魔の章

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魔の章

 石造りの天井を、ぼんやりと見つめる。  もう何時間、こうしていたか知れない。  まあ空腹も喉の渇きもさほど酷くはないから、何日も経っているということはないだろう。  背中に当たる石から、冷たさが身体の芯へと滲んでくる。手足に回された鉄の感触にも慣れない。  静かだ。  室内には窓もないし、戸口には鉄の扉が嵌っている。  小さく息を吸う。次いで、彼は細い声で歌い出した。  あの青年ほど上手くはないが、どうせ誰も聞かないのだし構わない。  暇なのだ。 「風竜王宮親衛隊……?」  呟きが漏れる。  親衛隊、と名乗った男たちは、こちらに向けて弓を引いたまま微動だにしない。 「残っていたのか。逃げろ、と言ったのにな」  彼らに告げるつもりなのか、独り言なのか、オーリが零す。 「我らの先祖は、お言葉に従い逃げ出しました。逃亡して、そして、あの凄惨な状況を目の当たりにしたのです。あの地に貴方一人を残したまま。ご安心ください。彼らは、もう二度と逃げ出すな、と子孫に伝えております。我ら親衛隊六十名、一人残らず貴方の手足となりましょう」  にこやかに笑みを浮かべ、イェティスと名乗った男が軽く手を差しのべる。 「とりあえず、つましいところではありますが、我らが拠点へお連れ致しましょう。こちらへどうぞ」 「悪いが、先を急いでいる。私たちを放っておいて欲しい」  ばっさりと、オーリはその誘いを断った。 「勿論、皆様もご一緒で構いませんとも。武装は外して頂きますが」  口元にだけ微笑みを残し、親衛隊長が続ける。しかし、その目は全く笑ってはいない。 「……ああ、国民性なんだな……」  何となく諦めに似た感覚でアルマが呟いた。  十人ほどの戦士が、こちらへと近づいてくる。  彼らは、ずっとグランの決断を待っていた。彼が強行突破を命じれば、アルマを先頭に、必ずそれを成し遂げただろう。  だが、幼い高位の巫子は沈黙を続け、結果、一行は武器を取り上げられた上で岩山の奥へと案内されていった。  辿りついたのは、小さな村だった。  岩山の間に広がる僅かな空間に、煉瓦で作られた、平屋の家が建ち並ぶ。女子供の姿は見えなかったが、そこここから、細く、羊や馬の鳴き声は聞こえてきた。  既に全員武器を取り上げられ、拘束こそされてはいないが、連行、という言葉が似合う状況にある。  ゆっくりと進む先、村のほぼ中央に、一軒だけ、三階建ての建物があった。 「皆様、どうぞこちらへ」  言葉だけは丁寧に、その正面玄関を開けて告げられる。  グランとペルルとが、馬車から降りた。 「貴公はこちらだ。〈魔王〉アルマナセル」  そして、冷たい声が、仲間たちとアルマとを引き離す。  ペルルが、鋭く顔を上げる。 「イェティス」  咎めるように、オーリが名前を呼んだ。 「あれを野放しにしておく訳には参りません」  親衛隊長が、きっぱりと断言する。 「彼は、私たちの……」 「お立場を弁えください、オリヴィニス様」  抗議の言葉すら、取り合うこともない。 「アルマ様……!」  ペルルが、絞り出すように一言叫んだ。  宥めるように、安心させるように、彼女に向けて笑みを浮かべる。  そのまま、横目でグランの様子を伺った。  幼い少年は、こちらに視線を向けすらしない。  とりあえずその意図を理解して、溜め息をつきながらアルマは親衛隊に建物の横手へと連れられていった。  がちゃん、と鍵が回る音が響いて、口を噤んだ。  長い、不吉な軋みと共に扉が開く。  戸口から現れたのは一人。見知った青年だった。 「よぅ」 「……何をやってるんだ、君は」  軽く声をかけると、呆れたような声が返される。  牢獄の中には窓がない。蝋燭もなければ暖炉もなかった。だから、暗闇に満ちているはずだったのだ。本来は。 「暇だったからな。訓練だよ」  今は、アルマの創り出した色とりどりの光球が天井付近に幾つも浮いていて、柔らかな光が降り注いでいる。  それを見上げ、オーリは軽く頭を振った。  鉄の扉に体重をかける様にして閉じる。 「余裕じゃないか」  鍵こそはかけないが、そのまま見下ろしてきた。  アルマは今、石造りの床に横たえられている。床に据えつけられた鉄の輪に手足を拘束されて。  彼の身体に対して、微妙にそれらの間の距離が足りず、肘や膝が浮くのが不快だ。まあ立たされているよりは疲れないだろうが、気だるさは時間と共に蓄積した。殆ど自由のない体をできる限り動かして、体勢を変えるしかない。  ただ確かに、苦痛もなければ焦りもない。余裕といえば余裕だ。  何やら考えこむように立っていたオーリが、アルマの隣に座った。 「アルマ。君に、訊きたいことがあるんだけど」 「ん?」  こんな状況だというのに、二人ともが世間話のように口を開く。 「君、以前、言ってたよね。『見栄を張るのなら、心臓が止まるまで張り続けるべきだ』って」 「よく覚えてるんだな」  僅かに感心して返す。それは行軍中、雪山でいつ倒れてもおかしくない時に発した言葉だった。 「私は……、以前、『見栄』を張っていた。張り続けて、何もかも失うまで張り切った。そこまでのことで、私に悔いはない。だけど、もう、『見栄』なんてなくていいと思っていたのに」  隣に座る青年は、こちらを見てはこない。 「アルマ。私は、また、彼らに『見栄』を張り始めるべきなんだろうか」 「お前のしたいようにすればいいんじゃないか?」  絞り出すように尋ねられた言葉に、アルマはあっさりと返した。驚いた視線がようやく向けられる。 「俺だって、この間グランが大公家だのその周囲のしがらみだのを一旦棚上げにしよう、って言ってくれて、もの凄く楽になったんだよ。正直、ここまでその『見栄』って奴が重いものなんだ、って、無くすまで気がつきもしなかった。勿論、俺は結局大公子だし、どうせ言葉の上での問題でしかない。だけど、俺が楽になっていいんだったら、お前だって別に楽になっていいに決まってるだろ。ノウマード」  ノウマード。『放浪者』という名を初めて名乗った時は、ただ自虐と後悔と餓えるような贖罪への渇望しかなかったように思う。  自ら棄てた民の苦難をも、この身に受けたかったのだ。  流浪を続ける民が、この荒野に留まり、呪いが解けるのを何代も待ち続けた民が、何を望んでいるか本当に知りもしないで。 「楽に、か」  ふ、と小さく笑みを零す。 「グランが企んでいることは、絶対私を楽にさせそうにないけどね」 「あー、まあ、うん」  肯定しづらいが否定はできなくて、曖昧に返事を返す。  オーリが、手の中で何かをくるりと回した。ちゃり、と音がして、一本の鍵を指で摘む。  青年は身体を捩り、アルマの両手を頭上で固定する鉄の拘束具に鍵を差しこんだ。重い音が響いて、拘束が緩まる。 「……痺れた……」  手首を揉みほぐしながら、起き上がる。オーリは石の床に膝をつき、足首の拘束具を覗きこんでいる。 「君のことだから、おとなしく捕まっていないと思ってたよ」 「そりゃこんなもん、五分もあれば外せたけどな。初めてお邪魔した家を破壊する訳にはいかないだろ」  茶化すように返されて、オーリはちらりと視線を流した。 「それに、お前とグランのことだから、どうせ口先でなんとか丸く収めると思ってたさ。けど、やたら時間がかかったと思えば……」  オーリが額に巻いていた布は、今は外れ、前髪の間からエメラルドが覗いている。そして、イグニシアを旅立つ時から黒く染められていた髪は、以前よりはやや濃い栗色に戻っていた。 「参ったよ。わざわざ染めるなんて信じられないって激昂されたんだ」  疲れたような口調で告げる。髪の毛は、まだしっとりと濡れているように見えた。 「過保護な部下を持つと大変だろ?」  訳知り顔で返すアルマを、青年は半眼で見据えた。  その部屋に入ると、まず最初に動いたのはペルルだった。 「アルマ様……!」  彼女らしくもなく勢いよく立ち上がり、アルマの胸元に縋りついたのだ。 「ペルル?」 「ご無事でしたか? 痛いところや辛いところや苦しいことは?」  瞳を僅かに潤ませ、尋ねてくる。 「大丈夫ですよ。別に何もされていません」  苦笑して返すと、少女はほっと身体の力を抜いた。 「それに、どこか痛めていたら貴女には判るでしょうに」  ちょっと不思議に思って尋ねる。 「ですが、心が折れるような拷問を受けていたら、私の力では判りませんから……」 「……何を話しあってたんだよお前らは」  じろり、と室内を一瞥する。見慣れた面々の中に、一人、イェティスが卓の奥に座していた。酷く渋い表情で、アルマを解放するのに未だ賛成していないことが見て取れる。  アルマの背後に立つオーリから、やや圧力が増した。  が、親衛隊長は口を開かない。 「……イェティス」  苛立ちを滲ませ、風竜王の高位の巫子が促す。 「納得、できません」  視線を逸らせ、イェティスは呟いた。 「先刻(さっき)もきちんと話しただろう。〈魔王〉の子孫であり、レヴァンダル大公名代のアルマナセルとは、既に直接交渉を済ませ、私との間にもう(わだかま)りはない。火竜王の高位の巫子、グラナティスとも話し合いは終わっている。何より、我々はこれから風竜王を解放しに行くところだ。邪魔をするな」 「納得できません! 我ら三百年の苦難はどうなります! その者を生かしておいて、我らが先祖に申し開きもできますまい!」  ある意味、聞き慣れた主張だった。だが、正面から突きつけられると、まだじっとりと汗が滲む。  気遣わしげにペルルがアルマを見上げ、そしてきつい視線をイェティスへ向けた。 「お前が三百年前から生きているのであれば、その主張は聞こう。だが、無意味だ」 「……我らを再びお見捨てになられるのか」  オーリが、こちらも何度も繰り返された返答を口にする。それを受けて、小さく、イェティスが言葉を漏らした。絶望したような、失望したような、……相手の出方を図るような、瞳で。  オーリがひらりと片手を振る。 「三百年前に、お前たちを棄てたのは確かに私だ。だが、もう一度だと? 莫迦を言うな」  ぱっ、とイェティスの顔が希望に満ちる。  それを明らかに確認して、そして彼の巫子は告げた。 「拾ってもいないものを、再び棄てるなどできるものか」  びくり、と身体を震わせる。  三百年間、彼らは待ち続けてきたのだろう。  いつか、呪いが解ける時が来ることを。  そして、一番に風竜王の高位の巫子の元へ馳せ参じ、その剣を再び捧げることを。  巫子が希望と喜びとをもって迎えてくれることを、疑っていなかったに違いない。  だが、今目の前にいるのは、冷たい視線で見据えてくる青年だ。  イェティスの夢見た未来は、ここで崩れ落ちようとしていた。 「……お前、最近グランと一緒にいすぎたんじゃないのか?」  溜め息混じりに、アルマが感想を述べる。 「それは酷い言われ方だな、アルマ」  僅かに嫌そうな表情を見せて、オーリが返した。 「いいや、絶対そうだ。そもそもお前たちは、部下に対する思いやりとか配慮とか気配りとか慈悲とか誠意とかそういうものが共通して欠けてるんだよ。長生きしてると、デリカシーからなくなっていくものなのか?」  手の甲を胸元にとん、と押しつけられて、やや不安そうに、青年が幼い巫子へ視線を向ける。無言で、グランは肩を竦めた。その後ろで、クセロが声も立てずに笑っている。  イェティスが、彼ら一人一人の姿を順番に凝視した。十数秒迷った末に立ち上がる。 「とりあえず、こちらでおくつろぎください。またのちほど、案内を寄越します」  それだけを告げると、彼らから視線を逸らして退出した。  溜め息を漏らして、オーリが椅子にかける。 「全く……。思ってもみなかった問題が山積みだよ」 「お前の民だ。お前がなんとかするんだな」  零した愚痴に、今まで無言だったグランが口を開く。 「彼らは私の民じゃ……」 「棄てたとか拾ったとかはどうでもいい。しかし、今、お前に味方が必要なのは確かだ。一人でも多く」  きっぱりと断言されて、言葉に詰まる。  十数分、そのまま懊悩(おうのう)していた青年が、やがて顔を上げた。 「プリムラ。ちょっと、頼まれてくれないか」
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