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N国では二年前、憲法九条改正の国民投票が行われ、拮抗したが否決された。
否決後も議論が紛糾し、与党は解散総選挙を選択した。
しかしその直後、N国首相である新造の体調が急変した。長期政権の激務に蝕まれていた身体に、悲願の憲法改正が頓挫した落胆が、大きな心労となった。
K大学病院に一流の医師が集結し、病院の威信をかけて対応したが、体調は回復せず、七日後に心音が停止した。
そこにA国大統領から、意外な申し入れがあった。
ブレインゲートという最新の技術で、新造の意識を生かしたいというものだ。
幸いに脳は生きていたため、脳を生かし続ける延命措置を行い、倫理面での議論となった。
そして、最後の判断は、妻の秋江に委ねられた。
秋江は悩んだが、いつでも終了できることを条件に、首を縦に振った。
髪の毛を綺麗に剃り上げた新造の頭に、電極の繋がったヘッドギアが装着され、脳内データのアップローディングが行われた。
それは一週間ほどで終了し、新造の意識は一ペタ(テラバイトの上の容量)のサーバーに、すべて移植された。
サーバー内には、データで作り上げた仮想N国が存在し、新造はペタの国の首相だ。もちろん、N国以外の地球上の百九十六ケ国のデータもリアルタイムで更新される。
新造の意識はAI「シンゾウ」が引き継ぎ、新造の価値基準に基づいて、様々な判断を下す。
現実世界では否決された憲法改正も、ペタの国では可決された設定であり、シンゾウは日々、国会や外交で采配を振るっている。
無償で技術を提供したA国のT大統領は、モニターを通じて、今もペタの国のシンゾウと懇意だ。憲法改正後のN国の行末に、興味が尽きないからだ。
有事の際にN国が、我が国にどれほど貢献できるのか、じっくり観察したいと思っている。
「ごちそうさま」
シンゾウは満足げに言うと、モニターの脇から伸びるマニピュレーターでコーヒーカップを掴む。
モニターの中のシンゾウは、コーヒーを飲むしぐさをしているが、秋江が見ているのは、モニターの下に設置されたディスポーザーに流される茶色の液体だ。ピラフもサラダも、ディスポーザーに吸い込まれ、粉砕処理後に生ゴミになる。
シンゾウが感じている食感も味覚も、作られたデータでしかないため、本物を使う必要は無いが、秋江はそこまで割り切れなかった。
だから、毎朝の朝食は生前と同じように、手料理を並べている。
ただ、モニターの中で美味しいと目を細める夫の姿と、ディスポーザーに消えていく料理をみるとき、突然悲しみがこみ上げてくる瞬間がある。そのときは、さりげなく眼を逸らすが、モニターの中の夫は怪訝な眼を向ける。
さらに、死してなお、仮想現実の国の首相として詭弁を操り、T大統領に媚びた笑顔を振りまく夫を、心から休ませたいと思う時もある。
また、公邸ではない目黒の自宅を、公邸だと信じている夫を騙しているようで、申し訳ない後ろめたさもある。
そんな複雑な気持ちのまま、秋江はこの実験を止めることが出来ずに、すでに二年が経った。
秋江も見てみたかったのだ。
夫である首相が、憲法改正後のペタの国を、どのように導いて行くのかを。
— 終 —
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