魔の章

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 がくん、と首が前に傾ぎ、背筋がひやりとして目が覚める。  頭を軽く振りながら顔を上げる。数メートル前に、こちらを向いてオーリが立っていた。 「おはよう、みんな。お疲れ様」  周囲で仲間たちが戸惑いながら意識を覚醒させていく。  そこは、一面の草原の中だった。と言っても草は殆ど枯れ、風にかさかさと乾いた音を立てていた。その大地のそこここに、ぽつん、ぽつんと大きな岩が点在している。  そして正面の空に、巨大な影が見えた。 「……え?」  まだ寝惚けているのか、と、片手で目を擦る。  しかし、それは相変わらず厳然と存在した。  地平線に近い位置にある、宙に浮く巨大な塊。夕暮れの光を浴びて、天に聳え立つ尖塔が幾つか見える。  もしもそれが山だ、と言うのなら、大きさだけなら納得できただろう。だが、あれは明らかに建造物だ。 「うわ……」  背後で、クセロが小さく呟いた。  馬車の扉が開き、グランとペルルが降りてくる。ペルルは目を大きく開いて、はるか遠い驚異を見つめていた。 「あれが、我が竜王ニネミアのおわす本宮。かつては不落を謳われた砦、アーラだ」  オリヴィニスが、厳かに、しかし少しばかり誇らしげに告げた。 「まあ、ちょっと、ずるをしてるんだよ」  再び草原を進みながら、どうしてもアーラ砦から目を離せないアルマに、オーリが告白する。 「ずる?」 「アーラ宮は、元々はただの岩山だった」 「は?」  さらりと告げられて、変な声を出す。 「岩山。まあ、それでも大きい方だけど。確か高さが手を入れてない状態で七十メートルぐらいだって聞いたかな。何百年も前から、その岩山に穴を掘って、通路を造って、内部に人が居住できるように作り替えたんだよ。尖塔を建てたりもしたから、遠目には建造物に見えるけどね」 「いやだって、あれ、宙に浮いてるじゃないか」  何度視線を向けても、アーラの下部、草原に当たる部分は背後の空が透けて見えている。 「実のところは、目の錯覚だよ。もう少し近づいたら、ちゃんと地面から(そび)えてるのが判ってくるさ」  僅かに笑みを浮かべて、そう告げられる。 「へぇ……」  感心したような、何だか残念なような気分で呟く。 「……おい」  視界の隅で、オーリの身体が大きく揺れた。振り向いた先で、クセロが青年のマントを掴んでいる。 「クセロ?」 「お前、これ、何だ」  厳しい顔で、マントを突きつけた。オーリが纏っているのは深緑の、いかにもロマ風のマントだ。そして、今は何箇所にも赤黒い染みがついている。 「あー……。うん、そうそう。ちょっと移動中に何度か落馬して泥がついたんだよ」 「んなわけがあるか!」  さり気なく視線を逸らせて、オーリは答える。が、クセロは間髪を容れずに反論した。  まあ、この青年が、しかも騎馬の民であるフルトゥナ人が落馬とかないよな、と他人事のようにアルマは考える。 「あれだろ、お前、これ、あの気持ち悪い奴に捕まったんだろうが!」  金髪の男は、僅かに顔を青褪めさせている。 「ああいうの苦手なのか」  機転と暴力で世の中を渡っている、という今までの印象からすると少しばかり意外で、アルマは小さく零した。 「得意な奴がいるかよ!」  しかし、そう返されたのは確かに尤もだ。 「ああ、もう、別にどうでもいいだろう? 君たちに被害は及んでいないし、私も今は無傷だ。ずっと眠っていて、君は怖い思いなんて一切してない。いいかい、クセロ。世の中、結果が全てなんだよ。私を責めるよりも、少しでもいいから感謝して欲しいね」 「うわあ説得力がねぇ」  開き直ったような顔で畳みかけたオーリに、半眼になってクセロは呟いた。  呪いと言えば、と気づいて、頭上を見上げる。  どんよりとした気配は相変わらず空に満ちているが、襲いかかってくる様子はない。そして、数メートル上空からがうっすらと緑色がかって見えている。 「また防御を講じてくれているのか?」  クセロと睨みあっていたオーリが、簡単に視線をこちらへ向けた。 「ああ。この距離なら、普通に進んでも一時間もかからずに着くからね」 「もっと近くまで運んでくれりゃよかったんじゃね?」  流石に、更に言い立てるつもりはないのか、クセロがマントを離し、それでも短く文句をつける。 「アーラ砦の偉容を見て貰いたかったのさ。この辺りから見るのは、かなり圧巻だ」  僅かに照れくさそうに、高位の巫子はそう告げた。  故郷が滅亡に追いこまれた彼には、単純に誇れるものが少ないのだろう。だが、今までは特にそれを気に病むような素振りも見せてはいなかった。  もう一度砦に視線を向け、アルマは頷いた。  竜王宮に近づくにつれ、ぼやけていた砦の下部がはっきりと見えてくる。  それは確かに巨大な岩山だった。空に浮いていた訳ではない、とはっきりして少々残念だが、それ以上に砦の大きさに圧倒される。  見上げていると首が痛くなりそうだ。幾度目か、周囲をぐるりと見回して、感嘆の吐息を漏らす。  やがて、裾野に造られた広い坂道が見えてきた。その登りきった先には、アーラ砦を囲むように石壁が巡らされている。正門の高さは、五メートルは下らないだろう。決して低くはない筈だが、それでも、砦と比べてしまうのだ。 「本当に岩山から作ってるんだな……」 「何でわざわざこんな面倒なことやったんだ?」  クセロが何の気なしに尋ねる。 「一つには、フルトゥナの国土の殆どが草原地帯だから、だね。街を作るための石を切り出せる山も、木を切り出せる森も、ここには殆どない。だから、我が民の殆どは定住できず、遊牧という生活を選ばざるを得なかった。こういう固定の都市は、アーラと王都、そして貴族の領地だった数箇所しかない」  蹄の音が、土の上から石の上を歩く、固いものに変わる。  正門に近づいたところで、先頭を歩いていたオリヴィニスは、ふいに横手に足を向けた。 「向こうに通用門がある。厩が近いし、私がここ三百年寝起きしてたのもその辺りだから、まずそちらへ向かおう」  門を回りこむように、道が続いていた。荷馬車が数台並んで歩けそうなほどの広さがあるが、流石に正門前の大路に比べると狭く思える。  通用門は、常識的な大きさであるようだった。既に半ば、壊れていたが。  蝶番から外れた扉が、壁に立てかけてある。広く取られた空間を、特に気にした風でもなくオーリは進む。  三百年前は、ここは下働きの者たちがいたのだろう。こちらも壊れた雑多な道具や馬具が、風雨に晒されて静かに朽ちていきつつあった。  広場の中央は広く開けられていたために、馬車が進むのには支障がない。やがて、奥まったところにある(うまや)へ到着する。 「藁は私が去年刈ったものだから、ちょっと(かび)くさいかもしれない。ただ量だけはあるよ。一冬使うつもりが、半分ぐらいしかいなかったからね」  厩は日常的に使っていたためか、壊れて放置されている部位は殆どない。馬房に藁を敷こうと、オーリがクセロとアルマを伴って動きだした時。 「こんなことをやっている暇はない、オリヴィニス」  むっつりとした口調で、馬車から降りてきたグランが制した。  呆れた顔で、オーリが振り返る。 「君の使命がどれほど重いものだろうと、馬をないがしろにはできないね。物事にはそれなりの順番があるんだよ。何時間もかかる訳じゃあるまいし、ここまで運んでくれた彼らを放置することはしない」  きっぱりと言い渡され、それでもまだ何か言い募ろうとしたらしい幼い巫子が、ふいに言葉を飲みこんだ。目の前に立つ青年の姿を、上から下まで眺め渡す。 「……お前」  まだ血に染まったマントを纏っていたオーリが、視線を逸らせて小さく舌打ちした。 「イグニシア人っていうのは、血の臭いに敏感だね」 「好戦的にしょっちゅう血を流す野蛮人だからな」  嫌みをさらりと返されて、小さく溜め息を漏らした。ぐるりと背後を振り返る。 「クセロ、アルマ。悪いけど、馬の世話を頼む。馬房に藁を敷いて、馬を入れて、餌を与えておいてくれ。ブラシまではまだかけなくていいよ。馬の調子は、プリムラに見て貰えば判るだろう。様子がおかしくても触らないように。こっちは、そんなに長くかからない」  有無を言わせない調子で指示を与えると、二人が抗議の声を上げるのを無視し、グランを促して外へ出る。  厩から数十メートル離れて、足を止めた。  夕暮れではあるが、まだ充分空は明るい。グランが改めて風竜王の巫子を見上げ、更に眉を寄せた。 「酷い目にあったな」 「別に。これぐらい予想はしていたし、治らないほど酷いものじゃない。何なら、ペルルに見て貰えば、私がもう傷ひとつないってことぐらいは判る筈だ。それより、君に言いたいことがある」  早口で弁解する。 「何だ?」 「アルマのことだ」  オーリは、一行を運ぶ途中でアルマが目覚めたこと、襲ってくる呪いを呪文を使わずに消滅させたことを手短に説明した。  グランは放置された樽の上に座り、腕を組んでそれを聞いている。 「呪文を唱えないで魔術が発動した、ということはひとまず心配しないでいい」 「そうなのか?」  意外な判断に、オーリは問い返す。 「アルマの魔術の根源は、ひたすら己の内部にある。僕たちのように、世界から力を抽出するのとは訳が違う。ただ、今まで僕が教えたように呪文を介在させた方が発動させやすかった、というだけだ。言ってみれば順調に成長していっているということだろう。……だが」  少年はもの思わしげな表情で、天を仰ぐ。 「なに?」 「……あいつは、何だかんだで気が優しい」 「そうだね」  話がどう進むのか、判断がつかずにとりあえず返す。 「まず、大公家と竜王宮のために、あいつは生きてきた。その後、大公家当主の名代として従軍することで兵士への、ひいては国民への責任を負った。そしてペルルだ。今日のことから見て、多分、お前に対してもその懐を広げている」 「それで?」  じろり、とグランは隣に立つ青年を見上げる。 「高位の巫子でさえ、自国民ぐらいにしかその慈悲を与えられない。あれはまだ十六だ。そこまで成長するには早すぎる」 「何もうちの全国民に気を許した訳じゃないんだし。彼が特別早熟だとは思えないよ」 「お前の民はお前一人だろう」  微妙な点を無造作に指摘して、グランが溜め息をついた。 「まあ、気をつけておこう。あれが潰れてしまっては困る」  そう一人で結論づけると、ひょい、と樽から飛び降りて、グランは厩へと戻っていく。 「君は何だかんだでアルマを大事にしてるよねぇ」  茶化すように背後から言ってきた言葉は、完全に黙殺された。
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