全てが終わった後で。

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全てが終わった後で。

 柳瀬昌義は、捲っていたレターパッドをぱたりと閉じて、そうして元あったゴミ箱の中に落とした。落としてから、これは間違いなく重要参考資料の類いだろう、と思い直す。しかし拾い直す気になれない。  胃の中に、石でも落としたような不快感がある。  柳瀬は刑事だ。それこそ奇妙奇天烈な事件や物証にも慣れているつもりだったが、このレターパッドには何ともいえない気味の悪さを感じる。  よくある市販のレターパッドだ。その中で繰り返された『私』と『俺』のやりとり。一冊のレターパッドで行われたそれは、交換日記のような体裁だ。しかし、当人達にとっては立派に“手紙”だった。この紙面の上でしか相手の存在に干渉出来なかった『私』と『俺』。  殺されたと主張する『私』と『俺』の関係は、それだけでも十分異様である。  柳瀬は部屋の中を見回す。年頃の青少年らしい、シックな内装。ベッド、パソコンデスク、クローゼット、大きな姿見、ラックの上には渋いモデルを使ったファッション誌が並んでいるが、大きく隙間を空けて偏っている。    この部屋の持ち主は、綾根浩一。十八歳、苑木高校三年生。成績優秀、運動神経抜群、誰からも頼られる生徒会長。  その生徒会長が事件を起こしたのはつい先日のことだ。  彼の友人で、同じく生徒会に属する土山雅人の自宅に女が侵入した。正しくは女装した男だ。他ならぬ、綾根浩一である。    その日、土山家は両親が旅行に出かけており、たった一人の姉はこれ幸いにと彼氏の家に転がり込んだ。そうして雅人は自分以外誰もいない家に彼女を呼んだのだ。  そこに乱入したのが、女装した浩一である。  派手な黄色のアウターコート。その下には、彼等が通う高校の女子制服。――この制服は、かなり前に運動部の更衣室から盗まれた物だと判明している。  かつらに化粧まで施した浩一は、雅人の部屋で仲睦まじく寄り添う恋人達を目にし、まず彼女を突き飛ばした。それから雅人に迫り・・・怯え拒絶する雅人に逆上した浩一は、部屋の隅で震える彼女に襲いかかったのだ。  彼女を助けようと雅人が浩一に掴みかかり、もみ合った末に、雅人の体は弾き飛ばされて、部屋のドアノブで後頭部を強打した。  打ち所が悪かったのだろう、土山雅人はその場で死亡している。  雅人の部屋から逃げ出した彼女の方は、一階から警察に通報した。警察が駆けつけた時、浩一は雅人の遺体に縋りついて泣いていた。それは、異様な光景だったという。  頭から血を流す、力無い被害者。それをかき抱く女装した少年。  女物のアウターコート、かつらはずれ下がり、化粧は涙でぐずぐずに崩れていたという。  彼は泣きながら繰り返す。  「『俺』じゃない。『俺』は『私』じゃない。『私』は『俺』じゃない、『私』が悪い。『俺』じゃない」  綾根浩一の精神状態は、一体どのようなものだったのだろう。すぐに精神鑑定の手配はなされ、異様性から世間の注目度も高いこの事件は様々な憶測を、素人はネットで、専門家はニュースで論じている。  世間はどうあれ、警察は地道な捜査をするだけだ。その過程で、犯人の自室だって、こうやって調べに来る。下の階では後輩が両親から浩一の最近の動向について聞き取りをしてくれている。他の捜査員も、あと少しで到着する予定だ。  柳瀬はもう一度、ゴミ箱の中のレターパッドを見下ろした。    『俺』と『私』。二人の筆跡は全く同じものだ。つまりどちらも綾根浩一が書いたものだと思われる。しかし『俺』は一貫して『私』の正体を理解せず、一方『私』は『俺』に殺されたのだと主張している。 これは、ただの一人遊びとは違う。  『私』と『俺』。書いたのは一人だとしても、間違いなくこの二者は存在していた。  柳瀬はこの部屋のクローゼットに目を向けた。『私』は頻繁に、『私』のクローゼットを開けてと記している。  「死体が出てくるわけでもあるまいに」  クローゼットは、かなりの奥行きがある大きなものだ。しかし開けてみれば、カーキ色を主体とした服が並ぶ中、どうにも浅い。奥の板を叩いてみれば軽い音が鳴った。取っ手らしき物は見つからない。  ―――「開けて」  柳瀬は奥の板を蹴り割った。結構派手な音が鳴ったから、下の階にも響いたはずだ。勝手に加害者の部屋を荒らしたとあっては、上から怒られるだろう。やりやれと後頭部をかきながら、割れた板を退ければ、奥にもう一つハンガーパイプが現れた。  かけられているのは女物の衣服。  フレアスカート、胸が大きく開いたキャミソール、フリルのついたブラウス。  端の方にはなんとピンクのメイド服、真っ赤なスパンコール、ナース服にスチュワーデスの制服まで。足下には女性物のファッション誌が紐で纏められていた。  「・・・殺した、か」  ふわり、と視界の端を紺色のプリーツスカートが翻る。それは柳瀬の脇を抜けて、男物にしては大きい姿見の前へ。  姿見の前で、苑木高校の女子制服を着たダレかがくるりと一ターン。ポーズまで決めて・・・そうして消えた。    一瞬の幻覚だ。すでに柳瀬の視界には、自分以外誰もいない、何の変哲も無い青少年の部屋があるだけ。  「そういや、真奈が苑木高校の文化祭で、今年の一位はコスプレ喫茶やってたって言ってたな」  真奈は柳瀬の一人娘だ。何の偶然か、この部屋の持ち主と同じ苑木高校に通っている。今年の出し物には結構自信があったようだが、どこぞのクラスに負けたと悔しがっていた。  柳瀬は顔を歪めた。この部屋は綾根浩一の残滓が強すぎる。  『俺』と、『私』。  一種の嗜好の類いなのか、あるいは性同一性障害のようなものかは解らない。だが、『俺』は『私』を殺した。浩一は、女である自分を殺し、そうして無かった事にしたのだ。  しかしそれはうまくいかなかった。  見て見ぬ振りをし、目を逸らし続けてきた果てに、想い人である土山雅人に恋人が出来た事で浩一は決壊する。  今回の事件は、そういうことなのだろう。  ただ、それでもレターパッドのやりとりの、全ての説明はつかない。  浩一の中の、『俺』と、『私』。分かたれた二つの性。  浩一が己の嗜好に迷いがあったことは、『私』の“問答を繰り返した”、という言葉からもわかる。抵抗だってしたのだろう。  心と体の乖離に悩む者は多い。だというのに、なぜ浩一にだけこのような特殊な状況が発現したのか。 多感な青少年の、人格乖離障害だろうか。しかし、それだけで片付けていいのか。  この部屋で、あのレターパッドの中で、『私』と『俺』は間違いなく別々の個であった。  下から後輩の声が聞こえる。先程の音を心配してくれたらしい。柳瀬はこれ幸いと部屋のドアノブを回した。  さっさとこの部屋から出たかった。  ―――『私』を認めて  耳元で、声変わりが済んだ少年の甘ったるい裏声が囁く。    「生憎、俺には女装趣味はねえんだ」  柳瀬は笑って、そうして部屋から一目散に逃げ出した。
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