、強豪校から推薦を貰えるほどの実力はなかった。それは自分でもよく分かっていた。  夏休み前の今時分の気温は高い。日暮れ前とはいえ未だに蒸していて、蝉もよく鳴いている。じわじわと止まない鳴き声が延々と耳の先を過ぎる中、それを遮るように三矢は、バスケットボールを突いた。ドリブルをして走ると、土とスニーカーの擦れる音もした。じゃりじゃりと、靴底から砂の感触がする。ドリブルをして距離を測り、ジャンプシュートをする為に膝を曲げて跳んだ。生憎それは、ネットを通過することはなかった。リングに弾かれ、ボールが落ちて弾む。リズム良く弾かれるのを聞きながら、三矢は額の汗を、手の甲で拭った。すっと抜けていく夕方の風も、青臭さを含んでいて生温い。あち、とぼやくように小さく口を開けると、夏の空気が口内に侵入する。Tシャツの上に羽織っていた制服のシャツが邪魔だった。脱いでからすれば良かった、と思う。そうすればリングには当たらなかったかもしれない。言い訳のようなそれに、三矢は苦笑した。  バスケットボールは、公園のフェンスの方に転がっていた。この公園は昔から、あまり人は来ない。三矢が過去、幼い頃も同じようにここに居た時も。二歳年下の少年と、じゃれ合うように遊んでいたあの頃も。もう一度三矢は、額から流れたこめかみの汗を、指で拭った。転がったボールを取りに行こうと、足を動かした。また生温い風が吹いた。湿度が纏わり付いて、酷く鬱陶しい。あち、と声を出すと、フェンス越しに立っている男と目が合った。二、三メートルは距離がある。同じS高校の制服で、身長は三矢よりも小さい。表情もまだ、少年の雰囲気を漂わせている。178センチの三矢が、目線を下げる程度には小柄だった。三矢は瞬きをした。彼は目線を動かさなかった。なんだ? 三矢は単純に疑問だった。多少影の見え始めた時間帯で、よく見てみると、怪我をしている。制服のカッターシャツも多少汚れていた。おいおい喧嘩かよオレ因縁付けられてる? 勘弁。三矢はそんなことを考え、バスケットボールを手に取り、男から目を逸らした。三年である自分が知らないということは、一年生である可能性が高い。中学卒業したての粋がったやんちゃ坊主、よくある話だった。三矢は嘲笑するように息を吐いた。 「こんにちは」  嘲った直後に声を掛けられ、思わずぎょっとする。三矢は逸らしていた目線を動かした。ボールを手にした中腰のまま、三矢は彼に、どうも、と返す。すると彼は、口の端を多少上げ、俯き加減に目を伏せた。その時、あ、と思う。コウちゃん、と幼かった少年が、自分を呼んでいたことを思い出した。コウちゃん、今そう呼ばれた訳ではなく、声が聞こえた訳でもない。ただ、こうして目を伏せた仕草が、幼馴染を思い出させた。そして、この公園で、日が暮れるまで一緒にいた日々も同時に。 「お前、浅野洋平か?」  彼は伏せていた目を上げた。同時に三矢は近寄った。フェンス越しに覗く顔を見下ろし、少しだけ傷付いた肌を見て、変わらない黒髪と三矢を見上げるすっきりとした目元に確信を持つ。何かを含むような瞳の動き方に、少しだけ薄い唇。左顎の下に、小さなほくろが申し訳程度に付いていることも変わらない。浅野洋平。三矢がずっと、この土地を一度離れてからずっと頭の片隅に残っていた幼馴染だった。 「そうだよ、コウちゃん」  浅野洋平と出会ったのは、三矢が小学二年生の頃だった。両親から新しく買ってもらったバスケットボールを早く外で突きたくて、三矢はゴールの立っている公園へと向かった。そこに一人、ぽつんとベンチに座っている子供が居た。それが浅野洋平だった。彼はベンチに座り、昼間の空を見上げていた。時々足をぶらぶらと揺らし、ただ雲を眺めているように見えた。三矢はその時、単純に声を掛けた。何やってんだ? と。すると彼は、座ってる、と言った。そんなこと知ってるよ、と思いつつ、お前幾つだ? 母ちゃん待ってんのか? と疑問を投げた。するとまた平然と、五歳、と言う。続けて、あの人のことは待ってない、と言うのだった。三矢は幼いながら、唾を飲んで言葉を失った。次に続けるべき言葉が、子供ながらに分からなかったのだ。母親のことを、あの人、と言う人間を三矢はその時初めて知った。  三矢は何となく彼に近付き、名前を聞いた。すると彼は、あさのようへい、と言った。自分の名前を喋る少年の口調に三矢は、どことなく違和感を覚えた。片言とは言わないが、ただ文字を繋げているような、平坦で抑揚なく、覚えたての言葉であるように少年は話した。少年が座っているベンチの側に三矢はしゃがみ込み、近くに落ちていた棒切れを拾った。三矢は砂に大きく、三矢巧、と書いた。当時はまだ習っていないものもあったが、自分の名前に使われている漢字だけは知っていた。書いてから彼を見上げると、小首を傾げている。 「オレはみつやたくみっていうの」 「みつやたくみ?」 「うん。でも、巧の漢字がコウって読めるからって、母ちゃんとか姉ちゃんはコウちゃんって呼ぶ」 「コウちゃん?」 「そう。コウちゃん」  三矢が言うと、少年は少しだけ俯いて目を伏せ、口の端を多少上げて笑った。また覚えたての言葉のように、コウちゃん、と言うのだった。ただ、平坦ではなく、少しだけ照れ臭そうに、初めて食べるお菓子を口に含んだような口調だった。その日からずっと、彼は三矢のことを、コウちゃん、と呼んだ。  彼は後日、また同じ公園で、今度は三矢に自分の名前の漢字を教えた。彼は小さなメモ用紙を広げ、それを見て、棒切れを拾う。浅野洋平、と絵を描くように砂に文字を書いて見せた。酷く拙く、読むことにも苦労した。だから問い掛けるように、洋平? と三矢は聞いた。だけれど彼は、かぶりを振る。浅野でいい、そう言った。三矢は首を傾げた。自分の名前嫌い、浅野はそう言って、目を伏せた。三矢はその後、ふーん、と返すしか出来なかった。単純に、追求することをしなかった。  三矢は浅野と、その公園でバスケットの真似事をしたり、鬼ごっこをした。同級生から誘われても断り、何故だか浅野と遊ぶことを選んだ。まだ相手は五歳なのに。彼と遊ぶことは楽しく、時々歯を見せて笑う仕草が可愛く、弟が欲しかった三矢は錯覚をする。弟ってこんな感じ? と。ずっとこうして、変わらず過ごして行くものだと信じた。そして時々、話もした。とはいえ、浅野は自分の話はあまりしなかった。あまり、というよりほぼしない。三矢がずっと話をして、浅野はそれに、楽しそうに相槌を打ちながら聞いた。へえ、うん、うん、それで? それからどうしたの? 幼く返答する様子は、淡々と綴る口調とは違っていた。そうして日暮れ前には夕焼けを見て、そろそろ帰るね、と言うのだった。或いは時々、大きく手を振って大人の女性が迎えに来た。それを見付けて浅野は立ち上がり、ばいばいコウちゃん、と言った。酷く綺麗な顔をした、三矢の母親とさほど年齢は変わらない女性に見えた。何だ母ちゃん迎えに来るんじゃん、三矢はそう思った。とても、あの人呼ばわりするような人には見えなかった。だから聞いた。母ちゃん? と。すると彼は、ふっと目を伏せて笑った。こういう笑い方をよくする、と三矢は浅野が見せる幾つかの表情を反芻した。思い返す中で彼はよく、こうして目を伏せるように思う。そして、違うよ、ばあちゃん。浅野はそう続けた後、ばいばいコウちゃん、もう一度彼は手を振って去った。浅野の言う、ばあちゃん、の話を三矢は聞くことはなかった。  校区が同じだったので、浅野は三矢がいる小学校に入学した。変わらず三矢は、浅野と放課後過ごしていた。そんな時、同級生数人が三矢を囲むようにして言った。お前浅野洋平と連んでんの? と。そうだよ、と平然と返した。何の文句があるのかと。彼等はまるで、浅野を汚物を見るような目で蔑んだ口調で言ったのだ。それが何? 三矢が言うと彼等は、浅野洋平の母ちゃん男取っ替え引っ替えして家にもろくに居ねーんだぜ? 知らねーの? 汚物を吐き捨てるように酷く楽しそうに言うのだ。三矢が加減することなく暴力を振るったのは、この日が初めてだった。
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