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逝け
もう、かなり前の話になります。
その頃の私は、毎日がとても充実していました。会社生活も六年目を迎え、中堅社員としてある程度高度な業務も任せられるようになり、日々やりがいを感じながら仕事に打ち込んでおりました。その甲斐あってか、その年の秋には、他の同期入社の人よりも一年早く主査に抜擢されたりして、仕事面ではまさに絶好調といった感じでした。
役職がついた分、責任は重くなり、当然業務の方も忙しくなりましたが、期待されるということは、やはりモチベーションを大いに高めます。職場の上司や同僚にも恵まれておりましたし、少々残業が続いても、毎日会社に行くのがとても楽しかったのです。
そんなある日、私の自宅に一通の封書が届きました。
ごくありふれた、縦長の茶封筒で、小西綾子という私の名前と住所を印刷した小さな宛名ラベルのようなものが貼ってありました。差出人の名前は書いてありません。
どこかの会社のロゴとかマークでも無いかと探しましたが、完全に無地の封筒です。差出人の情報が一切無い郵便物は薄気味悪い感じもしましたが、封筒を上から触ってみても、厚みや硬さは、何も感じられず、殆ど何も入ってないように思えました。多分、紙類しか入っていないだろうと判断した私は、とりあえずそれを開封してみることにしました。
鋏を持ってきて、封筒の上の端を一直線に切り取って、慎重に中を見てみると、果たして紙片が一枚だけ入っています。
指で挟んで取り出してみると、一枚の白い薄紙が折りたたまれたものでした。それを取り出して広げてみた瞬間、私は思わず息をのみました。
紙の真ん中に、たった二つだけ文字が書いてあります。
「逝け」
思わず自分の目を疑い、何度も見直しましたが、やはりそれは「逝け」としか読めません。逝去の「逝」にひらがなの「け」です。
「逝け」って……要するに、「死ね」ってことじゃない……
その薄気味悪さに、私は思わずそれを放り出してしまいました。
そんな不気味な手紙でしたが、結局、私はそれを手元に置いておきました。勿論薄気味悪いものではあったのですが、だからこそ、それを簡単に捨ててしまうのも却って不安でもあり、踏ん切りがつかないまま、処置に窮していたというのが正直なところです。
一方、それから間もなく、私の仕事は一層多忙を極めるようになっていきました。全社的なレベルの大不祥事が発覚し(多分ご存知でしょうけど)、私の所属していた部署も、その対応に巻き込まれることになったのです。ただでさえ、多忙化しつつあった私の業務も一気に加速し、連日終電に乗れれば良い方、日付をまたいでタクシーで帰宅することも常態化するようになりました。
それと歩調を合わせるように、私の心身の疲労は徐々に蓄積されていきました。そんな生活を続けていれば疲れが持ち越されるのも、当然と言えば当然かもしれませんが、日に日に私の両肩は重くなり、背筋も何やら老人のように曲がってきます。心も段々と憂鬱になってきました。
そんな重苦しい精神状態の中で、私は、運気とか命運といったものを強く意識するようになって来ました。やっぱり、あんな手紙を貰ってから運気が下がってきたようだ……。私はそれを近所の神社に持って行ってお焚き上げをしてもらおうと、とある休日の午後、家を出ました。手紙を受け取ってから、もう十日ほど経過していました。
ところが、家を出た途端、私の体調は急激に悪くなりました。両肩にのしかかる重みはどんどん増して来て、体のだるさも酷くなってきました。もう足を一歩踏み出すのも億劫なくらいです。気分も泥沼のように重く沈んでしまって、もう全てが嫌になってしまいました。今これからどうするか、それを考えるのさえも苦痛です。
もう嫌だ……早く楽になりたい……死にたい
気が付くと、私は見知らぬ駅のプラットホームの端のあたりをふらふらと歩いていました。そうか、次の電車が来たら、このまま飛び込んじゃおう。そうすれば一気に楽になれるじゃない……。
そんなことを考えていた私に、突然後ろから声がかかりました。
「ちょっとすみません。そこのスーツのお嬢さん」
思わず振り返ると、そこに一人の中年の夫人がニコニコ笑っています。ごくありふれた、今から買い物に出かける主婦、という感じのおばさんです。
「……私ですか?」
「そう、あなたです。突然すみませんけど、あなた最近変な手紙を貰いませんでした?」
「ええっ?」
いきなり言い当てられて、思わず素直に反応してしまいました。
「貰いましたね。今あなたは、その手紙を封筒と一緒にバッグの中に持っているでしょう?」
「……」
「そして、今あなたは心身共に不調に悩まされている。違いますか?」
次々に私のことを言い当てるその人に対して、何故か私は何の警戒心も抱きませんでした。私の心はもう既に限界だったのです。この辛さを誰かに聞いてほしいという気持ちが、一気に涙になってあふれ出てきました。おばさんは、私の肩をポンポンと二、三回軽く叩くと、とりあえずホームのベンチに座らせてくれました。
暫くして気分の落ち着いた私は、駅のそばのファミレスで、おばさんと例の手紙を挟んで向かい合っていました。詳しい話を聞こうと言って、彼女が駅から連れ出してくれたのです。
「主査に抜擢されて以来、丁度仕事の方も本格的に忙しくなってきていたし、最近発生した大きなトラブルの影響もあって、そのせいかと思ってたんですが……」
私はこの手紙が来た経緯から最近の状況までを、包み隠さずおばさんに話しました。もう、とにかく誰かに話さなければいられなかったのです。
うなずきながら私の話を聞き終えた彼女は、にこやかに微笑みながらも、恐ろしい言葉を伝えてきました。
「はっきり言いましょう。あなた、呪われてますよ」
「呪われてる……?」
おばさんは自分のコンパクトを取り出すと、私の前に差し出しました。
「ちょっと、これでお顔を見てごらんなさい」
そのまま自分の顔を見た私は、「ひっ!」と小さな悲鳴をあげてしまいました。
そこにいるのは、いつも見慣れた私の顔ではなく、どうみても私の幽霊としかいいようのない顔です。ちゃんとメイクもして出て来たのに、頬の色はどす黒さを含んだ、ザラ紙のような汚い白色で、灰色の隈取りに縁取られた両目には、全く光が消えうせ、見ている方が飲み込まれそうな暗黒の二つの玉がせわしなく左右に振れています。
「お仕事が忙しくなったのは、いわば表面的な理由に過ぎません。それだけでは、今、御覧になったように酷い状態になるわけはありません。貴方の精神と肉体は、呪いによって日々蝕まれつつあります。この手紙は言霊を使った呪いのツールなんです。ここに書かれているのはたった二文字ですが、ここにあなたへの怨念が込められていました。そして貴方がこれを目にした瞬間、呪いがかかったというわけです」
そんな……人から呪われるなんて……原因は……誰ともトラブルになったことなんかないのに……呆然とする私の頭の中はもうカラッポで何の考えもまとまりません。
「とにかく、このままでは貴方は心身ともにどんどん衰えて行って、遠からずここに書かれたように、死ぬことになります……助かりたいですか?」
「助けて下さい!何でもします!」
死ぬという言葉を聞いた途端、本能的に私は答えていました。このおばさんが最後のチャンスなのだ。この人に見放されたら、自分は確実に死んでしまう。生存への本能が呼び覚まされ、最後の力を振り絞るように私は彼女の手に縋り付いていました。
「わかりました。では、私に思いつくことをやってみます」
そう言うと、おばさんは自分のバッグから一本の筆ペンを取り出しました。見た目には普通に売っている筆ペンに見えましたが、それを手にした時、一瞬おばさんの目に強い光が宿ったように見えました。
そして彼女はその筆ペンで「逝け」の横にたった一文字書き加えました。
「ぬ」というひらがなに読めます。
改めて見てみましたが、確かにそこに並んだ三文字は「逝けぬ」と読めました。おばさんはその文字の上を、右手の人差し指と中指で、ゆっくりと三回なでました。そして手紙と、それが入っていた封筒を、一緒に自分のバッグにしまいました。
「今日、私が家に帰ってから、あらためてこの手紙に念を込めます。そして明日にも新しい封筒で、これをあなたに再送します。一両日中には届くと思うから、受け取ったらすぐに開封して、もう一度この手紙を見てください。あなたがこれを見た瞬間、あなたにかけられた呪いは無効になります。つまりこの呪いは失敗するということです」
「あの……それだけでいいんですか?」
指示された内容があまり簡単だったので、私は思わず確認してしまいました。
「信じられないみたいね。でも、これで上手く行く筈です。ご説明しますとね、私は貴方にもう一度呪いをかけようとしてるんですよ」
「えっ?」
びっくりする私に、おばさんは明るく笑いながら答えました。
「ごめんなさいね、怖がらせるような言い方しちゃって。要は、こういうことなの。まず、誰かがあなたに呪いをかけた。私にもそれが誰かはわかりませんが、それはもう始まってしまったから取り消せない。私のやろうとしてることは、前の呪いを否定する言霊を使ってもう一度呪いをかけ、言ってみれば上書きしてしまって、前の呪いを無効にするということなんです」
「はあ……」
分かったような分からないような話で、私としては今一つ半信半疑でした。
「手紙にかけられた呪いは相当強い念によるものですが、それでも私の方が力があると思います。だから、私が手を加えたその手紙は、最初の呪いを確実に上書きし、無効にする筈です。大丈夫、私を信じてくださいね」
半信半疑ながらも、他に頼るものの無い私としては、彼女の言葉を信じるしかありません。私は黙って頷きました。
「開封して手紙を見たら、暫くの間持っていてください」
「暫くって、どのくらい持っていればいいのでしょうか」
「貴方にこれを送り付けた人間が誰なのか、それから間もなくわかる筈です。それが分かったら、もう捨てていいです」
「間もなくわかる……本当に私にわかるのでしょうか」
何も書いてないのに、この手紙の差出人がどうやって私に分かるのだろう?私は不安を覚えました。
「大丈夫、貴方にはすぐに分かる筈ですよ」
おばさんは、相変わらずにこやかな笑顔で確約してくれました。
「じゃ、そういうことで。頑張ってね。大丈夫、必ず上手く行くから」
そう言うと、おばさんは伝票を持って静かに席を立って行ってしまいました。私はと言うと何故かぼーっとしてしまって、お礼を言うのさえも忘れて座り込んだまま、ぼんやりとその後ろ姿を目で追っているだけでした。
その翌々日、果たして一通の封書がポストに届いていました。何の変哲も無い茶封筒ですが、達筆で私の名前と住所が記載されています。あのおばさんから来たものでしょうが、差出人の住所氏名は、今回も何も書いていません。
どきどきしながら開封してみると、おばさんが一文字書き足したままの状態で、「逝けぬ」と書かれた手紙が確かに入っていました。とりあえず、これを見れば呪いは解かれるわけか……本当にこんなんで大丈夫なのかな……一抹の不安を覚えつつも、とにかく他に頼る物が無い私は、何度も何度もその手紙を見つめ直していました。
その二日後のことです。その日は土曜日でした。ここのところ体力も消耗しきっていた私は、お昼近くなっても、なかなかベッドから出られずにいました。
そこに会社の同期の加奈から携帯に電話がありました。
「もしもし、綾子?」
「ああ、加奈ちゃん。どうしたの、お休みに」
「うん、ごめんね。あのね、典子が死んじゃったのよ」
「えーっ!?」
寝ぼけ眼でとんでもないニュースを聞いた私は、思わず大声をあげてしまいました。
「昨日の朝から無断欠勤してて携帯にも出ないから、同じ課の人が自宅に行ってみたら、寝室で首を括ってたんだって。もう、警察も来るし、木村課長なんか直属の上司だから、人事部や警察への対応で、お休みなのに大変よ。だって、あの典子が自殺なんてねえ……思い当たる理由なんて全然無いから、みんなもうびっくりしちゃって……」
そのニュースを聞いて、あれを送って来たのが誰だったのか、私は瞬時に理解しました。
“私がこの新しい手紙を見た時点で、私にかけられた呪いは失敗する”……おばさんはそう言いました。そして、呪いが失敗するということは、とりも直さず、その呪いがかけた人間に返ってくるということを意味する。素人の私にもそれは何となく分かりました。すぐに分かると言ったのは、こういうことだったのか……確かに、そのとおりになったのです。
典子とは同期入社で、入社以来長い付き合いでした。とてもおおらかで、少し天然なところもある彼女には、妙に人を癒すような魅力があって、私自身、何か悩みがあるとよく相談に乗ってもらっていました。あの典子が……。いつも屈託の無い笑顔を浮かべていて、あまり物事にこだわらない、おおらかな典子。私が悩みを相談すると、いつも親身になってくれて、同期の中でも特別仲が良かった典子が、あれを私に送りつけてきたなんて……
「まあ、今だから言うけどさ。典子はいつも、あんたの悪口言ってたのよ」
私は加奈の言葉に耳を疑いました。
「以前からあんたのことウザイって言ってたけど、特に今年あんたが主査に抜擢されてから酷くなったわね。まあ、やっかみと言えばやっかみなんだろうけど、とにかくあれが燃料を投入させたのは確かだろうなあ。まあ、綾子のせいじゃないけどさ。自分の能力と努力で勝ちとった昇進なんだから、いいんじゃない?会社の決めたことなんだし」
どことなく冷めた口調で話す加奈の言葉を呆然と聞きながら、私は人の世の恐ろしさというものを噛みしめていました。
ともあれ、典子が私にかけた呪いはこうして破られたのです。そしてご想像のとおり、私の体調は、それからみるみる回復しました。それ以来、ずっと大きな病気もせず、健康そのもので今に至るというわけです。本当に、あの時あのおばさんに会わなかったら、ここまで生き延びることは出来なかったでしょうね。
だから、あなた、お願いだからあのおばさんを探し出して、私の目の前に連れてきてくれない?私はどうしても彼女に会わなければならないのよ。お願いよ!何よ、へらへら愛想笑いばかり浮かべてないで、何とかしてよ!偉そうに白衣なんか着てても、何の役にも立ちゃしないじゃないの!何とかしてよ!
私は今年で156歳なのよ!
何とかしてよお……もう嫌だ……早く楽になりたい……死にたい……
[了]
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