水の章

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 翌朝、出立の際にペルルとアルマは笑顔で挨拶を交わしていた。  馬車に乗った後も、前日までのように内側からカーテンで遮ることもなく、窓を開き、隣を馬に乗って進む指揮官と言葉を交わし続けている。  姫巫女は興味深げに彼の話を聞き、楽しげに自分のことを話し、嬉しげに笑い声を立てた。  お互いの立場と、おそらく初対面の印象が悪かったことを考えれば、これは格段の進展だと思っていい。  アルマが、この状況に内心舞い上がっていたのは否定できないだろう。  だが、この後、配慮にかける振る舞いに至ってしまったのは、明らかに彼の過失だった。  太陽が、中天へ近づいていた頃のことである。  アルマが、在籍する王立学問所での逸話を披露していたところだった。 「その歴史学の教授が、顎髭だけは豊かな老紳士ですが、こう言う訳です。『アルマナセル、貴公はもう少し自分が歴史の一員であることを自覚するべきだ』と」  声をくぐもらせ、老人に特有の口をもごもごさせる動きでその台詞を口にすると、ペルルはくすくすと笑みを零した。 「そこで、私はこう言い返したのです。『教授、私が……」  ペルルの表情が突然固くなったのを見てとり、アルマは彼女の視線の先を振り向いた。  カタラクタ王国のこの地方は、緩やかな丘が連なる形をしている。ちょうど小さな坂を上りきり、周辺の様子が遠くまで見て取れる場所にいた。  街道から枝分かれした、細い道はずっと先で農場に続いている。その建物や周りを囲む板塀は破壊され、焼け落ちた痕跡だけを残していた。  周りに広がる農地も、跡形もなく踏み躙られ、ところどころでまだ燻っているのだろう、僅かに空気がいがらっぽい。  その中を、遠くへ逃げていく十数人の人影を確認して、アルマの顔が強ばった。 「……アルマナセル、様」 「姫巫女。窓を閉めて、カーテンを引いておいてください」 「私の目から、隠すおつもりですか!」  少女の声が強さを増した。しかし、アルマは真剣な表情で、肩越しに彼女を見つめる。 「そうではありません。貴女を、人の目から隠すためです。ご覧になりたいのなら、カーテンの隙間から覗いておられればいい。……エスタ!」  手綱を引き、馬の歩みを止める。数メートル後ろにいた青年に声をかけた。 「ここにおります」 「テナークス殿からの報告は」  姫巫女の相手をしている間、隊の進行に関しては副官であるテナークスに一任され、何かあれば報告するという手筈になっていた。  彼はハスバイ将軍が任命した、壮年になりかかった男で、任務に忠実で頼りになる人物だと聞いている。  副官は隊列の前方にいるはずだった。 「特には聞いておりません。お呼び致しましょうか」 「ああ、いや、俺が行く。お前はここを護ってくれ」  軽く踵を脇腹に当て、アルマは歩兵の傍らを走り出した。  そろそろ、戦闘があった地域を通り過ぎることは予測できていたのに。姫巫女への配慮が足りなかったことについて、アルマは内心で自分に対して凄まじい罵倒を浴びせていた。  テナークスは、この先の安全のために斥候を増やすという提案に、いい顔をしなかった。 「今まで陥落してきたうち、ある程度の規模の街には、軍を駐留させております。街の大きさにもよりますが、数千から一万程度の兵士です。確かにこのような農場や小さな村は兵を置くだけ無駄ですし、放置しておりますが、駐屯する軍が周辺の警戒や不逞な輩への対処は行っている筈です。二百五十しかいない我々の隊が、毎日数十人を使って、通り過ぎる農場に危険がないか逐一確かめて進むなど、非現実的でとても提言できる作戦ではありません」  言外に色々な含みを持たせた返事をされて、内心歯噛みする。  しかし、事実、軍事についてはアルマナセルは素人同然だ。大公子と指揮官の地位で自分の意見をごり押ししても益が少ないことぐらいは予想がつく。  それでも。 「……だから言ったじゃないか、ということにはなりたくないしな……」  馬車からやや離れ、エスタの隣で馬を進めながらぼやく。世話役の青年は、ちらりとこちらを見たが、何も言ってはこなかった。  馬車は窓を閉め、厚いカーテンを引いて、中に誰がいるのかを判らないようにしている。  それでも貴人が乗る、高級な二頭立て馬車である。しかも軍がそれを護るように移動している、という状況では、誰か重要な人物が乗っていることを想像するのは容易い。  これは思っていた以上に大変な任務になりそうだ。  決して他の者に譲りたい訳ではないが、アルマは気持ちを引き締めた。  夕方、馬車から降り立った姫巫女は、酷く顔色が悪かった。  唇を引き結び、断固とした視線をアルマに向ける。 「アルマナセル様。お話がございます」  宣言するように告げ、先に立って天幕へと向かう。少年のエスコートなど待つつもりもなく。  エスタが気遣わしげに主人を見つめた。軽く片手を振り、それを流してアルマも続く。  ペルルは一人で椅子に座っていた。思い詰めたような表情が蝋燭の炎に揺れている。 「お一人ですか」  固い声で尋ねられて、頷く。 「こちらへいらしてください。誰にも、聞かれたくはありません」  冷静な声音にやや驚く。国民の惨状を目にした姫巫女に、詰られ、平手の一つも受けることがあるかと思っていたのだが。  無言で、隣の椅子に腰を下ろした。それを待つ時間も惜しいかのように、少女は性急に言葉を発してくる。 「お願いがございます。アルマナセル様、私を、民の住む場所へ連れて行ってください」 「………………は?」 「私は、幼い頃に竜王宮に入宮しました。水竜王にお仕えするために。以来、生活の殆どは竜王宮で、それ以外と言ってもフリーギドゥムの街に出るのが月に数度あるぐらいです。街の外に住む民の生活がどのようなものか、想像すらできませんでした」  ぽつり、ぽつりとペルルが語り始める。  カタラクタ王国は、基本的には農業国だ。大陸の東に位置するこの国は温暖で、冷害こそ少ないが、むしろ夏場の水不足が深刻である。  それ故に水竜王を祀り、水の恵みを求めるのだ、と地政学の授業で聞いたな、とアルマがぼんやり考える。 「これが戦なのだ、ということは、私も理解しております。ですが、住む家も作物も焼き払われ、家族を失った者もいるでしょう。彼らの苦しみも知らず、私は……」  握り合わせた手に、ぎゅぅ、と力が籠められる。慌てて、アルマは口を開いた。 「いや、確かに農場は破壊しています。敵国の食料を削ることは、その、兵法の基本ですので」  はい、と、唇を噛んでペルルが頷く。彼女は今、どれほどの苦悩の中にいるのだろう。  しかし同情し、寄り添いたいと望んでも、イグニシアの王国軍に在籍するアルマに、それができる訳もない。  それだけに、彼の言葉は弁解に近い。 「ですが、基本的に兵士以外の民を殺害する、ということは禁じられています。拠点となる街や城塞では、カタラクタ王国軍との戦闘もありました。しかし農場や小さな村などは、民を追い払ってから畑を焼き払うなどの配慮を……その」  言葉を選んでいては、説明も進まない。少しばかり情けない顔で、アルマは言葉を途切れさせた。 「アルマナセル様のお立場はよく判っております。私は、イグニシア王国の温情に縋っている身。このような願い事、一蹴されて当たり前ですが、そこを、どうかお願い致します。民の窮状を知らず、私がのうのうと生きてなどいけません」  途方に暮れて、少年は頭を下げる少女を見つめていた。 「判りました。もう数日もすれば、街に到着します。そこで視察と称して街に出ましょう。視察ならば、警護の兵士も連れていけますし」  駐屯する軍の指揮官に借りを作ることになるが、まあ何とかなるだろう。どの家の者が指揮官になっているか調べさせておかないと、と頭の中で段取りをつける。  が、ペルルは頭を振った。 「いいえ。それでは、王国軍の見せたいものしか見ることができません。アルマナセル様、貴方には感謝しておりますが、私は……」  言葉を濁し、視線を逸らせる。  彼女の気持ちは理解できるし、世辞でも感謝を向けられて、嫌な気分はしない。  だが。 「姫巫女、ですがそれはここでも同じことです。貴女が、警護の者と共に農場や村に向かったところで、怯えた民は姿を見せません」 「はい、それは判っています。……ですから」  毅然とした視線を向けられて、アルマは、理由も判らずに一瞬怯んだ。  翌朝、水竜王の姫巫女は、侍女を通して気分がすぐれないと伝えてきた。指揮官と副官は少々話し合い、その日の行軍は中止となった。  貴族である彼らは、元々貴婦人の気紛れには慣れている。数日の遅れ程度、気にすることもないとの判断だった。  しばらくして、姫巫女の天幕から、侍女が一人姿を見せた。食事を済ませた後の皿を乗せたトレイを手にしている。戸惑ったように周囲を見回すと、慎重に野営地の奥へと足を進めた。  兵士たちは、突然の休日に気を緩めているようだ。勿論歩哨は立てているし、周辺の警戒は怠らない。だが、大部分の兵士はのんびりとその辺りをぶらついたり、上官の目を盗んでサイコロ賭博に励んだりしている。  そんな兵士のうち、気のいい何人かが炊事場の方向を侍女に教え、彼女はようやくトレイの運搬から解放された。  さりげなく周囲を見回す。  さほど離れていない辺りに、馬を繋いでいる一角がある。その片隅には、二頭立て馬車がひっそりと置かれていた。  侍女は、そっとその影に身を隠し、安堵の溜め息を漏らした。 「こんなところでいかがされました?」  が、静かな声をかけられて、びくり、と肩を震わせる。 「あ、あの、姫巫女が馬車に忘れ物をしたようだと」  慌てて振り向きながら弁明する。  背後に立っていたのは、一人の兵士だった。まだ若いようだ。というのも、一人前の男にしてはやや小柄な体型をしていたからで、それらが推測でしかないのは、彼が兵士が着るマントのフードを、深く被っていたからだ。  そして、彼は楽しげな含み笑いを漏らしていた。  緩やかな丘を、二頭の馬が並足で下っている。 「もう、お人が悪すぎます!」  うち一頭に乗っているのは、聖服を身につけた少女だ。竜王宮に仕える者特有の衣類だが、白地に紺色の模様が染められたそれは、さほど高位のものではないことを示している。 「申し訳ない。そろそろお許しください、姫巫女」  もう一人は、質素な兵士のマントを身につけた少年だ。フードの下から未だ楽しそうな視線を向けられて、少女はぷいと顔を背けた。 「誰にも気づかれませんでしたか?」  しかし続けてそう尋ねられて、真剣な表情に戻って頷いた。 「おそらく。侍女の一人にベッドから出ないように言い含めてあります。理由もなく天幕に踏みこむことはないでしょう。……それよりも、貴方の方は」  気遣わしげに見つめられて、肩を竦める。 「私も昼寝をするから誰も入るな、と言ってきました。脱出も、天幕の後ろ側からこっそり抜け出して来たので、多分見られていません。まあ、踏みこまれる危険性は貴女よりは大きいですが」  馬の上で身体が揺れた拍子に、頭に巻かれた赤地の布がフードから覗く。  そう、この二人は、水竜王の高位の巫女と、レヴァンダル大公子である。  姫巫女の、民の様子を見に行きたい、という望みは、とても叶えられないものであった。  なので、彼らは一計を案じたのだ。  一日行軍を止め、その間にこっそり抜けだそう、という、かなり大雑把なものであったが。  ペルルは巫女付きの侍女のふりをし、アルマは一兵卒を装った。  天幕の見張りにつく兵士に少しばかり握らせ、マントを借り、この時間帯の馬の見張りを代わらせ、少し手を抜かせておいたのだ。  まあ長時間ごまかせるとは思っていない。せいぜい、野営地を離れてすぐに連れ戻されるようでなければいい、ぐらいの心づもりだ。  多分、戻ったら副官とエスタの二人からこっぴどく責められるとは思っているが。  二人が乗っているのは、荷馬車を引く馬だ。アルマの馬を連れ出しては目につくし、何よりペルルには乗馬の経験がなかった。ならば軍馬よりも、やや老いて、気性の穏やかなゆっくりと歩く馬が望ましい。  街道を進むことはできないが、この辺りはそう荒れた土地でもない。危なげなく、ペルルは馬を御していた。
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