風の章

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風の章

 夜の前庭に足を踏み入れる。きん、と冷えた空気が、吐息に白く曇った。 「フードを被れ、アルマ。オリヴィニスもだ」  傍に立つグランが指摘する。飾り気のない毛織りのマントを纏った彼は、常に額に頂いていたルビーのサークレットを今は外している。  無言で二人はそれに従った。頭を布で覆っているアルマは、それにひっかかってフードが被りにくい。  竜王兵が馬車を玄関先につけた。扉を開き、うやうやしくグランに頭を下げている。 「ペルル」  声をかけ、グランは先に馬車に乗りこんだ。温かな屋内で待っていたペルルが、次いで乗りこむ。  彼女のアクアマリンのサークレットも、今はつけられていない。  その後に続いたプリムラは扉を閉め、御者席へと座った。革の手袋をはめ直して手綱を取る。 「あの娘で大丈夫なのか?」  そこに竜王兵と共に馬を引いてきたクセロに尋ねる。なんと言っても、プリムラはまだ十歳に満たない。二頭立ての馬車を御せるとは思えなかった。 「ああ、あいつは旅に慣れてる。馬の扱いぐらいはお手の物だよ」  しかし男は軽く答えて、こちらを手招きする。アルマとノウマードにそれぞれの馬を預け、彼はもう一頭に跨った。その後ろには、数頭の荷馬が繋がれている。 「おれはあんまりお手の物じゃないんだけどな」  苦笑して、クセロが呟く。 「代わろうか? 私ならそれぐらいを連れて行くのは何とかなる」 「どうしようもなくなったら頼むよ。流石に最初から丸投げしたら、大将にどやされる」  男の返事に、ノウマードは僅かに眉を寄せた。  グランが、まだ完全にはノウマードを信用していない、とも取れる発言だ。  まあそこまで期待はしていない。軽く頷いて、ノウマードは自分の馬に乗った。背に負った矢筒とリュートの位置を改める。  グランが窓を開ける。竜王宮の責任者がそれに近づいた。 「できるだけ、各地との連絡を密にしていてくれ。王都の竜王宮は身動きが取れなくなる可能性が高い。ここが情報の取り纏めになることも考えるんだ。後は頼んだ」  重々しく、責任者が一礼する。 「お世話になりました」  ペルルが会釈しながら、礼を言う。責任者は思わず微笑んだ。 「竜王のご加護を」  切実にそれを必要とする一行は、夜の街路へと馬を進めていった。  彼らはゆっくりと馬を進めていた。  街の中は音が響く。数頭の馬と馬車が出て行った、という情報がすぐさま蔓延するのは避けたい。  しかも夜間は暗すぎて、街道に出ても速度が出せない。  それでもグランは少しでも早く出発し、距離を稼ぐことに拘った。 「手配書の写しを造るには、時間がかかる。肖像画を模写することを考えると、尚更だ。迅速に動けば、手配書が回ってくる前に進んでいけるかもしれない」  夕方の会合でそう結論づけると、彼は早々に出発準備を整えさせた。  街の西側の門衛には、竜王宮が話をつけている。日暮れと共に閉められた門を再び開く。一行が外へ出たところで、ゆっくりと閉めていった。  ごん、と閂をかける音が響く。これで、彼らには一切の守護がなくなったことになる。  ぶる、とアルマは身を震わせた。  従軍中でも、夜間の進軍はしなかった。冬が近づいて、空気は酷く冷えてきている。  馬車の前後にはランタンが設えられていて、周囲はぼんやりと判別できる。街道を慎重に進む馬車の横を、馬に乗った男たちが併走した。  さほど速度を出していないとはいえ、吹きつける冷気はマントを通して易々と体を凍えさせる。アルマは頻繁に片手を手綱から離し、腕や膝を擦っていた。  いつまでも続くかと思われた闇が、ようやく薄くなった。  背後を振り向くと、厚く覆われた雲の隙間から曙光が兆してきている。  やがて薄ぼんやりとした太陽光が、それでも明るく彼らの行く手を照らし始めた。  充分に明るくなったところで、一行は一度街道を外れた。朝食を摂りがてら、休憩をすることにしたのだ。  舗装されていない地面でがたがたと揺れる馬車を、気遣わしげに見つめる。  街道から適度な距離を取ったところで停止した。  クセロが馬車から馬を外す。 「大将たちのことを頼むぜ」  プリムラに告げると、彼女は小さく頷いて御者台から降りた。馬車の後ろの荷台を開け、食料を持ち出してきている。  騎乗してきた馬と荷馬を連れて、アルマとノウマードもその場を離れた。さほど遠くはない草むらへと誘導する。 「ちょっと待って。こういう茂みには、毒草が生えてることがあるから」  ノウマードが制止しつつ、足で草を掻き分けた。どうやらその手の物騒なものは見当たらなかったらしく、頷いて馬を寄せる。  おとなしく草を食み出した馬を、やれやれといった気持ちで見つめる。ノウマードは休む間もなく、一頭ずつ蹄鉄を点検し始めた。  アルマとクセロは、腕を動かして固まった関節をほぐしている。 「……あのプリムラって娘は、あんたの妹とかか?」 「いや。他人だよ。何でだ?」  僅かに警戒するように、訊き返される。 「何となく、嫌われてるような感じがしてさ。そういや、別に血縁は関係ないな」  単純に、尋ねるきっかけが欲しかっただけだ。 「何て言うか、ちょっと無愛想な娘だよね。いつもあんな感じ?」  さらりとノウマードが会話に入ってきた。 「ちょっと人見知りっちゃ人見知りだな。まあ、他にも色々理由はあるが」  大きく伸びをしつつ、クセロが答えた。 「ふぅん。ペルル様には懐いてるみたいだけど」  以前からの知り合いらしいグランには特に言及しない。 「ああ、前にペルルが言ってたけど、女性には女性同士のつきあいが欠かせないんだってさ。その辺の違いじゃないか?」 「へぇ。そうなのか?」  感心したようなノウマードの言葉に、金髪の男が苦笑する。 「女の気持ちなんて、判ろうとするだけ無駄ってもんだぜ」 「無駄?」  その、見下したような言い方にむっとしてアルマが呟く。 「大抵は時間と金の無駄さ」  無意味に胸を張り、クセロが断言する。 「女性に相手にされてないだけじゃないのか?」  だが、ノウマードが視線も向けずに放った言葉に、蹲った。 「……容赦ねぇなぁ、お前……」  小さく生唾を飲みこみつつ、アルマが呟く。ノウマードはそれには反応しなかった。  クセロに向き直り、殊更明るい声を出す。 「まああれだよ、男女の仲なんて、人によってそれぞれ違うもんなんだから。たまたま合わなかった相手とのことなんて、気にすんな」  心なしか潤んだような視線で、クセロが見上げてきた。 「他人のことなら簡単に言えるもんだよねぇ」  しかし、ノウマードが姿勢も変えずに放った言葉に、アルマもその場に蹲る。  枯れ草の混じった、もの悲しさすら感じる茂みが酷く近い。  そんな二人を気にも留めず、さて、と呟いてノウマードは立ち上がる。そのまま、隣にいる馬の背を撫でた。 「ねえ、この辺に川か池はあるのかな?」  全く気遣う様子もなく尋ねられて、もやもやする頭の中で、王都の周辺地図を浚う。 「……なかった、と思う。何でだ?」 「馬に水を飲ませてやらないと」  ああ、と蹲ったままでクセロが頷いた。 「桶と水は馬車に積んできてる。水は今夜の宿でまた補給できるから、節約しなくてもいいだろ。取ってくるさ」  心なしか弱々しく、よいせ、と勢いをつけて、男が立ち上がる。 「俺も行くよ。重いだろ」  軽く身を起こし、数歩先行していたクセロに追いつく。  数メートル離れたところで、男が声を落として囁いた。 「……あいつ、いつもあんな風なのか?」 「あー。うん。まあ、何て言うか、大体」  誤魔化すような、誤魔化せてないような感じで返事をする。疲れたように、クセロが溜め息を零した。 「キツいのの相手は、大将で多少経験を積んでたつもりだったんだけどなぁ……」 「タイプが違うよな。奴ら」  同意して、二人ともに疲れたように肩を落とす。何となく、奇妙な連帯感が生まれていた。  やたらと耳のいい風竜王の巫子には、きっと聞こえてるんだろうな、と覚悟しながら。  草を踏み分け、馬車に近づいていくと、それに気づいたのか静かに扉が開いた。 「どうした?」  馬の足音がしなかったせいだろう、怪訝そうにそう尋ねられる。 「水を飲ませないといけないから、取りに来たんだよ。いいだろ?」 「ああ。頼む」  グランの返事に頷いて、クセロは馬車の後ろに回った。  アルマは、何となくそのまま、中に座っている三人を眺める。  彼らはパンにローストビーフを挟んだものを食べていた。前夜、竜王宮が持たせてくれたものだ。冷たいが、さほど食べるのが辛いものでもない。 「……」  ふと気づいて、馬車の入口に足をかけた。一番手前に座っていたプリムラの顔を両手で挟み、強引にこちらに向ける。 「ひゃぅっ!?」  虚を衝かれて、少女は奇妙な声を上げた。 「アルマ様?」  きょとん、と隣にいたペルルが尋ねる。 「なになになになにっ!?」 「グラン」  奇声を上げる少女からあっさりと手を離し、グランに顔を向ける。無言で見返してくるのを促されていると判断して、続けた。 「火を熾こせないのか? こいつ、唇が紫色だぞ。一晩、馬車を御していて冷え切ってるんだ。暖めないと」  ものを食べるためにフードを脱いでいたため、顔がよく見えたのだ。そう言われた当人は、びっくりした顔で固まっている。  一方、グランは眉を寄せた。 「ここで一晩過ごす訳じゃないんだぞ。薪を集めて火を熾して、温かい食事を作って、全ての後始末をして、一体何時間かかると思う。野営ならともかく、それ以外はそんな時間を取っていられない」 「そりゃあ馬車の中で居眠りできてるお前は楽だろうよ」  むっとして言い返す。  溜め息を落として、グランは真っ直ぐにアルマを見つめた。 「そんなに気にかけるなら、自分でやればいいだろう」  少なくとも、その言葉は譲歩だ。アルマは身を翻し、馬車を降りた。 「クセロ! 鍋か薬缶はあるか?」 「ん?」  顔だけこちらを向けて、訝しそうな目で見られるが、すぐに荷台に手を伸ばした。 「大きさは?」 「小さいのでいい」 「じゃこれだ」  鍋はこれだけの人数の調理をまかなうために、結構大き目だったらしい。小ぶりな薬缶を取り出してきた。 「水もくれ」  革袋の口を開け、半分ほど水を満たす。薬缶に蓋をして、両手で持った。金属の感触が、手袋を通してじわりと冷たさと共に伝わる。 「灼熱たれ、我が手の中で」  短い呪文を唱える。すぐに、薬缶の口から湯気が噴き出してきた。 「おおー」  クセロが感心したような声を上げる。小さく手を叩いてすらいた。  肩を竦め、再び馬車の扉へ向かう。段の上に、熱い薬缶をそっと置いた。 「お湯が沸いたから、温かい紅茶でも飲んでな。もうすぐ、馬の世話が終わったらみんな戻るから、俺たちの食事も頼むよ」  目を丸くして見つめてきていたプリムラが、頷く。 「ありがとうございます、アルマ様」  嬉しげに、ペルルが礼を言う。自分の侍女であるプリムラへの気遣いが嬉しいのだろう。 「あの……、ありがとう」  小さな声で少女に礼を言われて、微笑む。ひらりと片手を振って、アルマはクセロの手伝いに戻った。  その後、彼らは順調に馬を進めた。  空模様は曇っていて肌寒くはあったが、幸い雨は降っていない。  追っ手に追いつかれることもなく、旅の一日目は暮れていく。  時間が経つにつれて、御者台に座るプリムラの頭がふらふらと揺れ始めた。  深夜からずっと馬車を御しているのだ。疲れてきていても仕方がない。  アルマが、いい加減グランに一言言ってやろうと思い始めたあたりで、時々道を先行していたクセロが、馬車に馬を寄せた。 「大将。もうすぐ宿だ」  周囲にほっとした空気が流れる。  やがて道の先に見えてきたのは、二階建ての大きめの宿だった。  前庭まで馬をつけて、先頭に立っていたクセロが飛び降りる。 「ちょっと待っててくれ。値段を決めてくる」 「値切る必要はないぞ、クセロ」  グランが窓から止めるが、男は僅かに呆れたような顔で見返した。 「言い値でほいほい代金を払っていたら、そっちの方が印象に残るってもんですよ。そもそもおれを使ってるのはそのためでしょうが。大丈夫、長くはかからない」  自信たっぷりに言うと、玄関の扉を開き、奥へと足を進めていった。残された者たちは、所在なげにそのまま待っている。  ぐるりと周囲を見渡した。建物の横手の地面に轍がついている。よく行き来しているのだろう。おそらく、厩舎はその先、建物の裏手にある。  ノウマードが馬の背に乗ったまま、長く伸びをした。 「流石に疲れたな。昨夜は仮眠も取れなかったし」  出発の準備が人一倍かかっていたせいだ。 「明日からはこんなにのんびりとは進まないぞ」  グランが静かに釘を刺す。 「君がどんなつもりでも、馬に無理はさせられないしねぇ」  が、青年はさらりとそれをかわした。  この二人の口論の間には入っていたくないな、とアルマがしみじみ考える。  などとやっているうちに、クセロが姿を現した。宿の使用人なのか、背後に一人の少年を連れている。  少年が荷馬を連れて、轍のある方へと歩き出した。  クセロがちらりとそれを見て、馬車に近寄る。 「怪しい奴はいないようだ。後で話がしたいらしい」  小さく囁くのに、グランは頷いた。
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