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瞬間、祭壇の間が大きく揺れた。
「うわっ!?」
下層へと続く階段傍にいたクセロが声を上げる。
みしみしと、柱とそれが支える屋根が軋みを上げた。
風竜王が、高く、吠える。
それは発声器官より発する声というよりは、空気自体が唸りを上げ、音を奏でているようだ。
アルマは反射的に腕を広げてペルルを引き寄せ、空いた片手で剣を抜こうとした。
「まだだ、アルマ!」
鋭く、グランが叫ぶ。
風竜王の瞳が、爛々と燃え上がるように光っている。
「何があったのですか?」
尋ねるペルルの声は、僅かに震えてはいるがしっかりと通る。
オーリが無言で肩越しに背後を振り返る。
つられて視線を向け、小さく息を飲んだ。
アーチを描く屋根の端、くっきりと暗い夜空を切り取っているその場所に、うぞうぞと蠢く物体が出現していた。
「呪いか……!」
フルトゥナ全土を覆っている呪いの重みが、今、この祭壇の上にかかっている。
屋根が軋む音に、冷や汗が滲む。
「大丈夫だ。砦の内部ぐらいなら、ニネミアが充分護ってくれる。だけど、これはかなり強力だな……」
眉を寄せて、オーリが呟いた。
「やり過ごすことは可能だと思うか?」
「ここから逃げ出す訳でもないなら、無理だね。このままなら、奴らは何年でもこうして祭壇の間へ侵入を試みているだろう」
グランの問いに、あっさりと答える。幼い巫子は小さく溜め息を漏らした。
「落ち着いて進めたかったのだが、仕方がない。始めてしまっていいか、改めて風竜王にお伺いしてくれ」
「大丈夫だよ」
オーリが軽く請け負う。見上げた先で、風竜王は小さく頷いた。その仕草が妙に高位の巫子に似ていて、こんな時だというのに笑みが漏れる。
「剣を抜け、アルマ。構えずに、水平にして持っていろ」
グランの指示がいつもより細かい。風竜王に脅威を与えないように配慮しているのだろう。
ペルルを庇う腕を外す。怯えていないかと思ったが、姫巫女は気丈に微笑んだ。
ゆっくりと、剣を抜いた。鞘鳴りも最小限に抑える。
そして、両手で捧げ持つ。無骨なブロードソードは、刀身が一メートルに満たない。
この剣が、過去から現在までどれほどの重荷を率いてきたのだろう。
グランが、横から刀身に手を触れた。
「僕の中に残る、龍神の影響を抽出して、発現させる。制御はするつもりだが、何かあったら僕を打ち倒してでも止めろ」
一同を眺め渡し、要請する。
「グラン、それは……」
「大将!?」
アルマと、離れたところにいるクセロが驚いた声を上げるが、それを全く一顧だにせず、軽い動作でグランは刀身を握りこんだ。
鈍く白銀に光っていた剣が、一瞬で赤黒い炎に包まれる。
ずしん、と身体に衝撃が響いて、アルマが眉を寄せた。
祭壇の間の外では、呪いから延びた細い腕が、まるでガラス窓に貼りついているかのように蠢いている。
「流石に反応が強いな。アルマ、慎重に呪いを解いていくんだ」
グランの指示に、呆気にとられて瞬く。
「だけど、俺、呪いの解き方なんて……」
しかし、ひたりと火竜王の高位の巫子に見つめられ、言葉を切った。
「お前には判る筈だ。お前が、〈魔王〉アルマナセルの血と力が、この場所に再び立っている。お前以外にできる者はいないし、お前にできないと思うならそもそも僕はここまでやってきていない」
その確信に満ちた態度に、戸惑う。そのまま、視線を手の中の剣へ落とした。
ゆらゆらと揺れる、赤黒い炎。禍々しさに満ちているそれからは、全く熱を感じない。
これが、龍神の力。〈魔王〉を召喚し、火竜王の高位の巫子グラナティスに不死を与え、フルトゥナ王国を壊滅させた。
世界が今のように形成された全ての元凶が、決して大きくはない手の中に燃えている。
まるで魅入られたように、そこから目が離せない。
突然、その芯に、黒い炎が凝った。
踊るように揺れるそれは、次第に、奇妙な形へと変化していく。
最初に判別できたのは、蝙蝠のような翼だった。
やがて鉤爪の伸びた腕、強靱な後肢、太く、長く、棘の生えた尻尾などが露わになっていく。
そして最後に、鋭い二本の角を戴いた頭部がぎろり、とこちらを見据えてくる。
その巨躯は何重もの鎖で戒められていたが、正直、すぐにも引きちぎられかねないように見えた。
ぎしぎしと軋む音すら聞こえてきそうなほどに、その生物はもがいている。
その動きと呼応するかのように、視界の端で呪いの腕が蠢いていた。
「……ああ。そうか」
剣の柄を握る手に力を籠める。
「戒めよ、鎖。その冷たき鐵の輪にて邪なる翼を破れ」
アルマが静かに言葉を紡ぐ。
きん、と小さく耳鳴りがして、剣が纏う炎が大きくなった。
「アルマ……ッ!?」
目を大きく見開き、オーリが叫ぶ。
祭壇の間の外で、ぼとり、と長い腕が落ちた。
「う……」
顔色を蒼白にしつつ、クセロはそれでもプリムラに外部を見せないように抱きかかえている。
黒い炎が、苛立ったように身悶えた。
「繋ぎ止め、抑圧せよ。頸木を嵌め、轡を被せよ。風は濁り、炎に焼かれ、深き水に沈め。永劫の時の果てに地の底へと落ち込むまで」
「君は、何を……!」
狼狽したオーリが、アルマの肩に手をかけようとする。
アルマもグランも、両手が塞がっていて彼を止められない。
その指先が少年に届こうとする寸前、ぎゅ、と横からペルルがその腕を両手で抱いた。
「離してください、姫巫女……」
「落ち着いて、ノウマード」
焦る青年に、少女は静かに告げる。そのまま、視線を上へと向けた。
つられて見上げたその先には、微動だにしない風竜王の姿がある。
「……え」
ぐるりと周囲を見回す。暗闇に満ちた屋外では、次々に呪いの片鱗が剥がれ落ちている。
「これは……」
「お前の番だ、オリヴィニス。風竜王を解放しろ」
自信に満ちた声で、グランが告げた。
まだ、半ば不審に思いながらも、青年は頷く。そっとペルルが離れた。
オーリが片手を血の染みこんだ胸へと当てる。
「我が竜王ニネミアの名と吹き荒れるその誇りにかけて、高位の巫子オリヴィニスが世界へ命じる。三百年の永きに渡る守護をここに免ずる。竜王の感謝を胸に遙か天へ飛べ」
瞬間、彼らの中心であり、フルトゥナの中心である祭壇から、突風が巻き起こった。
ごうごうと渦を巻き、吹き荒れるそれは、容易く残った呪いを引き剥がし、裁断し、風に散らしていく。
その動きは凄まじい速さで周囲に波及した。
呪われた地、屍に埋まる草原と恐れられた国土に淀む空気が、新たなる希望に満ちた風に吹き散らされる。
そして、祭壇の間にいる人々にも、それは顕著に感じられた。
「……え」
まるで今まで全身をすっぽりと何かで覆われていたのが取り払われたように、甘く新鮮な空気が肺を満たす。
気づかなかった身体の動きのぎこちなさが失われる。
この瞬間に比べれば、直前まではまるでぬるりとした沼の中を歩いていたようなものだ。
ばさり、と風竜王がその翼を広げ、勝利に高く、吠えた。
グランが、剣から手を離した。すぅ、と赤黒い炎が消える。
元の銀の輝きを取り戻した剣を、垂直に立てる。もう、そこには何も浮かんでいない。
大きく、アルマが息をついた。剣を鞘に落としこむ。
「よくやった」
グランは短く労って、片手で少年の背を叩いた。
それ自体が珍しくて、小さく照れ笑いを浮かべる。
「アルマ、君は、一体何をやったんだ?」
まだ呆然とした風に、オーリが尋ねた。
「ああ、えーと……」
説明しようとするが、うまく言葉にならない。数回、口を開きかけて、結局助けを求めるようにグランに視線を向けた。
「あれは、つまり、龍神でよかったんだよな?」
「龍神?」
「いたのか!? ここに?」
訝しげにオーリが繰り返す。グランは勢いこんで問いかけてくる。
あまり助けにならなかった。
「いや、いたっていうか、あの、お前の出した炎の中に」
「ああ……。なるほど。奴の力だからな。見えても不思議はないか」
幼い巫子が小さく独りごちる。
「お前は見なかったのか?」
「ああ。僕には見えなかった。お前の血の方が結びつきが強いらしい」
「君たちは説明してくれるつもりはあるのかい?」
火竜王に仕える者たちが勝手に話を進めているのに、皮肉げにオーリが割りこんだ。
「そうだな。つまり、先刻、グランが剣を炎で包んだだろう。あの中に、俺は龍神の姿を見たんだ」
少年の言葉に、風竜王の高位の巫子は小さく眉を寄せる。
「俺は竜王の実体を見たのは、今日の風竜王が初めてなんだけどさ。あれは、風竜王とは全然違ってた。手足を持っていて、ごつい身体があって、太い尻尾が生えてる。角が二本と蝙蝠みたいな翼を生やしていた」
翼、とオーリが小さく呟く。
「で、何となく思ったんだよ。どうしても、呪いの解き方が俺には判らない。でも、あの龍神の封印を強化したら、呪いに向ける力が弱まるんじゃないかって」
「封印だって?」
眉間の皺を深くして、更に問い正された。
「ああ、何だか、そいつが封印されてるみたいに見えたんだよ。言ってなかったか? 龍神の身体が、鎖で縛りつけられてて、身動きとれないようだったんだ」
「君は話していないことが多すぎるな」
ちくりと言って、溜め息をついた。
「なるほど。それで、翼と鎖か。……私はてっきり、君がもう一度風竜王を封印しようとしているのかと思ったよ」
「え?」
「いやあの呪文はそう聞こえるだろう? そんなことになったら、私はもうニネミアに死んで詫びるしかないのかと」
苦渋の決意に満ちた表情で告げられて、怯む。
「お前……」
「あ、勿論、その前に君には先に詫びて貰うけど」
「物騒だなおい!」
さらりとつけ加えられて、怒鳴る。
しかし素知らぬ顔で、青年は視線を逸らせた。
「それにしてもペルル様。よく、私の思い違いに気づきましたね」
オーリの言葉に、ペルルは柔らかく笑んだ。
「あら、だってあの時、風竜王様は全く動じていらっしゃらなかったのですよ」
その場の者たちの視線が、風竜王へと向く。表情が読みとれない竜王の羽毛が、そよぐ風に静かに揺れている。
彼女は呪いを解こうとしていた三人とは少し離れていた。その分、全体が眺められたのだろう。
「それに、アルマ様が間違ったことをなさるわけがないですもの」
にこにこと笑いながら、つけ加える。
何故か言葉が出なくて、ただペルルを見つめ返す。
しばし沈黙が降りた後で、声が上がる。
「あのさ。結局、もう、先刻のやつは出てこないってことなのか?」
おずおずと、クセロが尋ねてきた。
「ああ。呪いは、全て取り払われた。もう、この国には何の脅威も残っていない」
誇らしげに、オーリが宣言する。風竜王が、ゆっくりと自らの巫子に顔を寄せてきた。
安堵に、クセロは大きく溜め息をついた。どさり、とその場に座りこむ。プリムラが心配そうにそれを見上げた。
とりなすように、オーリが続けた。
「お疲れさま。とりあえず、みんなもう休んだ方がいいだろう。下に降りようか」
「……またあの階段を降りるのか?」
うんざりした顔を隠しもせずに、クセロが返す。
「登るよりは楽だろう」
「そうでもないんだよ、大将」
その人生の殆どを王都の竜王宮から出たことがない少年の言葉に、力なく反論する。
風竜王が、オーリに何か囁いたように見えた。青年はそれに小さく頷く。
「ニネミアが下まで送ってくれる。こっちへ」
祭壇の間の外、夜の闇の中に薄緑の光が満ちる。
球形に膨れたそれは明らかに宙に浮いていたが、オーリは軽く足を踏み出す。
光の中に立ち止まって、促すように振り返った。
風竜王に対して一礼し、そして全く動じることなく、グランがそれに続く。
先刻と同じ流れだな、と思い、今度はペルルに先を越される前に手を差し伸べる。
しずしずと二人が乗ったところで、クセロはと見れば、彼は明らかに臆していた。光の球と風竜王とを、交互に見比べている。
それに焦れたか、プリムラがぴょこん、と立ち上がった。両手でクセロの手を掴んで引く。
「……判ったよ」
渋々と身を起こし、一行へと近づく。風竜王の前を通り過ぎる時には流石に表情が固かったが。
二人が恐る恐る光の中に踏みこんだところで、ふわりとそれは降下を始める。
「うわ……」
低く呟いて、クセロはごくりと喉を鳴らした。
「……今、あの岩山の一番上にいるんだよな」
掠れた声で問いかけてくる。
夜空には月が出ていない。星は見えるものの、地上までを照らし出すほどの光はない。
アルマでさえ、この高さが克明にならないことを僅かに感謝していた。
「大丈夫だよ。ニネミアは、初めはともかくとして、今は君たちを信用している。君たちを歓待することに異存はない」
オーリが軽く請け負う。
砦の外部の岩肌は、ぼんやりと見える。それは一秒あたり三十センチほどの高さを、視界から上方へと移動していた。
自然落下よりは、多分ゆっくりだな、と、以前オリヴィニスに抱えられて屋根から飛び降りたアルマが考える。
ほんの数分で、地上が見えてきた。夕方に馬を連れてきた、厩の傍の開けた場所だ。
静かに足が岩の上に着いたと思うと、光の球が消える。何の違和感もなく、彼らは地上に降り立っていた。
感嘆の溜め息を漏らしながら、頭上を見上げる。
オーリが大きく伸びをした。
「じゃあ、みんなこっちへ。私が使っていた部屋は幾つかあるけど、それでも一年近く不在だったからね。埃が凄いことになってると思う。でも、他の部屋はそれこそ三百年放りっぱなしだ。家具も木が腐っている可能性があるから、あまりお勧めできないよ。掃除する時間を考えて、二部屋ぐらいで雑魚寝した方がいいだろう。外で野営するよりは居心地はいい筈だ」
青年が説明を加えながら、砦の中を歩きだす。
元々、岩の割れ目を広げたり、掘りやすそうなところを選んだりしたせいだろう、通路は曲がりくねり、思いもよらないところへつながっている。
アルマは、夕方に初めて砦に入った時から、オーリが歩く路に、所々小さな光球を配置していた。
それを辿れば、とりあえず迷うことは少なくなるだろうという判断だ。
オーリが居室の前まで案内したあとに、一行を厨房へ連れて行く。
「うわあ……」
埃が積もった部屋に、プリムラが呆然とした声を上げた。
「奥の扉を開くと、すぐ外だ。そこに井戸があるし、水は充分使えるよ。燃料もまだあった筈だ。掃除道具はそっちの戸棚の中」
いい? と確認してくる。まだ衝撃から立ち直れないまま、プリムラは頷いた。
「じゃあ、悪いけど、私はこれで失礼するよ」
「え?」
青年があっさりと残した言葉に、問い返す。
「ニネミアと話し合いをしておかないと。今までのことは、言わば事後承諾になるからね。説明して、今後のこともちゃんと話さなくちゃならない」
「でもオーリ、食事……」
心配そうに、プリムラが声を上げる。
彼らは昼間ずっと眠らされていたせいか、ここに着いた時点では殆ど空腹は感じていなかった。だが、その後砦の最上部まで登り、更に呪いを解く、という事態を過ごして、今はそれなりに腹を空かしている。
しかし、オーリは一日起きていて、更に彼らを運ぶ、という労働をこなしていたのだ。
額にエメラルドを戴いた青年が、ひらりと片手を振る。
「大丈夫だ。気にしないで。それよりも、正直、眠い。朝には適当に降りてくるから、そうしたら頂くよ」
「……うん……」
不承不承頷いた少女に小さく笑いかける。そして青年は問いかけるように視線をグランに向けたが、彼は無言で頷いた。
それを承諾ととったか、オーリは躊躇なく踵を返し、そして誰もそれを止めようとはしなかった。
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