風の章

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 陽はとっくに沈んでいるのだろう。カーテンの残骸がぶら下がる窓はところどころガラスが割れており、窓枠に板を打ちつけて穴を塞いでいる。合間から覗く屋外は、既に闇の中だ。 「ここで話さないと駄目か?」  何と言っても、アルマが使う魔術の存在は国家機密に近い。望みを託して訊いてみるが、グランはあっさり返した。 「お前の軽挙で、我々全員が危機に陥った。理由は皆に知らせる義務がある」  そう簡単に、この幼い巫子の決意は覆らない。溜め息を一つついて、アルマは口を開いた。 「……寝ていなかったんだ」 「寝てねぇって……」 「寝不足で制御が利かなかった、ってことかい?」  呆れたように、訝しげに、感想が漏れる。  グランは険しい顔で見下ろしていた。  ゆっくりと、言葉を絞り出す。 「角を傷つけられてから、ずっとだ。眠ると、夢を見る。暗闇で、背後から殴られて、身動きができなくなったところで、角を落とされるんだ。……長い時間をかけて」  グランとノウマードが、眉を寄せた。アルマの角が傷つけられた顛末を知らないクセロは、まだ戸惑いが残っているようだが。 「一度それで起きてしまうと、それからはもう眠れない。それでも、竜王宮にいる時はよかったんだ。一人で寝ていられたからな。でも、旅に出てからは、眠る時は誰かが一緒だ。……寝ている間に、一体いつ悲鳴を上げるかと思うと、眠れなくなった」 「何日寝てねぇんだよ、旦那……」  小さく、クセロが呟く。彼に睡眠を取るように、と深夜の見張りを代わったのは、アルマだ。 「竜王宮にいた頃、夜になると魔術が途切れていたのは、そのせいか」  グランが確認するように尋ねる。  今、ごまかしても意味はない。アルマは小さく頷いた。  考えこむように、グランは独りごちる。 「今日のことは、多分、寝不足だったからだけじゃない。後ろから頭を殴られて、それで意識がその夢に繋がったんだろう」  あの、恐怖と激痛に満ちた夢に。  それを回避しようとして、無制限に、魔力を解放させた。  視線を避けるように、俯く。  蔑まれるのも、貶められるのも、失望されるのも、慣れている。  だが、だからといって、それが全く平気だ、という訳ではない。  納得できないようなクセロの視線も、心配そうなペルルの視線も、視界から、意識から排除する。  それでも、彼の判断を避けられる訳ではないが。 「……なるほど」  しかし。 「つまり、全て私のせいだな」  しかし、その場に響いたのは、風竜王の高位の巫子の声だった。 「ノウマード……?」  呆然として、頭を上げる。青年は強気な表情で、その長身を存分に活かし、その場の全員を睥睨していた。 「何を言っている?」  不機嫌そうな声で、グランが尋ねる。 「以前、彼の角を傷つけたのは、私の民だからね」 「もうお前の民じゃない」  素っ気なく言うが、ノウマードも退かない。 「そうかい? 彼らは、私の権威を認めてアルマを解放することを了承した。公的にはともかく、彼らは心情的にはまだ私の民だということじゃないか?」 「詭弁だな」  グランが鼻を鳴らす。 「だとしても。その後で、更に彼に傷を負わせたのは、他ならぬ私だ。私が、この手で、彼の角にナイフを突き立てた」 「いや、突き立ててはないだろ、突き立てては」  そんなことをされては、どれだけの苦痛だったことか。思わず反論するが、二人はこちらに視線すら向けてこなかった。 「それで? 百歩譲って、あれがお前の責に依るものだとして、それが一体どういう理屈になるんだ?」 「それは、勿論。アルマが、その猛々しき復讐の刃を突きつける相手ができた、ということだよ」  吟遊詩人は、歌うように、やたらと仰々しい台詞を放った。  グランが、長く息を吐く。 「お前の心意気はまあ買おう。だが、無意味だ。アルマがお前に対して遺恨があったなら、それは王都を出る前に晴らしておけ、と伝えておいた。しかし、一切行動に移さなかったのは、あいつの意思だ。それを今更……」 「言っておくが、グラナティス。彼のこの状況には、君にだって責任があるんだからね」 「僕が?」  思ってもいなかったのだろう、幼い巫子の表情から僅かに険が抜けた。 「君が、アルマを蔑み、貶め、失望し、全てを抑えつけてきたからこそ、彼はここまで自分を否定し続けるようになっている。しかも、自ら進んでだ。気づいていないとは言わせない。理由があるとも言いたいだろう。だが、身分だの、管轄だの、そんなものに一体何の正当性があると言うんだ。莫迦莫迦しい」  立て続けに、ノウマードは言葉を叩きつけた。まるで、断罪するかのように。  火竜王の高位の巫子、グラナティスに対して。  ……そんな人間は、おそらくもうこの三百年の間、誰一人としていなかっただろうに。 「お前がそこまで憤ることじゃない」  そう、その通りだ。グランはレヴァンダル大公家を実際に統括しており、そしてノウマードはそうではない。  ただ呆気に取られて、アルマは言い争う二人の巫子を床に座ったまま見上げていた。  ノウマードが、一際声を張り上げる。 「彼は、私の友人だ。憤るな、だと? 的外れなことを言い立てるなよ。君は、本当に三百年の経験を積んでいるのか?」  初めて会った時から、警戒していた。  人を気安く揶揄するその笑顔の裏に殺意を隠していたと告白された。  王族に捕らわれて、窮地に陥ることを懸念していた。  殺されかけていたところを救けられ、そして勝手な理由で傷つけられて逃亡された。  初めて会った時から、今の今まで、程度の差こそはあれど警戒心は解けずにいた。  それはもう、長年培われた本能のようなもので。 「……友人……?」  掠れた声が漏れる。  今、名指しでアルマのことを友だと言い放った相手は、しかし注意をこちらに向けることなど一切なく、グランへと真っ直ぐに相対していた。  何というか、説得力はあまりない。 「矛盾しているな。友人だというのなら、その相手から復讐されようなどと思う訳がないだろう」  グラン自身、そう反論する。 「友人だからこそ、わだかまりをなくすために努力するんだよ。正直、私は今まで彼にあまり誠実ではなかったしね」 「自覚があんのかよ」  当事者であるにも関わらず、あからさまに会話から締め出されているため、聞こえよがしに呟く。 「駄目です、ノウマード」  しかし、そこで割って入ったのは意外にもペルルだった。 「姫巫女?」  きょとん、としてその場の当事者たちが少女を見つめる。 「アルマ様は頭を打っています。無理矢理復讐させるなんてこと、できません」 「いやでも、先ほどの見立てでは大丈夫だということでしたよね?」  ノウマードが不思議そうに返した。ぎゅ、と胸の前で両手を組み合わせ、ペルルが言い募る。 「あ、あれは、安静にしていれば、という意味です! とにかく今夜は安心して休んで頂かないと」 「その安心が、このままでは彼には二度と訪れないかもしれないんですよ。どこかで悪夢を捩じ伏せるべきであって、それを先延ばしにするのは彼にとって害でしかない」  きっぱりと、グランに対するよりも率直に、ノウマードは告げた。 「でも……」  困ったような顔で、それでもペルルは退こうとしない。 「やりたいようにやらせればいいんじゃねぇ?」  突然、今まで部外者面をしていたクセロが声を上げた。 「当事者同士でなきゃ解決できないことだってあるだろ。ダチなんてものは、そもそも論理的な関係性じゃないしな。大体、大将が反対してんのは、面子以外の理由があるんすか? 旦那の頭にはコブができてるぐらいだし、姫さんも心配するこたぁない。オトコってなぁ、その程度の怪我、日常的にやってるもんだ」  薪を弄びながら、意見する。  言い争っていた全員が、むっつりと沈黙した。 「……そうだな。お前の言うようにしてもいいだろう」  やがて、グランが決断する。 「ペルル、プリムラ。あとは奴らに任せて、僕たちは食事でも摂ってこよう。廃墟だが、山賊が住み着いていたんだから、厨房は使えるだろう」 「ちょ、大将、おれは?」  さり気なく『奴ら』の中に入れられて、クセロが声を上げる。 「お前は、二人がやりすぎないように見張っていろ。面子が大事とはいえ、必要以上に戦力が損なわれるのは困る」  肩越しに振り向いて、そう命令する。しくじった、と言いたげにクセロは天井を見上げた。  プリムラが、アルマからできるだけ距離を取って戸口へと向かう。ペルルはまだ迷っていたが、グランが手を伸ばしたためにそれを取って立ち上がった。 「……グラン」  弱々しく声を上げるが、一瞥すらせずに彼は扉を開いた。 「あの、本当にご無理なさらないで」  彼に続いて戸口をくぐる前に、ペルルが声を上げる。  それに対しては、何とか薄く笑みを浮かべ、頷くことができた。  ノウマードが、軽く肩を回す。 「じゃあまあ、早いところ済ませてしまおうか」  あまりにも軽いその言葉に、呆れる。 「あのな。俺は、お前に復讐したいなんて思ってないんだけど」 「え? なんで?」  心底意外そうに尋ねられて、頭を抱えた。 「痛むのか?」 「違ぇよ! いや、痛いけど!」  暖炉の前で、クセロが小さく笑う。 「だけど、今更そんなこと言われてもね。グランを納得させた、私の努力も汲んでくれないと」 「あいつは諦めただけだし、納得させたとしたらむしろクセロだろ! そもそも、お前ら、俺の意見なんて聞きもしなかった癖に、何が今更だ!」  不条理に対する鬱屈を、ここぞとばかりにぶつけていく。 「だからさ。どうして、そういう意見になるんだい?」  不思議そうに尋ねてくる。しかし彼は絶対に判っている筈だ、と確信しながら、アルマは口を開いた。 「……あの時も言っただろ。傷は治ってるし、今更お前を殴る理由はない」 「治ってないよ」  静かに、ノウマードは告げた。 「治っていたなら、悪夢に魘されるもんか。それも何ヶ月かに一回ぐらいならともかく、毎晩? それがどれほど深刻なのか、君は考えないようにしているだけだ」  その言葉に、怯む。 「それに、もう一つ心配事もあってね」 「……なんだよ」  半ばふてくされて、尋ねる。 「君、正直なところ、今まで暴力なんて振るったことないだろう?」  核心を衝かれて、言葉を飲みこんだ。 「何となく察しはついていたんだよ。馬を解体するのに抵抗がありそうだったし、前回魔力が制御できなかった時にも、加害者だったロマの生命(いのち)を気にしていたし、痛い話とかは苦手だったし」 「それが、どうしたっていうんだよ」  確かに男としては少々情けないかもしれないが。  ノウマードは軽く肩を竦めた。 「いや。別に、どうということはなかっただろうね。王都の中で、王家と貴族を相手取って陰謀を巡らせているだけの人生だったら。自分の手を汚す方が愚の骨頂だ。でも、今、グランが君に求めているのはそんな役割じゃない。いざという時には、君自身が手を汚さなくてはならなくなる。人を殴ったことも、獣の生命(いのち)を奪ったこともない人間が、自分たちの生命(いのち)が危険に晒されている時に、的確に行動を起こせると思うのか?」 「あー。まあ無理だな」  横合いから、クセロが口を出してくる。  怒鳴りつけたかったが、彼はいわば荒事のプロだ。 「だからまあ、練習を兼ねればいい。それでも、まだやる気がないっていうんだったら」  にこやかな笑みを浮かべ、ノウマードはマントから右腕を出した。軽く一振りしたその手の中に、袖の内側から短いナイフが滑り出てくる。 「私が、もう一度君を傷つけよう。そうしたら、大義名分にはなるだろう?」 「……それ、もの凄く本末転倒じゃねぇか……?」  悪寒を感じて、アルマはじり、と床の上で僅かに後じさった。  軽く、ノウマードが一歩踏み出す。元々、彼との距離は一メートルほどしか離れていない。咄嗟に後退しようと腰を浮かせかけるが、首の辺りが引っかかって一瞬息が詰まった。  ノウマードが、マントの裾を踏みつけていたのだ。舌打ちして、マントを止めている金具を外す。  そのまま距離を空けて、立ち上がる。青年は、静かにこちらの様子を伺っていた。 「本気でやるのかよ」 「そのつもりだけど」  即座に、左手が伸びてくる。額を掴まれかけて、上半身を逸らした。次の瞬間には、ナイフを握った右手が、素早く彼の左手のすぐ下を薙ぐ。 「あれ」  頭を下げて逃れるつもりだと予測したのだろう。判断を間違えれば、確実に斬りつけられていた。 「いやお前どの程度まで本気なんだよ!」  背筋が粟立つのに耐えながら、怒鳴る。 「とりあえず君が我慢できなくなる程度ぐらいかな。あと、もう逃げ場はないけど」  慌てて視線を背後に流す。狭い部屋の中で、アルマが立っているのは壁から十数センチの場所だった。  基本的に、ノウマードは弓矢をよく使う。だが今は屋内だし、そもそも弓を手にしていない。  ならば、あの小さなナイフが唯一の武器だろう。少なくとも、従軍中はあれよりも大きな刃物は持っていないと言っていた。  静かに、腰に佩いた剣を引き抜く。剣の長さは、八十センチほど。これで、間合いは確実にアルマが優位になる。  僅かに笑みを深め、ノウマードが更に踏みこむ。  予想外の対応に、慌ててアルマは剣を構えた。青年の右手に握られていたナイフが、一瞬の後に左手へ投げ渡される。  反射的にそれを目で追った瞬間、空いた右手が側頭部に叩きつけられた。 「……ッ」  角を掠めた衝撃が頭蓋に響くのを、歯を食いしばって耐える。そのまま、相手の左手に握られていたナイフを、剣先で弾き飛ばした。  このまま、相手に一撃でも入れればごまかせるだろう。流石に刃で斬りかかるのは気が進まなかったので、剣の腹を相手に向ける。  身軽に一歩退いて、ノウマードは身体を回転させた。殊更大きく翻ったマントの下で、強引にアルマの剣を掴み取る。 「ぅあっ!?」  剣が手から離れ、宙を舞う。同時に視界に入ってきたのは、ノウマードが腰の後ろに落としこんでいた短剣を引き抜く様だった。  次の瞬間には耳障りな金属音を立てて剣は落下し、短剣を手にしたノウマードは変わらずアルマナセルに対峙していた。ふわり、と広がっていたマントが身体の周囲へ落ち着く。 「お前……、なんでそんなの持ってんだ!」 「私の武器があれっきりだなんて、一体誰が君に保証したんだ?」 「ああ、それ、火竜王宮から持ち出したやつだよな」  のんびりと、クセロが注釈をつける。よく見れば、柄の先に火竜王の紋様が彫りこまれていた。 「……それにしても、あれが、〈魔王〉の使っていた剣か」  丸腰のアルマに対して警戒心すら持たず、ノウマードは数メートル離れて落ちた剣へと視線を向ける。 「三百年前はかなりの脅威だったんだけどね。使う人間が違えば、こんなものか……」  呟きに、かっ、と、頭の芯が熱くなる。 「なんだと……?」  小さく漏らした言葉に、ノウマードは向き直った。ぎり、とアルマが拳を固める。革の手袋が、嫌な軋みを残した。 「〈魔王〉は、絶望を振り撒くことにかけては絶対的だったからね。どうやって彼に対処しようか、随分頭を悩ませていたものだよ。だけど、彼も、自分の子孫がこんな体たらくだと知ったら、さぞかし嘆くことだろうな」 『〈魔王〉の(すえ)』  鋭く、息を吸う。 『穢れた血の一族』  僅かに腰を落とす。 『期待はずれの出来損ない』  そして、ほんの一瞬で目の前の青年に肉迫した。 「てめぇにまで言われる筋合いはねぇんだよ!」  握りしめた拳が、その硬さに重さを乗せて、躊躇なく振り抜かれた。
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