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舞踏会からは随分と離れてしまったのと、静寂の魔術を使ったせいで、二人が身動きもしないでいると室内には一切の音が存在しない。舞踏会の音楽がちょっと恋しくなる。
「……じゃあさ。君にも、許嫁がいたりするのか?」
違う意味で沈黙を嫌ったのか、ノウマードが茶化すように口を開いた。
「いるぜ」
が、さらりと認めたアルマに、声も出ないほど驚愕する。
「……何だよその顔。俺を何だと思ってるんだ。許嫁の一人や二人や三人や四人」
「いや多すぎないかそれは」
流石に言葉を遮ったノウマードに、肩を竦めた。
「仕方ねぇだろ。替わるんだから」
「替わる?」
ノウマードが繰り返す。全く、この国における貴族の慣習ときたら、訳が判らない。
「一体誰が、好きこのんで〈魔王〉の血を引く男に嫁いで、〈魔王〉の血を引く子供を産みたがるんだ? うちの許嫁に選ばれた家は、その境遇から抜け出すために、懸命に努力する。大抵は、金を積んで回避するわけだ。そんな理由で、俺たちの許嫁は一、二年で替わることが多い」
今の許嫁の名前も顔も知らない、と、アルマは苦笑した。
「……君は、それでいいのか?」
固い声で、ノウマードが尋ねた。
「俺に何の決定権がある? 俺の母親は、俺を産んですぐ、実家へ帰った。俺は一度も母親に会ったことがないらしい。親父は今でも、毎年かなりの金額を送金してる。まあ、俺が産まれるまで、結構な年月を親父と過ごさなきゃいけなかったから、母親も気の毒ではあるんだけどな」
「そんな風に言うものじゃない。アルマナセル」
窘めるように、青年は言った。小さく苦笑して、口を噤む。
無音の空気が、重い。
「……君は、姫巫女のことが好きなんだと思っていたよ」
ノウマードが、ぽつりと零す。
「好きだよ」
自分でも意外なほどにあっさりと認めていた。
「だけど、駄目なんだ。判るだろう。俺に許嫁がいるからとか、彼女が水竜王の高位の巫女だからだとか、そういう理由じゃなくて」
やたらと疲れを感じて、アルマは俯いた。
「……もともと、決定的に、無理だったんだよ。結局のところ、ペルルと俺とは、上手くいったところで、精々いい友人でしかいられない」
〈魔王〉の血を引く少年の吐息が、震えている。
そのまま身動きひとつしない相手から、ノウマードは視線を逸らせた。
やがて、低く、甘い歌声が、ゆるやかに空気に満ちる。
彼の歌だけは、確かに素晴らしい。
俯いたままで、ぼんやりとアルマはそう考えた。
王侯貴族の朝は、遅い。
夜毎、舞踏会だ夜会だと深夜まで浮かれ騒ぐ彼らが眠りにつくのは、ほぼ夜明け近くとなる。自然、起き出すのは午後を回ってからだ。
その日、イグニシア王家の一粒種、王女ステラが目覚めたのは、普段に比べると格段に早い時間帯だった。
どすん、と鈍い音と共に、彼女の寝室から続くバルコニーに、何か重いものが落下したのだ。
ぼんやりとした意識のまま、ベッドを抜け出し、カーテンを引き開ける。
寝起きだからといって、彼女の判断が鈍っている訳ではない。ここは彼女の寝室で、彼女の宮殿で、彼女の王国だ。それを侵すような輩には、彼女は傲然と立ち向かう。
大きなガラスの張られた窓の向こう側に蹲っているのは、どうやら一人の男のようだった。
それに見覚えがあって、閂を外し、窓を開く。
びく、と男が顔を上げた。
「……あ」
王女の姿を認めて、彼は絶句した。次の瞬間、一瞬で紅潮した顔を背ける。
「ご無礼を……!」
無理もない。着替える間もなくここへ現れたステラは、素肌に薄物のガウンを纏っているだけだった。その、強調されるべき部位が見事に強調された姿は、大抵の男性には目の毒である。
だが、彼女は相手のそんな態度に羞恥を覚えたりはしなかった。この国で、彼女よりも高位の男など、父親ぐらいのものである。
バルコニーに座り、頑なに視線を向けようとしない青年は、前日の舞踏会で一度顔を合わせた吟遊詩人だった。確か、名前は。
「ノウマード?」
「あの、申し訳ございません、王女。今すぐ失礼致します」
「お待ちなさい」
立ち上がろうとして背を向けかけた青年を、一言で凍りつかせる。
「貴方が、どうして今、こんなところへいるの?」
静かで、柔らかですらある言葉が、強固な力を持つ。
「……その、昨夜の舞踏会で、幾人かの方々に私の歌をお気に召して頂けたのです。個人的に歌って欲しい、とのことでしたので、王宮の客室で歌わせて頂いていたのですが、あの、一人の貴婦人が……」
語尾を濁す内容ではあったが、大体は状況を把握できる。だが、その状況が腑に落ちない。
「それで? まだ、どうしてここにいるかの理由にはなっていないわ」
「隙を見て、窓から木の枝を伝って脱出したのです。幾らか離れた辺りで、その方には諦めて頂けたようでしたが、迷ってしまって。そこの、上の枝で足を滑らせてこちらに」
ノウマードの、恥じ入ったような言葉が、ゆっくりと理解できていく。
「……まさか、貴方、断ったというの?」
「はい。ああ、いえ、聞く耳を持っては下さらなかったのですが」
理解はできてきたが、信じられない。貴族の誘いを、一人前の男が、しかもロマという身分でありながら断るなど。
「……でも、どうして?」
僅かに、王女の声が甘みを増した。
「どうして、とおっしゃいましても……。適切ではないから、としか。私には、心に決めた方がおりますし」
戸惑ったようなノウマードの言葉に、僅かに苛立つ。
「あら。アルマナセルも、貴方を置いて帰ってしまうなんて、薄情なのね」
「……いえ、アルマナセル、様は、私の庇護者ではありませんが」
不審そうな返事が、少しばかり意外だ。昨夜、二人きりでいた場を目撃していたこともあって、てっきり、最低限でもアルマが彼を王宮へと連れてきた当人だと思っていた。
「王女。知らぬとはいえ、貴女の寝所へ押し入るに近い真似をしてしまい、申し訳ございません。すぐさま立ち去り、二度とこちらには近づきませぬので、どうぞお許し頂けないでしょうか」
吟遊詩人の声に、悲痛さが混じる。無理もない。このような状況、ステラが一言口にするだけで、ノウマードは縛り首になってもおかしくはないのだ。
だが、その代わり、黒髪の王女はゆっくりと身を屈めた。
背後から腕を回されて、ノウマードがびくり、と身体を震わせる。
「王、女」
「ああ、可哀想に。こんなに手を冷たくさせて」
細い、真っ白い掌が、吟遊詩人の手を包みこんだ。
柔らかく、温かな身体が、しっとりと押しつけられる。
「その、王女、外はまだ寒うございます。早く中へお戻りになった方が」
「そうね。私のベッドは、おそらくまだ暖かいわ。貴方もこのままでは辛いでしょう」
腕の中の鼓動が高まるのを、ステラは確かに感じ取っていた。
舞踏会の夜から、五日。
アルマナセルは、退屈していた。
自室の椅子に腰掛けて、考えこむ。
「前はどうやって暇を潰してたんだっけな……」
従軍する以前、ほんの半年ほど前のことだというのに、さっぱり思い出せない。
王国軍のテナークスは色々と忙しくしているようで、幾度か使者に書類を持って寄越した。だが、二人がわざわざ顔を合わせるほどのことではないようだ。
時刻は、まだ午後を回った辺りだ。長い一日を思って、溜め息を落とす。
「……論文でも進めるか」
従軍する前に教授から出されていた課題を思い出して、重い腰を上げた。
彼個人の書斎へと入る。薄暗い部屋の中は、それでも掃除が行き届いていて、黴や埃の匂いなどは全くしない。
壁一面に誂えられている、重厚な本棚の前で立ち止まる。資料を入れた棚を目でなぞった。
「……あれ」
ぽっかりと、数冊空いた空間を目にして、呟く。幾度か、周辺の書名を確認したが、必要な本の名前は見当たらない。
一瞬で、ざっと血の気が引く。
消えていたのは、歴史学を教わっているリッテラ教授から借りた本だった。
そもそも、書物は貴重だ。専門的で、写本が多く出回っていないものであれば、尚更。
「エスタ!」
慌てて扉を開き、無人の廊下へ向けて叫ぶ。すぐに、青年は姿を見せた。
「いかがなさいましたか、アルマ様」
「教授から借りた本がなくなっている。不在の間に何かあったか、調べてきてくれ」
簡潔に命令する。うやうやしく頭を下げて、エスタは階下へと姿を消した。
書斎に戻って、苛々と歩き回る。こんな形で退屈を紛らわせたい訳ではなかった。
書物の行方は、十分後にあっさりと判明した。
「持ち帰られた?」
呆気に取られた顔で、アルマが呟く。
「はい。アルマ様がこちらを発って数日後に、リッテラ教授のお弟子様が取りに来られたそうです。使わないのであれば、返して頂きたいと。旦那様の許可があったそうなので、お渡ししたとのことでした」
生真面目な表情で、エスタが報告する。アルマが帰郷してすぐにその報告がなかったことに気分を害しているようだ。
「あー、そうか。そりゃそうだな。教授だって使うだろうし」
むしろ、従軍する前に自分から返しておくべきだった。
だが、それからもう半年以上経っている。教授が使う時期は終わったかもしれないし、レポートの作成にはあれらの資料が必要だ。
即座に決断して、エスタに声をかける。
「馬車を用意してくれ。教授に会いに行こう」
何より、退屈が紛れそうだった。
馬車の、柔らかなクッション張りの座席に身を沈め、窓から外を眺める。
王都の街路は、人通りが多い。馬車だけでなく、荷馬車や手押し車などが混在していて、進みはかなり遅かった。
道の両脇に建つ建物の上、暗く蟠る雲が空を覆っている。
もう秋も終わりに近い。冬になると、イグニシアではずっとこのような曇り空が続く。青空など、殆ど覗くことはない。
つられて陰鬱な気分になりかけていたアルマが、鋭く息を飲んだ。
街路の端、徒歩で歩く人々の中に、緑の布を額に巻いた見慣れた人影が、あった。
即座に腰を浮かし、御者の背後の壁を叩く。
「アルマ様?」
「停めろ!」
戸惑ったような御者の問いかけに、強引に命じる。
そのまま停止した馬車の扉を押し開けた。
「この辺りで待ってろ。ちょっと用事ができた」
「お待ち下さい、アルマ様!」
背にかけられる声を無視して、人混みをかき分ける。
舞踏会の夜、結局ノウマードはアルマの数々の制止をうやむやにしたまま、姿を消した。
まあそれに関しては、なりゆきで強く出られなかった自分が悪いとも言えるが。
とりあえずもう一度顔を合わせて、しっかりと念を押しておきたい。
ほんの三ヶ月程度のつき合いだったとはいえ、彼に何かあれば、やはり寝覚めが悪いのだ。
だが、彼の進んでいた方向へ走ってみても、その姿は見当たらない。
悪態をついて、途中の路地を曲がる。
幾度か、そうやって進んでいった先には、大きな公園が広がっていた。
針葉樹の並木道が通り、茶色く枯れた芝生の上に、焼き栗を売る男がいる。多くの家族連れや若者たちが、のんびりと散歩をしていた。遠くに、十数人のロマが歌い、踊る様子が見て取れた。
僅かに眉を寄せる。ノウマードは、以前、ロマに会いたくはないと言っていた。
こちらには来なかったかもしれない。だが、あの言葉が真実かどうかも彼には判別できない。あの青年は、他人を煙に巻くのが酷く得意だ。
どちらにせよ、最初に彼を見かけてからもう二十分近く経っている。このまま闇雲に探して、見つけ出せるとも思えない。
「ああ、くそ……!」
諦めようか。なげやりに、そう考えかけた時。
「兄ちゃん。何か、捜してんのか?」
声を、かけられた。
振り向くと、そこには一人の子供がいた。
おそらく、十歳になるかならないか。色とりどりの模様を染め抜いた服を身につけ、奇妙な形の帽子を被っている。
ロマの、子供だ。
「ああ、ええと……」
口ごもるアルマに、にやりとふてぶてしい笑みを向けてきた。
ロマを探すのならば、ロマに訊くべきかもしれない。そう判断して、口を開く。
「人を捜してる。二十を過ぎたぐらいの、ロマの男だ。栗色の髪に、緑色の布を頭に巻いていた。服……は、今、何を着ているか判らないな。リュートを持っていて、つい一週間前に王都に着いたところだ」
「最近来た奴なんだな? じゃあ、心当たりはあるよ」
「本当か?」
「あんた、いいとこの人だろう。ロマがそこそこ安全に滞在できるところなんて、この街じゃ限られてるんだ」
そう言って、子供は掌を上にして片手を伸ばしてきた。
きょとん、とアルマはそれを見つめている。
「銅貨十枚で手を打ってやるよ。格安だぜ?」
その言葉に、数度瞬いた。
「あ。……俺、現金持ってねぇ」
「はぁ!?」
うっかり呟いたところ、子供が裏返った声を上げた。
「何だよもう……。台無しじゃねぇか」
ぶつぶつと不服そうに呟いている。
「無理か? だよなぁ……」
眉を下げて、アルマが問いかける。が、いくら庶民の世界を知らないと言っても、流石にそれぐらいの判断はついたのか、肩を落とした。
吐息を漏らすと、子供が腰に手を当てて、仁王立ちで睨め上げてきた。
「出世払いでいいよ。来な」
「え?」
「あんた、偉くなるんだろ? 期待してるぜ」
くるりと踵を返し、肩越しににやりと笑うその様子は、とても幼い子供には思えない。
ちょっとばかり複雑な気分で、アルマは彼の後に続いた。
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