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第1話 めちゃくちゃにされたいの?
「めちゃくちゃにされたいの?」
優しく耳に囁かれる声はどこまでも甘い。自分が言った言葉を繰り返されただけなのに、すごく恥ずかしい。前を向いていられなくて横川は俯くしかない。
「ここにはそういう道具はないんだけど」
いや、そういうわけでは。
と横川が言いかけるが、島とホテルにいてさっきみたいなことを言えば、そういうことをねだられていると島が思っても仕方がない。
「そういうの、好きだったっけ? それともそういうのが目的で僕に声をかけたの?」
「いや…」
島の問いかけに横川の返事は尻すぼみになる。
まさか島とこういうことになろうとは思ってもいなかったのだ。普段、遠くから見ているだけで、時々島とのことを想像してひとりで励んでいたくらいだ。そのときの想像が「島にめちゃくちゃにされる」ということくらいで。
夢のような現実を前に、夢の中で望んでいたことを口走ってしまっただけで。
島が軽くSっぽく相手に振る舞うのは、レギーナでは有名な話だった。紳士的な態度でソフトSMも嗜むことと、もう一つ、相手は一人に絞らず一度抱いた相手は二度と相手にしないこと。
細身の身体に沿ったスーツを着て、柔らかな笑顔と心地よい会話も魅力的な島に抱いてほしいと思う男は少なくなかった。しかし、そのあとがないのがわかっているので、積極的に関わろうとする男も一時期に比べて減ってきた。それでも島がレジーナに現れた夜は一人で店を出ることはなかった。
いつもなら横川が島に関わろうとすることはなかった。島は高嶺の花で、自分のようななにひとつ突出したもののない冴えない男を島が相手にするはずはない。遠くから島を見て、島が誰かの肩や腰を優しく抱いて店を出るのを確認するだけだった。
ただ、今夜は違った。
今日は横川の30になる誕生日の前日だった。華々しいことはなにもない20代をこのまま終わらせるのは、どこか悔しかった。最後になにかやってみたかった。
そんな思いを秘め、レジーナに行くとほどなくして島が現れた。毎回、レジーナに行くたびに島に会えるわけではない。むしろ会えないことのほうが多い。
これはチャンスだ、と横川は思った。
そしてふらふらと島に近づき声をかけた。
「横川さん、でしたっけ? レジーナではよく見かけるけどこれまで全然近づいてこなかったじゃないですか。今夜はどうして?」
ふわりと笑いながら島は横川を見つめ、少しネクタイを緩めながら聞いた。
「あ、明日、自分の誕生日で。それで、あの、トクベツなことを。だから島さんに声がかけられた、というか。じゃないと俺、こんなことできない。と思います…」
「へぇ。誕生日プレゼント?」
「ち、違います」
「記念?」
「いやそんな。あの、すみません。やっぱり俺みたいなやつが島さんに声かけちゃいけなかったんだ。ほんと、申し訳ありません。あの、タクシー呼びますから。ここの支払いも俺が」
横川は半泣きになりながら、一人でまくしたてている。
「横川さん」
「は、はい!」
気がつくと島は横川の真ん前にいた。
ちゅっと音がして島の顔が離れた。丸くて小さくて形のいい頭に似合うベリーショートからは額がつるんと出ていて、綺麗な眉がすっと伸びていた。一重の目は一見冷たそうに光るが、横川を見る表情には温かみがあった。
「むしろ僕でいいんですか。せっかくの大切なお誕生日に僕と過ごして」
「もちろんです」
「幾つになるんですか」
「さ、30です」
「大台だ」
「おじさんっぽいですよね」
「そんなことないです。大人の魅力が生まれる頃ですよ。憧れます」
「そんな」
否定の言葉を言う前に、またちゅっと音がした。
「少し早いけど、お誕生日おめでとうございます」
「あ、ありがとうございます」
「じゃあ、20代最後の夜を楽しみましょうか」
「え、い、うわ?」
「横川さんの期待にどれくらい応えられるか、わからないですけど」
「そんな… もう忘れてください」
「ほんと? いいの?」
耳に息を吹きかけられながら囁かれる。横川がどぎまぎしていると、腕を取られベッドの前に立たされた。島はホテルの部屋の椅子にどっかりも座り込む。
「じゃあ、最初にセーフワードを決めましょうか」
「セーフワード?」
「僕は無理矢理するのは嫌いなんです。お互いに気持ちいいのがいいでしょう? だから本当に無理だ、と思ったらストップする。それを伝えるための言葉を決めます」
横川がきょとんとしていると、島は笑った。
「僕も使うから、一緒に考えましょう。僕にも拒否権はありますよね? 本格的なスパンキングやスカトロは好きじゃないんです」
「は、はい」
「なにがいいかな。『やめろ』は?」
「やめろ?」
「『やめて』だと喘ぎながら言ってしまいそうでしょう。どうですか」
「はい」
「じゃあ、お互いに気持ちよくなりましょうか」
島は椅子に座り直すと、足を組んで、そして横川を見た。横川は所在なさそうに俯き加減でベッド脇に立つ。大きめの耳が真っ赤になっているのがよくわかった。
「まず上着を脱いでください」
横川はもそりもそりと上着を脱いでベッドの上に置いた。続いてネクタイと言われ、その通りにした。
「じゃあ、スラックス。靴下も靴も下着も脱がないで」
「え」
ワイシャツは着たまま。靴下、靴、下着もつけたまま。なんとも間抜けな格好になってしまうのに気づき、横川の動きが止まった。それに上着くらいなら会社でも脱ぐことはあるが、スラックスを脱ぐことはまずない。それも島が凝視している前で。
「嫌だったらセーフワードを言ってください」
それを言えば間抜けな姿を晒すことはないだろう。しかし島の気持ちが萎えるのではないか。千載一遇というのは言い過ぎかもしれないが、次に島に近づくチャンスはないかもしれない。横川は羞恥でいっぱいいっぱいになりながらベルトに手をかけた。カチャカチャと金属音がやたらと大きく響いた気がした。
横川がスラックスを脱ぐと、日に焼けていない白い足が露わになった。
「綺麗な足ですね」
島の言葉に横川はワイシャツの裾を手で下に引っ張った。伸縮性があるはずもなく、横川は足はもちろん、下着の裾を隠すこともできなかった。
「隠さなくてもいいのに」
島は喉の奥で笑うが、横川は俯いて耳をもっと赤くするだけだった。
「まだまだなのに、そんなかわいい格好をされては困りますね」
横川は少女のようにワイシャツの裾をまた下に引っ張った。
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ブログ更新 https://etocoria.blogspot.com/2019/10/chantoyasashiku.html
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