風の章

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 森を出ると、数十メートルの距離を置いて、地面はなだらかな下り坂になっている。  それは、ドロモス河の川辺へと続いていた。  ドロモス河は、内陸湖であるペルデル湖から海へと流れ出す河のなかで、最も大きなものである。彼らは今、どちらかといえば湖寄りの位置にいたが、それでも川幅は五百メートルほどになるだろう。  そして、その川の向こう側が、元フルトゥナ王国の版図だ。  川辺は、両岸ともに草木が雑多に生えており、互いにあまり差異は見られない。  だが、向こう岸の坂を上がった辺りで、ややごつごつとした岩山が聳え、視界を遮っていた。 「旦那、一緒に探してくれよ。この近辺に、竜王兵が待機してる筈なんだ。他の奴らに見られない様に、姿を隠してる」  クセロに頼まれ、慌てて周囲を見回す。  やがて、ある木々の塊に目を止める。  風とは無関係の動きで、がさがさと梢を揺らしていた。 「……あそこだ。赤い制服が見える」  指を指して告げる。目を眇めて見ていたクセロが、頷いた。  馬車をやや広くなった場所に停め、近づく。藪の外で、竜王兵が五人、立っていた。 「ご無事で何よりでした」  深々と頭を下げる先頭の男には、アルマも見覚えがある。 「ご苦労だった、ドゥクス」  彼はがっしりとした身体つきをした、三十代半ばほどの男だ。王都の竜王兵の隊長を務めていた。 「船を隠しております。出して参りますので、馬車を川岸までつけて頂けますか」  無駄なことを一切告げず、ドゥクスは要請した。グランは無言で頷く。  石畳で舗装された道は、川岸へ向けて縦横に何本も広がっている。  三百年前、ここは割と大きな街だった。フルトゥナとの国境ということで、両国民が行き交い、関税所が設けられ、川を渡る桟橋が幾つも作られていて、多くの船が渡っていたという。  しかし、既に建物は土台が残っているばかりとなり、それも草木に埋もれている。川に突き出している石造りの桟橋はまだ幾つかあったが、かなり崩れてしまっていた。  川岸に生えている木々の間から、ゆっくりと船が進み出てきた。甲板が広く、喫水が浅い。外海ならともかく、湖や川を渡るなら、この方が安定する。  竜王兵の一人が、無人の馬車を御した。桟橋へ注意深く進めていく。斜めに渡された板の上を、二人の兵が馬車を引く馬を先導しながら甲板へと移動させた。乗馬も次々に引かれていく。  足場の悪い桟橋の上を、歩いて進む。怯えを見せるかと思ったが、アルマの手に掴まったペルルは、あっさりと船に乗りこんだ。 「物資は五日分で宜しいですか?」 「ああ。それまでには充分片がつく」  ドゥクスの問いに、グランが答えた。竜王兵たちは、船を出す準備に余念がない。 「帆を張るのか? 風は弱いな」  クセロが、周囲を見渡しながら呟く。王都から殆ど出たことがない、という男は、船に乗りこんでからやや落ちつかなげだった。 「向こう岸がさほど遠い訳じゃないからね。この辺りはまだ川の流れが早くもないから、帆と船の角度を調節すれば、そう難しくもなく向こうの桟橋につけるだろう。……残っていればいいけど」 「大丈夫だろ。壊れ具合は、こっちとどっこいどっこいだ」  オーリの懸念に、目を眇めてアルマが告げる。流石に彼の視力を持ってしても遠いが、何となく判らなくもない。 「こちらに待機している間、夜間に一度、向こうへ渡っております。桟橋を調べましたが、使用に耐えられるものと判断しました」  少し離れて立っていたドゥクスが答えてくる。 「随分前からここにいたのか?」 「一週間ほどになります」 「……俺たちも船で来たら早かったのにな」  僅かに眉を寄せ、アルマが呟いた。 「確かに早いが、湖を行く船は目立ちすぎる」  むっつりとグランが反論する。 「実際、我々も幾度となく警備隊に停められ、中を改められました。陸路を行かれる方が懸命でしたでしょう」  ドゥクスが穏やかに補足する。  ぎし、と綱が軋み、帆が風を孕む。  彼らは封じられた死の王国、フルトゥナへ向けて水を切った。  さほど距離はないため、船に乗っている時間自体は、あっという間だった。  物資を積みこみ、馬車と馬を船から降ろす。 「それでは、三日後を目処に」 「ああ。宜しく頼む」  竜王兵たちと簡単に挨拶を交わし、彼らは再び馬に乗った。 「封印が解けた、っていうのは本当なんだな」  砂埃の舞う中で、アルマが呟く。生命(いのち)あるものが踏みこめば即座に死を迎えた、という伝説の呪いは、彼らに襲いかかってはきていない。 「いや、この辺りはまだ厳密にはイグニシアだよ」  しかし、あっさりとオーリが否定した。 「川が国境じゃないのか?」  首を傾げ、アルマが問う。 「昔、侵攻以前はそうだったんだけどね。イグニシアが攻め込んできて、前線がどんどんと内陸へ向かっていった。あの呪いが発動した時点で、フルトゥナが確保できていた土地が、呪いの範囲内だ。川から二十キロばかり、内陸に入ったところになる。カタラクタ側も同じだ。尤もあっちは、進軍の速さだけを重視して進んでいったから、イグニシア軍が占拠していた土地はあまり広くないけど」 「どちらにせよ、呪いの境界がはっきり判るような人間はそういない。川を国境としておいて貰えれば、こちらとしても好都合だ。呪いが及ぶ土地まで来たら、僕とお前とアルマでもう少し緩めよう。そうすれば、楽に進んで行けるはずだ」 「俺が?」  驚いて少年が訊き返す。 「当たり前だ。何のためにお前を引き摺ってきたと思っている」 「色々心当たりがありすぎるよ」  断言されて、溜め息をつきつつぼやいた。 「草原の国だって聞いてたけど……」  坂道を上りきった辺りに聳え立つ岩山を見つめながら、プリムラが戸惑った。 「冬だからね。草はもう枯れてる。この岩山もそんなに長くは続かないよ。まあここにこれがあったおかげで、しばらくは侵略軍を抑えることができたんだけど。護るには容易い地形だ」  岩山の間を風が通り、甲高い、奇妙な音を立てる。まるでどこかで人が泣き叫んでいるような。  そして、整備すらされていない街道は、酷く状態が悪かった。石畳は割れ、剥がれ、落ち窪んでいる。 「オリヴィニス! どれぐらいかかりそうだ?」  がたがたと揺れる馬車の窓から顔を出して、大声でグランが尋ねた。 「順調にいけたとしても、ほぼ一日近くかかるだろう。それに、できれば呪いを越える辺りまでは慎重に行きたい。今日はもう午後を回っているし、進めるだけ進んで、どこかで夜を明かして明日の朝から始めた方が……」 「……オリヴィニス……?」  風の中に、小さな囁きを聞いた気がして、オーリが鋭く視線を上げる。  石を踏んで土が崩れる音。呼吸音。軋み。弓の、弦。 「走れ!」  叫びと共に、馬の脇腹に踵をぶつけた。がらがらと音を立てて疾走する一行の頭上を、放物線を描いて幾本もの矢が飛んでいく。 「きゃぁあ!」  御者席を飛び越えて落下した矢に、プリムラが悲鳴を上げる。  岩山のどこかに身を隠している襲撃者は、こちらに一切姿を見せない。  長くは続かない、とは言ったが、だからといって数分で抜けられるものではない。まして、待ち伏せされていたこの状況で。  ぎし、と奥歯を噛んで、オーリは顔を上げた。風切音を響かせながら、絶え間なく降り注ぐ矢の軌跡を計算する。  しかし、当たりそうもない。一本も。  ……これは、わざと外しているのか。  嫌な予感に、眉を寄せる。  谷底を走り抜ける一行が道なりに曲がり、そして急激に手綱を引いた。  百メートルほど向こうで、二十人を越える男たちが、馬に乗ってこちらに対峙している。  弓に矢を番え、一行へ向けて引き絞る彼らの装束は、深緑で統一されていた。  頭上からざざ、と土を崩す音が響く。急勾配の崖を、一頭の馬が苦もなく下りてきていた。そのまま、彼らと行く手を阻む者たちとの間に入る。  息を弾ませ、焦りに満ちた視線でアルマやクセロが周囲を見回す。  オーリは、ただ、真っ直ぐに相手を見据えていた。  岩山から下りてきた一騎が、前に進み出た。恭しく馬上で一礼する。 「風竜王宮親衛隊隊長、イェティスより、ご帰還をお喜び申し上げます。高位の巫子オリヴィニス様」  ただ、真っ直ぐに、相手を睨み据えていた。
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