魔の章

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「親衛隊をお連れください」 「いらん」 「草原の旅は危険です。せめて三十……、いえ二十」 「人間の一人もいない土地のどこが危険だ?」 「ならばどうか私だけでも」 「オリヴィニス!」  朝食前からイェティスと言い争っていたグランは、早々に問題を相手の上司に丸投げすることに決めた。  当の風竜王の高位の巫子は、あからさまに不満げに、えー、とか呟いていたが。  それでも、自らの親衛隊長の前まで来て、説得を試みる。 「イェティス。イグニシアからの追っ手は河を越えてこちらまでは来ないだろうし、来たところで君たちの目を逃れることもない。まさか奴らをそのまま通過させて、私たちを追わせることはしないだろう?」 「勿論です、オリヴィニス様! ですが」  いいように煽てることには成功して、イェティスの顔は明るくなる。しかし、彼らの道中には不安が残るらしく、更に言い募った。  それを、オーリがきっぱりと遮る。 「この人数は、最小限でかつ最大限だ。彼らがいれば多少の危険は何とかなるし、彼らがいなければ必要な条件が満たされない。そして、私が運んで行けるのも、ぎりぎりこの人数だ」 「運ぶ……?」  訝しげな声は、その場にいるほぼ全員の疑問を表していた。 「竜王宮は、フルトゥナの国土の、東西方向ではほぼ中央にある。普通に馬で進んだら、一ヶ月はかかる距離だ。補給を確保できないのに、この少人数、特に荷馬の数で、あの距離は踏破できない。……だから、私が運ぶことになったんだよ。時間と、距離にちょっと細工をする」  時間と、距離。  その言葉が、じわじわと全員に染みこんでいく。 「悪い、よく判らないんだが」 「あ、おれも」 「あたしもー」  次々に尋ねられて、一行の情報共有の駄目っぷりが露呈する。 「……グラン」 「実際に行動するのはお前だ。僕よりも上手く説明できるだろう」  責任を押しつけようとしても、あっさりと幼い巫子はそれを拒絶した。  大きく息をついて、オーリが口を開く。 「単純に言うとだ。ほぼ一日程度で竜王宮まで辿り着けるように、私がニネミアの加護で時間と距離に働きかける」 「一日?」  単純すぎて全く理解は深まらないが、それよりもその時間の少なさに驚愕する。 「ですが……できるのですか? そんなことが」  ペルルが、僅かに眉を寄せて尋ねた。水竜王の姫巫女である彼女は、元々論理的なところは理解できているようだったが。 「風竜王は民を持たないが故に、民からの信仰も受けられない。だが、その代わりにオリヴィニスは単身で風竜王の全ての加護を得ることができる。僕やペルルにはできないことも、オリヴィニスなら簡単にやってのけられるだろう」  グランがあっさりと補足する。 「じゃあ、何で今までその方法で進んでこなかったんだ? こそこそ隠れるような真似をしなくてもよかったじゃないか」  不審そうに、アルマが更に疑問を呈した。 「第一に、イグニシアは私の国じゃない。火竜王の土地で、私が存分に力を振るうなんて良識的にできる話じゃないんだ。失礼だろう?」 「……いや……。どの辺にマナーの尺度があるのか全然判らないんだけど」  言わずもがな、という風に説明を始めたオーリに、首を傾げながらアルマは呟く。 「それに、イグニシアには人目がありすぎる。うっかり私たちの姿を目撃されたりしたら、酷い騒ぎになるし、追っ手に情報が渡るだろう。フルトゥナに入れば、少なくとも人目の心配はない。障害物についても、さほど大した問題ではない。大体の人工物はもう崩壊しているし。第二に、私の国であるフルトゥナの土地、呪いの範囲内では、風竜王の影響力が格段に違う。まあ、それでもこの人数を一日運ぶのが精々だけどね」  何か質問は、とオーリが締める。  何となく判ったような判らないような顔で、彼らは互いに視線を交わした。 「イェティス。私たちは、一日も早く竜王宮に着かなければならない。判ってくれないか」  そして真っ直ぐに請われて、親衛隊長は渋々ながら頷いた。  夜明けの光が岩山の間をうっすらと明るくする。  せめて呪いの境界線までは、と強弁して、親衛隊は一行の前後を警備している。  岩山の間を抜ける道案内という意味もあって、そこはあまりグラナティスも嫌な顔をしなかった。  この地を護っていた民の警戒心は、どちらかと言えばイグニシア側に向いていた。草原には放牧のために通う必要があり、岩山を通る細い道を人の手で広げている場所も見受けられる。  そのせいか、予想していたよりも早く、切り通しに着く。草原が視界に広がって、アルマは小さく息を飲んだ。 「……うわ」  ずっと、前方から何となく不快な圧迫感を感じていたのだが、ここにきてそれが形になる。  地平線まで続く草原の空気が、暗く淀んで見えた。 「あれが、例の呪いの範囲か?」  小声で、オーリに尋ねる。 「ああ」  短く、青年は返した。その視線は、油断なく草原を覆う淀みに向けられている。 「何か見えるのか?」  呑気に、クセロが口を挟んできた。 「何って、この先が暗くなってるだろ。見えないのか?」 「……いや。今日は雲も少ないし、この季節にしちゃ明るい方だろ」  きょろ、と草原を大きく見渡し、言葉を返す。 「あれが見える人間はそういないよ」  とりなすように、オーリが説明する。  普通の人間には知覚できないために、村人たちは時折その呪いに触れることがある。高位の巫子に余計な負担をかけたくなくて、イェティスはそれに関してはただ口を噤んだ。  境界線から数百メートルほど離れたところで、手綱を引く。 「イェティス。ここまでありがとう。この後何があろうと、ここから一歩も進まないようにしてくれ」  短く、オーリが言い渡した。  唇を引き結び、親衛隊長が真っ直ぐに見返してくる。 「御武運を、我が巫子」  そして深々と、馬上でイェティスが頭を下げた。それに、オーリが苦笑する。 「そこまで気にかけることはない。ここまで来たら、あとはもう出来レースみたいなものさ」  そうして、軽く、彼らは馬を促して先へと進んでいった。 「簡単なのか? その、呪いを破るのは」  風竜王の巫子の言葉に希望を見て、アルマが尋ねる。 「破るのは、今は無理だ。竜王宮まで行かないと。今ここでできるのは、呪いを少し緩めて中に入りこむことぐらいだな」  さらりとオーリは答えた。 「でも、まあ簡単なんだろう? 呪いを緩めるのも、竜王宮まで行った後に呪いを破るのも」 「グランはそう言ってるね」  一言で返されて、アルマが眉を寄せる。 「グランが?」 「ああ。……なんだい、その顔は」  少しばかり呆れたような視線を向けられた。 「とりあえず、一つ教えておくよ。あいつが『簡単』だって言う状況は、二つばかりある。あいつ個人が行動するのは簡単だが、他人の力量ではそうじゃないという場合。あと、あいつは何もしないけど、他人に酷く負担を強いる場合だ」 「……まあ、その『他人』が私一人じゃないだけありがたいと思っておくよ」 「お前も大概人でなしだな!」  さり気なく負担を半分押しつけられて、アルマが怒声を上げた。  境界線まで数十メートルまで近づいて、馬を下りる。  アルマが、途方に暮れたように空を見上げた。  その呪いは凄まじく広く、高く、厚く世界を覆っている。 「俺、こういうのって初めて見たんだけど、何て言うか、大体こういうものなのか?」 「国一つを滅亡させようとしたんだぞ。そうそう見られない規模だ」  うまく自分の思いを表現できないアルマの言葉に、馬車から降りて彼らに近づいてきたグランが答える。 「でも、昔に比べれば緩んでる。少なくとも、フルトゥナの民が出入りできない、という制限は。あとは、立ち入った者が命を落とす、という部分ぐらいだね」 「それが一番重要なんじゃねぇの?」  オーリの言葉に、嫌みったらしく返す。  グランが隣に並んだ。見れば、旅の間中外していたルビーのサークレットをつけている。  風竜王の高位の巫子は、前日自らの親衛隊に捕まって以来、額のエメラルドを隠してはいない。 「あの」  背後から、細い声をかけられて、振り向いた。  馬車を降りて、ペルルがこちらに歩いてきている。 「私も、何かお力になれますでしょうか」  考えこむように、二人の巫子は視線を交わした。 「三百年前、この術がかけられた時、水竜王は全く関わってはいなかった。貴女の気持ちは嬉しいが、水竜王の御力を借りても全く意味がない場合と、むしろ悪化する場合が考えられる」 「そうですか……」  僅かに肩を落とし、ペルルが呟く。 「とりあえず一度、私たちだけで試してみましょう。姫巫女の御力が必要であれば、その後で」  そつのないオーリの言葉に頷く。少女は数歩下がって、彼らを見守った。 「さて、じゃあ、ちゃっちゃとやってしまおうか」  軽く肩を回し、オーリが明るい声を上げる。 「で、どの呪文を使えばいいんだ?」  アルマが、自分を管理する巫子に尋ねた。幼い頃から、彼に魔術を叩きこんだのはグランだ。 「判らん」 「は?」  だが、一言で返されて、素っ頓狂な声を上げる。 「お前に教えた呪文は、〈魔王〉アルマナセルと僕が子孫に伝えるために残したものだ。〈魔王〉が使っていたのは、僕たちが使う言語とは厳密には違うからな。だが、彼は呪いを解くための呪文は残していかなかった。解くつもりがなかった、というよりは、むしろ変質してしまって解きようがなかったからだろうが」 「……それ、もの凄く根本的なところが駄目なんじゃないか?」  呪いを解く、それだけを支えにここまで来たのだろうオーリを横目で伺いながら、アルマが呟く。 「お前がここにいるのに、他に何が必要だ? 結局のところ、魔術は全てお前の中にある。僕が教えなくても判る筈だ」  真っ直ぐに黒衣の少年を見上げながら、グランは告げる。その言葉の強さに後押しされることはなく、僅かに戸惑ったままでアルマは呪いを見つめた。 「そうだな。剣を抜け。それが、お前を導いてくれるだろう」 「剣?」  三百年前、〈魔王〉アルマナセルが手にしていたという、ブロードソード。言われるままに、腰に()いたそれをすらりと鞘から引き抜いた瞬間。  ざわり、と、暗く淀んだ呪いの表面が蠢いたように、見えた。 「……ッ!?」  息を飲み、反射的に剣を前方に向けて構える。 「い……今、動かなかった、か?」  背筋に嫌な汗を感じながら、同行者に尋ねた。 「動いたな。まあ呪いだから当然だ」 「動いたね。呪いなんだからそりゃ動くだろう」 「何でそんなに当たり前みたいな言い方するんだよ!」  思いもしなかった現象に、半ば恐慌に陥りつつも怒鳴る。  呪いが具現化した、最も彼らに近い部分が、ざわざわと揺らめき続けている。 「三百年のうち、殆どは待機状態だっただろうから、これはかなり餓えてるな。慎重にやった方がいい、アルマ」 「いや呪いって、こんな能動的なものじゃねぇだろ!」  真剣な声音で告げるオーリに、悲鳴じみた声を上げる。  そもそも、何をやるかも判ってはいないのに。  ざわり、と一際大きく流動した呪いが、その数カ所で突然長く伸びた。一直線に、彼らに向かってその先端が迫る。 「きゃ……!」  一瞬で目前にまで接近されて、ペルルが小さく悲鳴を上げた。
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