水の章

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 その村は、曇天の下で小さく蹲っているようだった。  荷馬車が行き違える程度の道が一本。建物は、百もないだろう。そんな小さな村には、一見したところ全く人の気配がない。  アルマと少女は、村の入口に馬を繋ぎ、ゆっくりと足を踏み入れた。  石造りの家々は扉が開け放たれ、窓ガラスが割れ、所々で焼け焦げたような跡も見受けられる。  だが、ぱっと見たところ、流血の痕跡はない。  おそるおそる、ペルルは一軒家の窓から中を覗きこんでいる。  そこは居室のようで、箪笥の扉が開き、椅子が一脚倒れていた。  アルマが、ざらついた窓ガラスを指先でなぞった。手袋に砂埃がついて、僅かに眉を寄せる。  軍がここに侵攻してきたのは、ほぼ十日前。  だが、噂はとっくに届いていた筈だ。村人たちが逃げ出したのは、おそらくそれよりも以前だろう。 「みな、どこへ行ったのでしょう……」  途方に暮れたように、ペルルが呟く。 「街道から離れた方向へ、でしょうね。我々の軍は、流石にカタラクタ全土を覆い尽くすような行軍はできません」  それでも前日に人の姿を見た以上、ある程度はこの地に残っているのだろう。だが、この村に身を潜めているとも限らない。  できるだけ遭遇しない方がいい、とは思っているが。  まあペルルが納得するまでつき合って、暗くなる前に野営地へ戻るようにしよう。  内心でそう判断して、更に足を進める。  二人が、幅が二メートルほどの道を歩いていた時だった。  風切音がした直後、鈍い音と共に、足元に拳大の石が転がった。  投げつけられたそれが、これから通り過ぎようとしていた建物の壁にぶつかったのだ。反射的に、アルマはペルルを壁へ押しやり、庇うようにその前に立ち塞がる。  数メートル先の暗い路地に、数人の人影が伺えた。  厄介な。僅かに眉を寄せ、アルマは周囲を見回した。  剣はいつものように腰に佩いてあるし、貴族の子弟として武器の扱い方は一通り心得ている。無法者の数人程度に囲まれても、切り抜けられるぐらいの自信はあった。  しかし、離れた場所から石を投げつけられる、というのは対処に困る。  ブロードソードは、存外細身の剣だ。投石を打ち払おうとすれば、刃が欠けるか運が悪ければ折れる。  かといって、襲撃者に斬りかかるとして、その間姫巫女を放っておく訳にもいかない。  まあ、そんな選択肢があるとしての話だが。 「アルマナセル、様」  細い声で名前を呼ばれて、肩越しに背後に視線を向けた。フードを被った少年の顔はあまり見えなかっただろうが、ペルルは僅かに安堵したように表情を変化させる。  再び正面に向き直り、声を張り上げる。 「何のつもりだ!?」  一瞬、ざわりと空気が震え、がらがらした声がどこからか応えてきた。 「何のつもり、たぁこっちの台詞だ、イグニシアの犬野郎!」  罵声に、鼻の頭に皺を寄せる。 「この村に女を連れこんで、いいことでもするつもりか? この下衆が!」 「俺たちを追い払い、村を焼き払ってまだ足りねぇってのか!」 「……お前たちの言うことは全部、身に覚えがないんだが」  荒れ果ててはいるが原型を留めている町並みを見据えて呟く。 「いいこと?」  背後から、きょとんとした声が漏れた。 「悪いことをするつもりはないですけど、そういえばいいこともできませんね。何か食料でも持ってくるべきでしたかしら」 「ひめ……ペルル様、ちょっと静かになさっててください」  少なからず毒気を抜かれ、低く窘める。  何だか世話役の心境が判るような気がしたが、とりあえず無視した。 「私たちは、別に害意があってここへ来たのではない。街の破壊も、略奪も、お前たちに危害を加えるつもりもない。すぐに出て行くから、落ち着いては貰えないか」 「おめぇの言うことなんか、信用できるか!」  怒声と共に投げられた石が、アルマの肩に当たる。ペルルが鋭く息を吸いこんだ。  鋭い風切音が、耳に残る。 「ぎゃああ!」  前方の路地から、悲鳴が上がった。  びくり、とペルルが竦んだのが、背中で判る。  先刻(さっき)の音は、石を投げた時の音ではない。  あれは、矢羽根が風を切る音だ。 「子供相手に酷いことをするもんだね?」  そして、頭上から軽く声が降ってきた。  できる限り素早く振り仰ぐ。  背後の建物は二階建てで、屋根はこの地方独特の陸屋根だ。その道路に面した立ち上がり壁(パラペット)に片足をかけて、一人の人間が立っていた。  逆光と、風にマントがはためいているせいで細かいところは見えないが、かなりの長身だ。声からして、まだ若い男。構えてはいないが、手にした長弓には既に次の矢がつがえられている。 「……なにもんだ、てめぇ」 「うん、まあ、ただの通りすがりだよ」  村人からの、猜疑の混じった問いかけに、飄々と言葉が返される。 「よそもんがよくもやってくれたな!」  怒声が放たれるが、相手は平然としたものだった。 「左手前方の路地に三人、手前に四人、左手に一人。全員かかっても私に何ができるって言うんだ? 石を投げたところで届きゃしないだろうに」  じわり、と怒気が膨れあがった気がする。  これは救けて貰ったのだろうか、それとも余計に事態を悪化させに来たのだろうか。  アルマの注意は、頭上の人物と、周囲を取り囲む村人たちに向けられていた。  おそらく矢を受けた者の呻きが、途切れ途切れに聞こえてくる。  爪先立ち、アルマの肩越しにそちらの様子を伺っていたペルルが、意を決して身を屈めた。するりと自分を庇う少年の腕をかいくぐる。 「あのっ、お怪我は……」 「ぅあっ!?」  突然駆け寄ってきた少女に驚いたのか、一人の男が握っていた石を投げつけた。  ペルルが動いた直後から彼女を追っていたアルマは、闇雲にその腕を掴み、身体を回転させた。  ごっ、という鈍い音と共に、額に衝撃を受ける。  少女が小さく息を飲む。  まずい事態かもしれない。だが、まずは姫巫女の安全を確保しなくては。  小さな身体を抱き竦め、男たちに向けた背を丸める。  直後、びぃん、と空気が鳴って、背後で複数の悲鳴が上がった。 「一人にしか当てていないだろう。大袈裟な」  鼻を鳴らして、謎の青年は言い放つ。 「少年。その娘さんを連れて、早く村の外へ出るんだ。来た道を戻ればいい。……追ってきたらどうなるか、判ってるだろうね?」  僅かに声に凄みが増す。 「……行きましょう」  考えている余裕もなく、アルマは片腕でペルルの身体を庇いながら走り出した。もう一方の手で、深くフードを引き下げている。  頭上で、軽い足音がした。どうやら、青年は屋根伝いについてきているようだ。時折足を止め、周囲を警戒しているらしい。  村の出口が見えてきて、ほっと息を漏らす。  柵に繋いできた馬は、一頭増えていた。訝しく思う間もなく、綱を解き、ペルルを抱え上げる。続いて自分の馬に跨り、脇腹を踵で蹴りつけた。  ぴくり、と耳を動かして、荷馬は駆足で走り始める。  十数分、そのまま走ったところで、足を緩めた。ペルルもぎこちなく手綱を引く。馬に乗り慣れていない彼女は、そう長い間駆足に耐えられないだろうと思ったからだ。 「大丈夫ですか?」  アルマの問いかけに、首を振る。 「私は何も……。それよりも、アルマナセル様、お怪我は」  泣き出しかけているような瞳で、こちらを見つめてくる。 「ちょっと当たっただけですよ。酷くても、こぶができた程度でしょう」  片手でぶつけた場所を探ってみる。……頭を覆う布は、緩んではいない。安堵に、身体に入っていた力が抜けた。 「申し訳ありません。私の我が儘で……」 「お気になさらないで下さい。貴女にお怪我がなくて、よかった」  本心から告げるが、姫巫女は暗い表情で俯く。 「それより、あの人は何者だったんでしょうね。あんなところで、私たちを救けてくれるとは」  話題を変えながら、背後の村を振り返る。  彼らの視界の中に、襲歩で真っ直ぐこちらへ向かってくる一頭の馬が見えた。  馬の足を止め、相手を待ち受ける。  おそらくは先ほど自分たちを救けてくれた相手だとは思うが。まあ万が一村人だったとしても、それが一人だけならば何とかなるだろう。  相手の姿は、じきに判別できるようになった。  二十代半ばほどの男性。飾り気のない、深緑色のマントを纏っている。片手に弓を持ち、もう一方の手だけで器用に馬を操っていた。時折、背後を気にして振り返っている。背中から、矢筒とリュートの先端が覗いていた。 「……ロマ……?」  アルマが小さく呟く。急激に、口の中が乾いてきた。  青年は、数メートル手前まで近づいて手綱を引く。 「貴方が、救けて下さったのですか」  警戒心からなのか、声が掠れる。  それに気づいた風もなく、青年は微笑んだ。 「ああ。手遅れになる前でよかった。怪我は?」  明るい栗色の髪は、襟足だけがやけに長い。同色の瞳が、好奇心に満ちて二人を見つめている。額をぐるりと一周する形で、緑の地色に黒で奇妙な模様が描かれた布が巻かれていた。アルマのように、頭部の殆どをカバーしている訳ではない。 「ぶつかっただけなので。出血もしていませんし、大したことはありません。ありがとう」 「ありがとうございました」  礼儀正しく、アルマとペルルが軽く会釈する。苦笑して、青年は片手を振った。 「子供とはいえ、貴族に頭を下げられるいわれはない。気にすることはないさ」 「……何故、私が貴族だと?」  不審そうな言葉に、青年が軽く肩を竦める。 「育ちがよさそうなのは、一目見たら判る」 「なら、どうしてそんな言葉遣いをするんだ?」  僅かに苛立って、問い詰める。面白そうに、相手はアルマを見返してきた。ペルルが、きょとんとしてその様子を眺めている。 「どうやら、ロマに会ったことはないらしいね。我々は、国の庇護も竜王の加護も失った民だ。我々には貴族の階級など、敬愛の対象じゃあない」 「……まともな貴族なら、ロマと関わり合いにはならない」  固い口調で、返す。違いない、と青年が笑う。  小さく溜め息を落として、会話を切り上げた。 「ともあれ、助かった。それではよい旅を」 「おや、それだけ?」  半ば予想はしていたが、あからさまな言葉をかけられて、かちんとくる。 「他に何が?」 「無法者に囲まれて私刑にかけられるところを救けられたにしては、ちょっと素っ気ないんじゃないかな?」 「……何が目当てだ。はっきり言え」  アルマの態度には、露骨な敵意が滲み出していく。ペルルの視線が、気遣わしげなものに変わってきた。 「なに、大したことじゃない。見ての通り、私は一人だ」 「確かに。驚くべきことだな」  ロマは、大抵の場合、集団で移動する。それは血の繋がった一族であり、数人から、大きくて数十人規模だ。単独で行動するロマは、極めて珍しい。  アルマが直接顔を合わせるのはこれが初めてだが、ロマについての知識だけはあった。彼がこの青年に対して不審を覚えるのも、それに由来する。  しかし、青年の方はそのような感情を持っていないようだ。少年の皮肉に動じることもなく、続けてくる。 「そのマントの紋章からみて、君はイグニシア軍の一員なんだろう? 昨日、軍隊が母国へ帰るところだという話を聞いた。私はイグニシアの王都、アエトスまで行きたいんだが、同行させては貰えないか」 「はぁ!?」  青年がさらりと告げた要求に、素っ頓狂な声を返す。 「何を言ってるんだ。無理に決まってるだろ!」 「何故?」  反射的に拒絶するが、青年は退かない。 「部外者を軍に招き入れるなんてこと、考えることもできない」 「そう? 彼女はどう見ても軍の一員じゃないようだけど」  ちらりと視線を向けられて、ペルルが数度瞬いた。 「私は……」  何かを言いかけるのを、咄嗟に遮った。 「彼女は特別だ。理由がある」 「私も特別だし、理由はあると思うね。君たち二人の生命(いのち)を救けたっていう」 「厚かましいな!」 「ありがとう」  爽やかに微笑まれて、腹の底が熱くなる。 「無理と言ったら無理だ! 諦めろ!」  言い捨てて、馬首を巡らせた。ペルルに身振りで促して、共に歩き出す。  背後から、苦悩に満ちた声が発せられた。 「ああ、なんてことだ。イグニシアの誇り高い軍人、気高い若き貴族が、こんなにも恩知らずだったなんて。ほんのささやかな、無事に旅を続けたいと望んでいるだけだった傷心の吟遊詩人が、この事実を微に入り細を穿って歌い上げ、各地を巡ることを、一体誰が止められようか!」 「うるせぇ、黙れ!」  心のままに力いっぱい怒鳴りつける。  芝居がかった仕草で片手を胸に当て、青年は厳粛に続けた。 「心配しなくてもちゃんとあることないこと盛っておくよ」 「盛るのかよ! ていうかないことはやめろ!」 「いやあることだけでも、多分君はかなり情けないことになると思うけどいいのかい?」 「何でそんなところを気遣ってくるんだよ!」  流石に息切れしたところで、奇妙な声に気づいて口を閉ざす。  ペルルが、楽しげにくすくすと笑っていた。  青年に対して、思い切り素を出していたことに気づいて、血の気が引く。 「あ、ええと、ペルル様、これはその」 「ごめんなさい、笑ってしまって。でも、何だか、ちょっと安心しました」  無邪気な笑みを向けられて、何故か急激に気力が失せた。がっくりと肩を落とすアルマに、青年が気安く手を置いた。 「まああれだね、少年。年長者の忠告が聞きたいなら、安くしておいてあげるよ」 「うるせぇ……。勝手にしろ」  野営地に帰ったら、とりあえず全部エスタに押しつけよう。そう決意して、ようやくアルマは姿勢を正した。  嫌になるほど澄ました顔で、後ろをついてくる青年を振り返る。 「そう言えばお前、名前は?」 「ノウマード」
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