喪の章

13/13
39人が本棚に入れています
本棚に追加
/252ページ
 階段を登ってきたのは、まだ若い青年である。淡い金髪は肩の下辺りまであり、その、見るからに入念に手入れされた巻き毛はヴェルヴェットの布で一つに結ばれていた。黄金の縁取りをした白いマントの下には鎧を身につけているが、その軽い足取りから見て、おそらく大した厚みではない。儀礼用なのだろう。淡い青の瞳が、興味深げに祭壇の間を一瞥した。 「お前が来たのか。イーレクス」  動揺が引かないせいか、酷くぶっきらぼうに〈魔王〉が告げる。 「イーレクス……? イグニシアの王子!?」  驚愕に、オーリが声を上げた。  イグニシア王国の第一王子、イーレクス。彼は、フルトゥナとの西の国境線で戦っている筈だった。  最後の戦況報告が来たのが、十日以上前。船を使えば、その日数でここまで来ることは可能だが、それはアーラ宮からは一望できる範囲だ。  湖からアーラ宮までは馬でも三日はかかる。確かに、今日は流石にそんな余裕はない。しかしそれ以前にも、オーリは何も報告を受けていない。  何故今、こんなところに。  イーレクスが、ちらりとこちらを見る。  だが、血と汗と埃にまみれ、失血と疲労とで蒼白になっているオーリは何ら重要ではない、と判断したのだろう。簡単にアルマへと向き直った。 「お前の傷を癒すのは、かなり面倒だと彼が文句を言っていたぞ。前だって、五日かかったじゃないか。気をつけろ」  癒す、という行為は、竜王の高位の巫子にしかできないことだ。火竜王の高位の巫子は、やはりこの戦いに参加していたのだろうか。 「余計な世話だ」  しかし一言で返されて、イーレクスは見るからにむっとした。 「こんな少人数の相手、さっさと終わらせてしまえよ。そんなこともできないようで、我が義弟になりたいなどとおこがまし」  王子の両耳を掠めるように、矢が放たれる。瞬時に口を噤んで、彼は信じられない、というように対峙する風竜王の民を見つめた。 「〈魔王〉に手は出すな、と言われているが、それ以外は止められていないんだ。王子なら、人質として充分価値があるよなぁ?」  ぎりぎりと、次の矢を引き絞りながらリームスが低く告げる。 「ああ、気にしないでいい、オーリ。耳を切り落としたところで死ぬ訳でもないし、音が聞こえなくなる訳でもないんだから。実際、かなり無害な方法だよ、これは」  その隣で、やはり矢を番え、明るくアルクスが声を上げた。  ぞっとした顔で、イーレクスはそろそろとアルマの背後に隠れる。 「用事があったんじゃないのか?」  軽く嘲るような声で、〈魔王〉が尋ねた。 「ああ、その、彼から預かりものだ。これを」  マントの下から、片手を出す。青年の掌よりも少し大きい、一本の水晶だった。透明な結晶のそこここに、まるで煙のようにたなびく黒い影が入っている。 「これを使ってお前が呪いを発すれば、フルトゥナの民は一人として生き延びられない。そして、風竜王も、存在の一片すら残さずに消滅する。お前がぐずぐずしているからだぞ、アルマナセル」  僅かに眉を寄せ、〈魔王〉は差し出された水晶を見下ろしている。 「()て!」  鋭い命令が響いた瞬間、複数の弦が鳴った。  イーレクスに向けて放たれた矢は、しかし、舞うように振るわれたアルマの剣に一掃される。  ばさ、と重い音を立てて、〈魔王〉のマントが主人の身体の周囲に落ち着く。 「イーレクス。もっと近くに寄れ」  恐怖に顔を引き攣らせていた青年は、戸惑ったように足元に視線を向ける。  そこには、先ほどアルマが流した血が赤黒く広がっていた。 「スカートを汚すのが嫌なら、裾を持ち上げていればよかろう」  素っ気なく続けられて、むっとした表情でイーレクスはアルマの背後に隠れた。  そして、無造作に差し出された大きな手の上に、水晶の結晶を載せる。 「よせ、アルマ……!」  初めて、懇願すら感じられる響きをもって、オリヴィニスが声を上げる。  しかし〈魔王〉は、僅かに眉を寄せた表情のまま、その水晶を握り潰した。  ぱらぱらと、小さな、鋭い結晶が落下する。  それは〈魔王〉の流した、粘ついた血液の中に落ち、赤黒くその身を穢していく。  そして再び剣を抜き、アルマはその切っ先を血の中につけた。小さく、その先端で円を描く。  ぼこり、と鈍い音が立つ。〈魔王〉の足元、黒い影の落ちた、禍々しいその血の池に、小さく泡が立ったのだ。  ひっ、とイーレクスが小さく声を漏らす。 「……ニネミア!」  オーリが叫ぶ。  次の瞬間、祭壇の間にその主が顕現した。  蛇のような肢体、それを覆う、淡い黄緑色の鱗。首の周りを彩る、一連の羽毛。淡い色彩が交じり合った翼。腹部の羽毛は、染み一つなく真っ白だ。その存在は、黄金の光で包まれていた。  いつ目にしても、そうこんな時でさえ、その姿はオーリの胸を誇りで一杯とする。  初めて竜王を目にする草原の戦士たちや、イーレクスが更に怯む。以前見たことがあっても、それでもやはり親衛隊員もその強大な存在に及び腰ではあった。 「ぐ……っ」  アルマが、その圧迫感に眉を寄せる。  風竜王が静かに、ひたりと視線を〈魔王〉に向けていた。  アルマの腕が小さく震えている。心なしか、顔色も悪い。  彼の流した血が、沸騰するかのように泡立ち、揺れ続ける。 「ニネミア、他に方法は……! 判ってます、時間がない。だけど! だけど、そんなことは、そんなことをしたら」  オーリが、縋るように、(こいねが)うように語りかけ続けている。  その間にも沸き立つ泡が、次第に形を変えていく。  丸い泡から、数本の突起物が生えて。  まるで、赤黒い、小さな、子供の手のような形に。  草原の戦士たちは、目がいい。泡の変化に気づいて、ぞっとしたように息を飲んだ。  ゆらゆらと手が揺れて、少しずつ伸びて、一様にその場にいる風竜王宮の民の方へと指先を向ける。  高位の巫子の方へと。  風竜王の、方へと。 「オーリ……」  ごくり、と喉を鳴らし、リームスが小さく呟いた。  苛立たしげに、オーリは〈魔王〉を睨みつける。 「……アルマ。私は、君を許さない」  吐き捨てるように告げて、そして。  彼は手にした剣で、自らの左腕を、肘から手首まで縦に切り裂いた。 「オーリ!」  慌ててアルクスが一歩前へ出る。 「来るな!」  しかし、鋭く制止されて、足を止めた。  オーリは、竜王の御力で傷を癒すことができる。心配は要らない。  そう、皆が自らに言い聞かせ、歯を食いしばり、ただ背後に控える。  ぼたぼたと、高位の巫子の血が、祭壇の間に捧げられる。 「何をするつもりだ」  不審そうに、アルマが問いかける。 「決まっている。君を、止めるんだ。君の呪いを」 「お前にはもう何もできんよ。高位の巫子。これは、解放した時点で既に完成していた呪いだ。干渉はできん。それに、もう遅い」  アルマの口調は酷く素っ気ない。  赤黒い、小さな手は、子供のもののようなその外見からはありえないほどの長さとなって、床を這うように近づいてきている。 「忘れたのか? そこにあるのは、君の血だけじゃない。つい先刻(さっき)、君が私を傷つけた、その時の血が混じっている。干渉できない訳がない」  嘲るように、オーリは告げた。鋭く、〈魔王〉は足元を見下ろす。 「もう、遅い」  小さく告げたと同時、オーリの傷口から流れ出す血液が乾き始める。ぱりぱりと薄く剥がれるそれは、すぐに呪いの腕に波及した。  滑らかさを失い、固く乾いていくその腕は、やがて自重に耐え切れず、指や手首の細い部分で折れ始める。 「うわ……」  げんなりした声で、アルクスが呟く。草原の戦士である彼は、どうしてもこのような超自然的現象が苦手だ。 「なるほど。ならば、優先順位を変えるまでだ」  アルマは剣を血の中より抜いた。ひゅん、と鋭い音を立て、切っ先は前方から上方へと飛沫を散らしながら動く。  ざあ、と、残った腕が向きを変えた。アルマとイーレクスの脚の間をすり抜け、祭壇の間の床を這い、そして細い柱を伝い上がっていく。  優先順位を、標的を変える、ということは、つまり。  できる限り引き伸ばしてきたが、ここまで、だ。 「……我が竜王の名と、その誇りに、かけて」  ぎり、とオーリは奥歯を噛み締めた。  そして。 「……風竜王ニネミアの地上代理人、高位の巫子オリヴィニスが、フルトゥナの民へ告げる!」  その次に発した声は、フルトゥナ全土に響き渡った。 「とくと聞くがいい、我が民よ。風竜王からの、最後の命令を申し伝える。  現在、イグニシア王子イーレクス、及び〈魔王〉アルマナセルにより、我らフルトゥナの民に呪いがかけられつつある。竜王と我ら民を、等しく呪い殺さんとする目的で。  無論、私、高位の巫子が、全力を持って竜王と共にその呪いを阻もう。  しかし、おそらくは完全に消滅させることは望めない。  故に、今この時より、全ての民をフルトゥナの土地から追放する!」 「オリヴィニス……!」  驚愕の声が、背後より響く。  だが、高位の巫子はそれに振り返らない。 「風竜王の加護より放逐され、フルトゥナの土地に立たぬ民に、呪詛は降りかからない。  私が唯一の民となり、この呪詛を一身に受け、呪を封じこめることとなる。それより他に、手段がないのだ。  我が民、我が竜王の愛した民よ、今すぐに、この豊かなる草原の地より旅立つがいい。国境を越え、湖に、海に逃げ延びよ。  一時間でも早く、一人でも、多く!」 「莫迦なことを、お前……!」  オーリは、鋭く腕を振った。その示す先、まだ呪いの姿のない、祭壇の間の外部に、薄い緑色をした球体が浮かんでいる。 「お前たちにしてやれることは、これが最後だ。それに乗れ。地面まで無事に降りられる」 「オーリ!」 「これは風竜王のご命令だ! 民を救え。一人でも多く、連れて逃げろ。生き延びろ。何があってもだ。絶対に、死ぬな。絶対に!」  振り返らず、民に、民だった者たちに背を向けたまま、オーリはそう命じた。視線はただ、無言のままの〈魔王〉と王子に向けられている。  絶望した顔つきで、それでも、一人、二人、と、風竜王宮親衛隊はその場を離れた。  彼らは、竜王に仕える者たちだ。その意向に背くことはない。  ただ一人、最後まで動こうとしなかったのは、草原の戦士アルクスである。  リームスが無言でその肩に手を乗せる。  しかし彼は、それを無視して叫んだ。 「お前は俺に、負けて逃げ出せと言うのか、勇敢なる巫子。お前がいる限り、お前が無事でいる限り、俺は負けていなかった。例え、どれほど敵から逃げ続けていてもだ! お前は、また、俺に恥辱を与えようというのか!」  ふ、と、オーリの肩から力が抜ける。 「大丈夫だ、アルクス。私は死なない。だから、お前は負けて逃げる訳じゃないよ」 「詭弁だ!」  しかし、アルクスは更に喚く。 「リームス」  名を呼ばれ、リームスは無言でアルクスの腕を掴み、引いた。 「莫迦だ、お前は……! オーリ!」  二人が風竜王の作り出した球体に入ると、それはすぐに下降を始めた。見上げると、アーラ宮の最上階、祭壇の間の屋根を埋め尽くすように、赤黒い呪が広がっている。  オーリは、それを知らない。ただ、上からのおぞましい気配だけを感じていた。 「感動的だな、高位の巫子」  嘲るように、イーレクスが口を出す。 「お褒めに預かり、いたみいる。王子。だが、感動的なのはここまでだ」 「ほう?」  オーリの背後に控えていた戦士たちが消えて、どうやら気が大きくなったらしい。イーレクスは尊大に問い返した。  その金髪の王子を、真っ直ぐに見据える。 「何故なら、今から私が風竜王の唯一の民となるからだ。私が、一人きりでいる私が、どれほどの力を行使できるか、その身を以って知るがいい」  高位の巫子の背後を護るように在る風竜王より、黄金色の光が強まった。  それを目にし、イーレクスは僅かに後ずさる。  アルマが、更に眉を寄せ、耐えるような表情になった。  が、すぐに彼は視線を背後に向ける。  下層へと通じる階段へ。 「……オリヴィニス。我らはこれで失礼しよう。気の短い連れが焦れているようだ」  アルマの言葉に、苛立つ。 「君は何を言っている?」 「この後、呪は天に達し、空よりこの地を覆い尽くすだろう。この地に立つ者たちを等しく呪い殺すために。我らを足止めするよりも、そちらを阻むことに尽力するがいい」 「おい、アルマナセル」  不快げな顔で、イーレクスが咎める。 「なに、失敗はせんよ。王子。……では、な、吟遊詩人。全てが終わった後、お前の歌を聞くことができるように祈っている」  イーレクスの肩に手をやり、階段へと押しやりながら、〈魔王〉アルマナセルは風竜王の民へそう告げた。 「待て……!」  声を上げたものの、頭上を覆いつつある呪いの存在が、徐々に重くなっていくのは確かだ。  舌打ちをして、オーリは気持ちを切り替えた。  今は、民がこの土地から逃げ出すだけの時間を稼がなければならない。  深呼吸して、背後を振り仰いだ。  エメラルドの瞳が、静かに見下ろしてきている。 「……ニネミア。私を、いつまで生かしておくことが可能ですか?」  その問いに、風竜王は即座に答えを返してきた。  いつものように。  いつもよりも、はっきりと。  薄く笑みを浮かべる。 「それは、悪くない」  そして、高位の巫子は踵を返し、彼が仕える竜王の祭壇の前に、立った。  〈魔王〉アルマナセルの呪いが天に達し、空を多い尽くし、フルトゥナの地に立つ人間を(ことごと)く死に至らしめるまで、七日七晩を費やした。  異形の血によって生まれ出でた、(おびただ)しい数のおぞましき赤黒い腕は、やがて何故か白く変わっていたという。  時が経ち、その事態を生き延びた者たちが死に絶えた頃には、呪いを目視できる者も絶えてしまう。  そして、風竜王とその最後の巫子を覚えている者たちも、ごく少なくなっていったのだ。  〈魔王〉の(すえ)、レヴァンダル大公子アルマナセルは、勿論この物語を全て聞かされた訳ではない。  語り手であるオーリは、さりげなく、実に巧妙に、数々の事実を隠蔽(いんぺい)した。まあその殆どは、当時の関係者のプライバシーに関するものではあったのだが。  しかし、この時期に数日間をかけて語られた話だけでも、アルマは酷く驚嘆し、そして時に頭を抱えた。 「何か……。凄く、印象が崩れた気がする……」  苦悩する少年を、苦笑しつつオーリは見つめる。  風竜王の最後の高位の巫子に関しては、元々、イグニシアにさほど文献はない。曖昧だった印象は、この青年に直接関わりあった時点で既にはっきりと決定づけられていた。今更、特に問題はない。  問題なのは、彼の始祖、〈魔王〉アルマナセルについてだ。 「うん、私が初めて君に会った時にまず驚いたのは、彼ほど莫迦じゃなかったってことかなぁ」 「莫迦って言うな!」  しみじみと告げるオーリに、何か大切なものを護りたい気分で怒鳴り返す。 「あと、君が歌が好きだ、って聞いた時も、驚いたよ」  笑みを消さずに続けられた言葉には、流石に黙りこんだ。  今までに聞いたことがある、彼の数々の歌を思い出す。 「……なあ。〈魔王〉は、何で、最後にお前の歌を聞きたいって言ったんだ?」 「聞くことができるように祈っている、だよ」  その言葉を忘れてはいないのだろう。律儀に訂正してくる。 「それに関しては、私もかなり考えた。ひと段落してから、戻ってくるつもりだったのか、とか。それは、幾ら彼にしてもあまりに状況が読めない行動だと思うけどね。どのみち、戻ってはこなかった訳だし。それで最後まで残った推測が、彼は、抜け穴を作ってくれていたのかな、ってことだよ」 「抜け穴?」  意味が掴めなくて、問い返す。 「フルトゥナを覆った呪いは、本来はもっと別なものだった。私がかなりずるをして、あそこまで限定を狭めた訳だけど。だけど、侵入者は全て拒んだ筈なんだ。民を象徴する人間も、風竜王を象徴する、音も」 「音……?」  オーリは軽く頷く。 「あの地で、私は、外の世界で奏でられる歌を、聴くことができたんだ」 「〈吟遊詩人〉、というのは、歌を歌って放浪するだけじゃない。各地の情報を、他の地域へ伝える役割も持っている。吟遊詩人が、そしてロマが奏でる歌を、情報を、私は得ることができた」  そういえば、オーリが歌う歌には、封じられていた三百年の間に作られたものが混じっている。 「そりゃあ、うん、恨んだよ。いや、もうかなり恨んでたんだから、更に恨み倒したよ。フルトゥナの民の苦難なんて、知りたい訳じゃない」  オーリは、薄い笑みを絶やさない。  それしか、表情を知らないように。 「でもまあ、知らなければ知らないでまた辛かっただろうし。その抜け穴が広がって、去年、私はフルトゥナを脱出できたのかな、とも思うし。おかげで、外の世界に出てもあまり戸惑わなくても済んだし、うん、結局は感謝すべきなんだろうね」  ぽん、と彼は結論を投げ出す。 「……お前は、まだ、許してやれないのか?」  誰を、とは限定せずに、そう問いかけた。  オーリは、少しばかり驚いたような表情になる。そして、片手を伸ばすと、無造作にアルマの黒髪を掻き回した。 「な……っ、お前、なに……!」  驚いて、上体を逸らせる。他人に頭を触れられるのは、まだ慣れない。 「子供が、知ったような口を叩くものじゃない。三百年だよ、アルマナセル。三百年だ。許せるものなら、忘れられるものなら、とっくにそうなってる」  真っ直ぐに瞳を向けられ、平坦な口調で告げられて、流石に恥じ入った。  そう、確かに、自分は子供なのだろう。  ……彼の言葉が、オーリは自分と〈魔王〉とを混同していない、という証左にも思えて、少しばかり嬉しかったりするが。  次の目的地まで、もう間もなくだった。
/252ページ

最初のコメントを投稿しよう!