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数日間、彼らは何事もないまま馬を進めた。
事態が動いたのは、マエロル山を越える頃のことである。
マエロル山は、さほど大きなものではない。低めの峠を選べば、一日で越えられる程度のものだ。
旅の手順にも慣れ、進む道を先行して様子を見てくる役目は、時折アルマにも任され始めた。
ノウマードは、未だ単独での行動は許されていない。が、彼の見張りや偵察などを全てクセロ一人で行うことは難しいのだ。
傾斜を帯びた山道は、そろそろ舗装の状態が悪くなってきている。
蹄の音を響かせながら、周囲に気を配っていたアルマが、ふいに手綱を引いた。
「ああ、そこのお若い旦那様! どうかお助けくださいませ!」
「……あれ」
ノウマードが小さく呟いた。
「どうした?」
傍で馬を進めるクセロが尋ねる。
「いや、アルマが戻ってくるみたいなんだけど。何だか、彼とは違う声がする」
片手を、曖昧に前方に向かって振る。
しかし要領を得ない顔のまま、数分ほどが経つ。
やがて、彼らにもそれは聞こえてきた。
「う、馬というものは、ひどく、揺れるものなんですね」
きゃあきゃあと、半ば楽しんでいるような黄色い声が。
「……何やってんだ、あの旦那……」
苦々しげにクセロがこぼす。
すぐに、アルマが木立の間から姿を見せた。
鞍の前に、横抱きにするように一人の少女を座らせて。
「クセロ」
断固とした声で、グランは短く命じた。
馬から滑り降り、男は小走りにアルマの元へと進む。
「ああ、クセロ……」
「うちの坊っちゃんがお呼びだぜ、旦那」
機先を制して、指示を告げる。反射的にアルマが鼻白んだ。
「早いところ済ませてしまった方がいいと思うね」
彼自身、あからさまに棘を感じさせる口調で忠告する。溜め息をついて、アルマは馬を下りた。
「あ、あの、旦那様……」
「大丈夫。説明してくるから、心配するな」
不安げに見下ろしてくる少女に言って、手綱をクセロに預ける。そして、数メートル離れたところで停まっている馬車に近づいた。
「何のつもりだ、アルマ」
不快さを隠しもしない表情で、低く、グランが問い詰めた。ノウマードは呆れた表情でアルマを見下ろしている。
「いや、この先の道で見つけたんだよ。彼女はアコニートゥ。山向こうの農場で働いているらしいんだけど、こっちに使いに行かされた帰り道で驢馬に逃げられたんだ。で、足が悪くて山を一人じゃ越えられないって言うから」
「言うから?」
一言一言を強調するように繰り返す。
「……近くまで、乗せていってやれないかと思ってさ」
「お前は何を考えている!」
とうとう、幼い巫子が怒りを破裂させた。
「今の僕たちが、やたらと人に関わる訳にはいかないということぐらい、お前の頭の中身は覚えておけないのか!?」
「そんなこと言っても、放っておけないだろうが! 山道で、しかも足の悪い女の子だぞ? お前の、民への慈悲はそんなものか?」
負けじとアルマが言い返す。
「大義の前では、民に慈悲を与えられなくても仕方ないこともある」
が、全く心を痛ませている片鱗も見せず、グランはそれに即答した。
「うわあ言い切りやがった」
アルマが小さく呻く。
「……私は、昔、君のお祖父さんをちょっとだけ知っていたけど」
しみじみとノウマードが口を挟んだ。
「君の家系には、どこか女性に弱いところがあるんだねぇ」
「お前は黙ってろ!」
腹立ち紛れに怒鳴りつける。
ペルルが、グランの隣からひょい、と顔を出した。
窓の傍に立つ少年たちの間から、少し離れた場所で馬に乗る少女の姿が見える。
年の頃はアルマと同じぐらいか。おどおどとこちらの様子を伺う少女は気弱げで、護ってやりたいと思うのも無理はない。
そして北国の民であるからか、その肌は農場の娘だというのに酷く白く、頬は薔薇色に染まっている。二本のお下げにした髪は、濃い金髪だ。そしてその体は、健康的で、肉付きがいい。そう、主に上半身に。
「……まあ」
ペルルが小さく呟く。その言葉を、不運な少女への同情だと思ったのか、アルマが再び声を上げた。
「そもそも、救けを求める人間がいるのに、それを断って素通りする方が、よっぽど目立つだろうが。そんなことしたら、この地方の農夫たちの間で悪評が広まって、追っ手の耳にも入ることになる」
その主張には、確かに一理はある。
グランが渋い顔で、沈黙する。
「あの哀れな少女を、放っておくことはできないでしょう? ペルル」
少年が水を向けるのに、水竜王の高位の巫女は、にっこりと笑みを浮かべた。
「アルマ様がそうご判断されるのであれば、そうなのでしょうね」
ノウマードとグランが、まじまじと少女を見つめてくる。
「ええと、姫巫女……?」
「アルマ様は、今までずっと、間違ったご判断で私を危険に晒されたことはありませんでした。今度も、きっと正しい道をお選びになると信じておりますわ」
ゆっくりと、二人の視線はもう一度アルマに戻る。
当の本人はペルルの賛同を得たと思い、嬉しげに頷いていたりしたが。
「……アルマ、ちょっと考え直した方が」
「あら、失礼ですよ。ノウマード」
こっそりと囁きかけた青年の言葉を、ペルルが遮る。
グランは、長く、重い溜め息をついた。
「判った。お前が自分で全てに責任を持つのなら、よしとしよう」
アコニートゥを馬車に乗せる、という案は即座に却下された。
「必要以上に我々の情報を与えるつもりはない」
グランがそう決断し、譲らなかったためだ。
荷馬の一頭を彼女のために空ける、という案は、彼女が固持した。
昔から足が悪く、驢馬にしか乗ったことがないために、馬で山道を進むのは自信がないと主張したためだ。
馬に比べると、確かに驢馬の穏やかな歩みは揺れが少なく、彼女にも負担は少ないのだろう。
だが、今彼らは驢馬を連れてはいない。
やむなく、アルマがここまで彼女を連れてきたように、二人で一頭の馬に乗ることになった。鞍の前部分は少々乗り心地が悪いが、やむを得まい。少年と少女の体重では、馬にとってもそう重いということでもないのだ。
そして、自然にアルマは先頭を歩くことになる。
ちらり、と背後に視線を流す。馬車とその傍を歩く馬たちは、アルマとの距離をかなり取っていた。
オーラレィを出発してから、具体的な危険を感じたことがないために、つい、ここまで警戒する必要があるのかと疑問に思う。
「そう言えば旦那様。お名前をお訊きしていませんでした」
片手をアルマの背中に回し、片手で胸の辺りに捕まった姿勢で、アコニートゥが尋ねる。馬が揺れるので、それでも危なっかしいようだ。時折、小さく悲鳴を上げてはしがみついてきていた。
「ん? あー、名前か。エスタだ」
彼らは身元を隠しているが、具体的に偽名は決めていなかった。咄嗟に、親しい青年の名前を騙る。
「エスタ様」
小さく名前を呼んで、ふふ、と笑みを零す。その姿は、純朴な娘にしか見えない。
かなりの時間揉めていたせいで、さほど距離を稼げないままに昼食になった。
ここでも、アルマとアコニートゥは二人きりだ。しかも馬の世話を、アルマは外された。
その娘の傍から離れるな、とグランが伝言を寄越してきたからだ。
やがて、憮然とした表情のプリムラが二人分の食事を届けに来た。
「悪いな」
手を伸ばして受け取ろうとしたところで、ひょい、と取り上げられる。
「……子供みたいなことするなよ……」
呆れたようなアルマの言葉に、更にむっとした表情を見せて、プリムラは顔を寄せる。
「いい? ペ……お嬢様を悲しませるようなことしたら、あたしが黙ってないんだからね」
草地にアルマのマントを敷き、その上に座っているアコニートゥをじろりと睨みつける。
「そんなことする訳ないだろうが」
言いがかりとも言える言葉に、当惑しながらも短く返す。それに鼻を鳴らして昼食の包みを手渡すと、プリムラは荒い足音を立てながら戻っていった。
憎まれ口は叩いたが、相手は紛うことなき子供である。腹を立てるのも大人げない。数秒間、プリムラの後ろ姿を見送ってから、少女の隣に腰を下ろす。包みを一つ、アコニートゥに差し出した。
「あの……、何だか怖い方ばかりなのですね」
怯えたような視線を、上目遣い気味に向けてくる。長い睫毛の影が落ちて、その表情に憂いが増した。
「ああいや、そういう訳じゃない。ちょっと、その、家族の問題でごたごたしてて、みんな余裕がないんだよ」
慌てて言い繕う。彼ら一行に、気持ちの余裕がなくなりつつあるのは確かだ。
「なら、いいのですけど」
囁くように返して、そっと片手をアルマの腕に添える。
少年はその手を柔らかく外すと、手にした包みを乗せた。
「食べろよ。腹減ってるだろ」
僅かにきょとん、とした表情を浮かべてから、アコニートゥは微笑んだ。
馬の世話を終わらせたノウマードとクセロが馬車に近づく。
離れたところに座る少年少女に、クセロが呆れたように頭を振った。
ふいに、ノウマードが空を見上げる。
「どうした?」
「……いや。雨……、雪か? ちょっと違うな」
「降りそうなのか?」
眉を寄せて、クセロも空を振り仰ぐ。
相変わらずの曇り空だが、雨雲のような兆候は見られない。山頂付近にも、まだ積雪は視認できなかった。まして、ここは数ある山道の中でもかなり低いルートだ。
「匂いがちょっと違うんだ。どう違うかは上手く言えないんだけど」
小首を傾げながら、ノウマードが説明する。
「おれには判んねぇなあ」
くんくんと周囲の空気を嗅いでいるクセロに、苦笑した。
「コツがあるんだよ」
しかしそう言う相手は、風竜王の高位の巫子だ。一介の悪党とは、その能力に歴然とした差がある。
その辺りを追求することを、クセロはあっさりと諦めた。
「大将に知らせておこう。気をつけた方がいいかもしれない」
相手の肩を軽く叩くと、クセロは再び馬車に向けて歩き出した。
馬車の中は、会話が途切れがちになっていた。
旅に出てからもう数日だ。毎日改めて話すことはさほど増えない。
その上、今日はグランがあからさまに苛立っている。大半の時間を、眉を寄せて窓の外を見ていたり、長く溜め息を漏らしたり、爪を噛んだりして過ごしていた。
同乗者であるペルルは、しかしそれを咎めることはない。ぼんやりとただ前を向いて座っていた。
動くことがあるとすれば、時折視線を窓に向けかけて、思い直すように途中で止める、という動作ぐらいだ。
「……何だ?」
グランが小さく呟いたのに気づいたのは、彼女にしては意識を外に向けていた時だったからだろう。
「どうかされまして?」
「何か、ぶつからなかったか?」
訝しげに、視線を天井へ向けて耳を澄ます。
かつん、と小さな音がそこから発せられた。
「小石でも当たったのでしょうか」
小首を傾げて、ペルルが口にする。
「どうやって屋根の上まで撥ね上がる? むしろ、これは……」
何かに思い至ったのか、言葉を止めた。数秒の空白ののち、勢いよく窓を開ける。
「クセロ! オリヴィニス! 気をつけろ、雹だ!」
青年たちが鋭く空を見上げた。
かつん、かつん、と屋根に当たる音が増えてくる。
「先刻の匂いはこれか……」
ノウマードが苦々しげに呟いた。
フルトゥナは大陸の南部にあった国だ。雹は、あまり馴染みがない。
彼が匂い自体には気づいたものの、正体が掴めなかったのはそのせいだ。
「しばらく続きそうか?」
避難場所を探そうとしてか、辺りを見回しながらクセロが尋ねる。しかし、山道を進んでいる今、周囲の見通しは悪い。
「多分。割と匂いが強くなっている」
こちらも焦りを滲ませて、ノウマードが答える。
雹は、氷の塊だ。長時間降ると、地面に敷き詰められた氷は一気に気温を下げる。しかも大きさを増すと、落下してくる雹が身体に当たった場合、酷い怪我をしかねない。
時間は、午後を過ぎたところだ。麓までは、まだ遠い。
そして、天幕では雹を防ぐには心許ない。……野営できる場所を探せるかどうかは別問題としても。
「クセロ!」
アルマが、前方から馬を駆って戻ってきた。アコニートゥがその身体にしがみついている。
彼は馬車の手前で、手綱を引いて停まった。
「まずいぞ。彼女の話だと、この季節に降る雹は、かなり大きくなるようだ」
「……くそっ」
口汚く、クセロが罵りかける。それを遮って、アルマが続けた。
「で、この山の中に、廃墟があるらしい。昔の領主の別邸だとかで。かなり崩れているけど、まだ無事な部分も残っているから、そこに避難したらどうかって言うんだが」
アコニートゥを連れて、直接グランと顔を合わせることはできない。
一応それぐらいの分別はあるので、アルマは視線だけで馬車を示した。
頷いて、クセロが主人に伺いを立てに行く。
おろおろと、アコニートゥは空模様を見上げていた。
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