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神流と比奈
「ふぅ。今日はいつもより、患者さんが多かったですね……」
その日の仕事と夕食を終え、自室に引き上げた比奈は、思わず愚痴をこぼした。
彼女の部屋の二隅と部屋に面している裏庭の二隅、計四方向に梵字で書かれた札が貼られている。それは、異能を持つが故に、妖怪に狙われることの多い比奈を守るのための、結界の役目を担っているもの。
妖怪たちの間では、人間の異能力者を食すと寿命が延び、その異能を引き継げるという噂が広まっている。そのせいで戦う力を持たない比奈は、幼い頃から命を狙われ続けており、何度も死に直面したことがあるのだ。
そんなある日、同心(町の警備の仕事)の父が、法力が強いと言われている僧侶を連れてきた。その男は、すぐさま比奈の家族の願いを叶え、彼女の部屋に結界を施した。
『この札は、お主を守るためのもの。決して、剥がしてはならぬぞ。このお守りも、肌身離さず、持ち歩くのだ』
僧侶はそう言って、首から下げられるお守りを比奈に手渡し、帰って行った。
しかし、安全なのは自室のみ。お守りのおかげで狙われることがなくなっても、比奈は外に出ることを怖がるようになり、家に籠もるようになってしまった。
そして父は、娘の命の危機が去ったことを安堵し、突然『人間妖怪問わず、どんな傷も病も治します』と銘打って、娘を商売道具にし始めたのだ。かつては正義感溢れる同心であったが、今となっては、ただの金の亡者と成り果ててしまっている。だが比奈自身はそれを享受していた。
(父様が変わってしまったのは、私のせい。だから、疲れても頑張らないと)
彼女はそっと、胸元からお守りを取り出して、じっと見つめる。
(このお守りと、お札のおかげで、妖怪に狙われることはなくなったけれど)
「あのお坊様、どんなお顔をしていらしたかしら……」
どういうわけか、比奈は恩人である僧侶の顔を、思い出すことができなかった。
「それに……」
比奈は不安げに、部屋の中を見回す。結界が作られたあの日以来、彼女は常に、何かに監視されているような気がしてならなかった。だが、彼女の安全が保障されて喜ぶ家族に、そのことを打ち明けられずにいる。
比奈は深くため息をつく。そして就寝の支度を整えると、そのまま縁側に出た。
彼女は柱に寄りかかるようにして座り、夜空を見上げる。空には上限の月が、鋭い輝きを放っていた。
庭のどこからか聞こえてくる虫の鳴き声に、比奈は耳を傾ける。
「そんな薄着で、風邪をひいたらどうするんだ」
声と同時に、比奈の肩に羽織がかけられる。手をたどると、仕事から帰宅したばかりの、兄の神流がいた。
「おかえりなさい。兄様」
「あぁ。ただいま」
男女の違いはあれど、兄妹はよく似ていた。腰まである長い黒髪に、白い肌。唯一の違いと言えば、神流のほうが切れ長の目をしているくらいだ。
神流は腰に差していた刀を鞘ごと抜いて、自分の左脇に置くと、妹の隣に座った。
「兄様。今日は、どのようなお話を、聞かせてくださるのですか?」
「そうだな……。あ、ちょうど仲間と昼休憩をしている時にな」
外を拒む比奈の唯一の楽しみは、働きにでている兄の話を聞くこと。
目を輝かせる妹に、神流は優しい微笑みを浮かべながら、今日あった出来事を語り出した。
「――ていうことが、あったんだよ」
「ふふっ。兄様の同僚の方々は、とても賑やかなんですね」
「あぁ。平和だからこそ、些細なことで大騒ぎさ」
妹の楽しそうな顔を見て、神流は目を細めた。
「比奈」
「はい。どうしました? 兄様」
神流は無言で、比奈を抱き寄せた。兄の突然の行動に、彼女は目を瞬かせながらも、されるままになる。
「比奈。この家を出て、二人で一緒に暮らさないか?」
「兄様?」
神流の言いたいことがわからず、比奈は困惑した。
「父上は比奈のことを、もう金儲けの道具としか見ていない。母上は、そんな父上に逆らわない。このままじゃ、比奈の身体が壊れてしまう」
比奈の能力は、あらゆる傷や病を癒す代わりに、彼女自身の体力を消耗するという対価があった。つまり使い過ぎれば、自分の命を縮めることになる。
神流はそれを危惧していた。両親よりも、いつも我慢を強いられている妹のことを、愛しているから。
比奈は兄を見上げた。
「兄様。わたしの力の危険性は、兄様もわかっているはずでしょう?」
「お守りがあるだろう? それでも不安なら、この部屋と同じように、結界を張ってもらえばいい。金は俺が今まで以上に働いて」
「兄様」
比奈は神流の言葉を遮る。
「そんなことをすれば、兄様がお身体を壊してしまいます。それにわたしは、どうしても外が怖いのです」
「比奈……」
神流は眉を寄せる。そんな兄に、彼女は微笑んだ。
「心配してくださって、ありがとうございます兄様。兄様のその気持ちだけで、わたしは幸せです」
何も出来ないことに、不甲斐ない気持ちになった神流は、唇を噛みしめ、愛しい妹を抱きしめる腕に力を込めた。
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