探偵失格

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
一枚の紙を挟んで、鉛筆がコツコツと机にぶつかる音が耳に響く。この問題が解けて、一体僕の人生に何の意味があるのだろうか。世の中には光が屈折して波長が変わるだとか、そんなことよりも学ぶべき大事なことがもっとあるはずだ。 教室には、僕を含めて数名の生徒が物理の補習を受けている。集中力の切れた隣の生徒は、計算用紙として配られたプリントの角を折って、指先でいじり始めている。そんな様子をじっと見ている僕も、問題を解く集中力はもう完全に切れていた。 窓際に座っていた一人の女子生徒が、唐突に「あっ…。」と驚嘆する声をあげた。静かな教室で間抜けにも響いたその声に、教室にいた生徒の視線は集中した。他の補修を受けていた生徒も、思わず同じように間の抜けた声を出した。しかし、それは窓際に座っていた女子生徒を見て発したのではなく、教室の窓から見える光景に息を飲んだのであった。   校舎の窓から見える見慣れたはずの景色は、まるで大雪が降るかのように白く染まっていた。季節外れの雪でも降ったのかと錯覚するも、暦は既に5月に入っている。ついこの前まで咲き誇っていた桜の花弁も散り、夏に向けて真新しい緑が芽吹いているほどだ。 雪と見間違えたそれは、下よりも横のベクトル方向に動き、どこか子どもの頃の懐かしい記憶を刺激した。目を凝らして見ると、教室の窓を埋め尽くすほどの白い物体は、子供の頃によく遊んだ『紙飛行機』であるようだ。ひらひらと春風に乗って舞う無数の紙飛行機は、跳び方が違うものが混じっている。スタンダードなものから、ツバメ型のもの、イカ型のものなどバラエティに富んでいた。 教室は無論騒然となったが、補修を受け持った頭の固い物理教師の野田は、「静粛に!」と声を張って生徒を黙らせた。圧倒的な興味を引き付けるその出来事に、生徒はもはや物理の問題になど構っている余裕はない。生徒たちは残っている問題の解答を適当に埋め終わると、野田に投げつける勢いで補修プリントを提出して校庭へと駆けだしていった。 なんとか補修プリントを解き終えた頃、教室に残っているのは僕一人だった。 「おぉ、やっと終わったか…。」 野田は僕から補修のプリントを受け取ると、補修該当者一覧の名簿を見て赤ペンでチェックをつけた。僕の名前に赤のボールペンでチェックがつけられる。あまり自分の名前にチェックをつけられるのはいい気分がしない。 ふと見ると、赤ペンでチェックのついていない生徒名が一つだけ残っていた。しかし、教室に残っている生徒は僕だけである。誰か欠席しているのだろうか。 「あとは清水だけか…。でも、この子は不登校生徒だったな。」と呟いて、野田はプリントを片づけ始めた。 僕は野田に軽く会釈をし、カバンを抱えて教室を出た。誰もいない薄暗い廊下を歩いている時、突如校内放送のアナウンスが鳴った。 “ピンポンパンポーン…、今から呼名されるものは、すぐさま職員室まで来なさい。” 若干ヒステリック気味に聞こえた高い声は、おそらく教頭の声だろう。呼名されたのは、合計六人の女子生徒の名前だった。   二年A組の松岡美羽、山田裕子 二年B組の田沼希 二年C組の福田香織 二年E組の冨田弘美、西田京子 はただちに職員室に来るように。   呼名された生徒の中で、名前と顔が一致したのは、現在同じ二年C組のクラスメイトである福田香織だけであった。確か吹奏楽部に所属する女子生徒で、パーカッションを担当している生徒だ。それほど容姿が優れているわけではないが、明るく染めた髪と派手目な化粧をしている。クラス内での発言力は中の上くらいで、学校内でのヒエラルキー上位グループにまとわりつくような形で存在している。 客観的に見てもクラス内での立場が中の下である僕は、これまで彼女と特に話したことは無い。それにしても高校生活も二年目に入り、呼名された六人の同学年の女子の内、顔と名前が一致するのが一人だけというのはなかなかまずいのではないか…。補修を終えた僕はそんな考えを浮かべながら、校庭で騒ぐ他の生徒たちを遠目に眺めた。 グラウンドで部活をしていた連中が、活動を中断して散らばった紙飛行機に群がっている。彼らに交じって騒ぎたい気持ちが少し足どりを重くしたが、騒いでる連中に特に親しい人もいない。大人しく帰ろうと歩いていた時、校門前に置いてある花壇の中に、生い茂るコスモスに突き刺さるように墜落した白い紙飛行機を見つけた。 「あっ…。」 特に後ろめたいことはないのだが、僕はなんとなく周囲をさっと見渡し、誰もいないことを確かめてから花壇に手を伸ばした。少し前に栽培委員が水をやったのだろうか…。コスモスの花壇は湿っており、紙飛行機もまた少し水気を含んでいた。 尖った先端が内側に折られたオーソドックスな紙飛行機は、何かのプリントを折って作られたもののようだ。広げてみると、それは1年D組の学級通信のプリントであり、その裏の白紙の部分には何やら手書きの文字が書かれている。 もしかして、手紙か何かだろうか…。しかし、プリントの裏に書かれていたのは、六人の女子生徒の名前だった。 松岡美羽、山田裕子、田沼希、福田香織、冨田弘美、西田京子という名前が、円状に並んで書かれている。先ほどの校内放送で呼名された名前と一致している。 それはまるで、日本史で習った傘連判状のようであった。一揆などの参加者の首謀者が誰か判別できないように、皆が中心より放射状に署名するものだ。 なるほど…。先ほどの校内放送は、紙飛行機を拾った教師がこの署名を見て、彼らの悪戯だと思って呼び出しをかけたのだろう。ということは、あの無数の紙飛行機には、どれも彼女たちの名前が放射状に書かれていたのだろうか。 最寄り駅に通じる斜面のきつい坂道を歩きながら、僕は稚拙な推理をして時間を潰した。夏になると汗だくで登らなければならない急な坂である。あの無数の紙飛行機に全て同じことが書かれていたかどうか、校舎に戻って確かめたい意欲も生じてきた。しかしそう思った時には、もう我が母校は遠い点になっており、せっかく登り切ったこの坂を再び下って確かめる気力はなかった。 結局のところ、あの無数の紙飛行機は一体何だったのだろうか。名前の書かれた六人で、度胸試しにでも校舎の屋上から紙飛行機を大量に投げたのだろうか。そしてその首謀者を特定できないように、傘連判状のような署名を書いたとか…。 もしそうならば、この六人はあまりに阿保すぎる。例の紙飛行機の悪戯の首謀者が、特定されようがされまいが意味はない。クラス全員ほどの大人数で結託してするならともかく、たった六人で結託してそんなことをしても、生徒指導の鬼塚に全員まとめて叱られて終わるだけの話だ。まともな思考ができる人なら、せめて無記名で紙飛行機を飛ばすだろう。 ガタンゴトンと揺られながら、時速五十キロで過ぎ去る車窓の景色を僕は眺めた。何にしても、情報が不足している…。きっと明日はクラスでもこの紙飛行機の話題で持ちきりだろう。更なる推理は、明日に持ち越しにしよう。 まるでホームズにでもなったつもりで、ただの冴えない男子高校生はゆっくり瞼を閉じた。   翌日、二年C組の扉を開けると、予想通りクラスは昨日の話題で賑わっていた。窓際にある自分の席には、同じクラス内ヒエラルキー中の下である岡崎が座っていた。 「おはよう、昨日の怪事件について知っているかい?」 勝手に自分の席を占領され何か物言いたげな僕を見て、岡崎はそう尋ねてきた。 「知っているさ…。それより早く僕の席を退いてくれないか。」 岡崎は僕と違ってよく喋る男である。無口で大人しい性格のせいで中の下に甘んじている僕と違って、彼はよく喋るコミュ力のある男であった。しかし、多少思考がひねくれており、クラスでは少し浮いている存在として中の下に所属している。 「空から降って来る無数の紙飛行機は、なかなか幻想的な光景で見ものだったね。」 「あぁ、僕も物理の補修で教室の窓から見たよ。」 「そういえば、こないだのテストで君は赤点だったね…。集めた情報によると、昨日の放課後に大量の紙飛行機が校舎の屋上から投げられた。その紙飛行機には、同学年六名の女子生徒の名前が書かれており…。」 「うん…。その辺はもう知っているよ。」 僕は岡崎の一から始めた説明を遮り、気になることを質問してみることにした。 「昨日の帰り道に、僕もその紙飛行機を一つ拾ったんだけど…。あの無数の紙飛行機は全部同じことが書かれていたのか?」 岡崎はにやりと笑って、「あぁ、その通りだよ。」と答えた。 「どの紙飛行機にも、女子生徒六名の名前が円状に書かれているだけで、その他に書かれていることは何もなかった。」 「一体誰が、何のために、そんなことをしたんだろう…。」 顎に手をあてて、探偵のようなしぐさをする僕に、岡崎は「残念でした。」と言った。 「これがミステリー小説なら、探偵役が手掛かりをもとに、驚くべき謎を解明していくところなんだろうが…。残念ながらこの事件はすでにCase Closedなのだよ。補習が終わって君が一人で下校している間に、もう解決してしまっている。」 「はぁ?まさかあの名前の六人の悪戯なんてことはないよな…。」 僕は驚いて岡崎の回答を待った。 「そのまさかだよ…。昨日六人の女子生徒が校内放送で呼ばれたのは知っているだろう?」 「あぁ…、その放送なら僕も聞いたけど…。」 「放課後に呼び出された六人のうち、まだ校舎に残っていたのは部活をしていた四人の生徒だった。放送があった時には、残りの二人は既に下校していたか、放送を無視して帰ったようだ。」 「はぁ…、それでどうなったんだよ。呼び出しを食らったとしても、その四人は放課後、それぞれ部活の真っ最中のはずだろ。彼らが紙飛行機を屋上から投げたという線はないんじゃないか。」 「うん。投げたのは彼らではなかった。手紙を屋上から投げた実行犯は、おそらく残りの二人だ。」 岡崎のおそらくという言葉が気にかかった。 「おそらくってどういう意味だ?誰かが屋上にいるその二人をみたのではないのか?」 僕の問いに、岡崎は首を横に何度か振った。 「いや、誰が紙飛行機を投げたのか、その姿を直接見たものはいない。いや、正確には紙飛行機を落とした、かな?屋上には、大きな段ボールが残されてたんだよ。」 「っじゃあ、何でその六人が犯人ってことになる?」 岡崎はとてもつまらない真相を明かした。 「そりゃあ、呼び出しを食らった四人が自白したからさ…。」 「はぁ?」 「呼び出しを食らった四人のうちの一人が、『あの紙飛行機は私たちが悪戯でやりました。作ったのは六人で、投げたのは残りの二人だ。』って証言したらしい。」 「そんな結論…なのか?」 「あぁ。これが真相だ。事実は小説よりも奇なりというけれど、実際そんな小説みたいに面白いことはなかなか起きないよ。」 あまりに拍子抜けな真相である。こんなミステリー小説があれば、読者から避難轟轟の嵐を受けるのもやむを得ない。しかしこれは平凡な僕が生きる現実であり、そう小説のようなミステリーは起こりえないのか。   自分たちの名前を書いた紙飛行機を校舎の屋上から大量に投げ飛ばす…。   そんな何の意味もない、度し難く馬鹿なことをする意味がわからない。みんなで馬鹿なことをするのが楽しいのだ、それが青春の一ページを刻むことだと言うのなら、もはや青春なんて糞くらえである。そんなくだらないページを刻むくらいなら、一人孤独にやりたいことをして刻んだ時間の方がずっと有益だろう。 あまりに肩透かしな真相に、僕はその日を辟易とした気分で過ごした。 なんとも気分が乗らないまま、岡崎と共に昼食を買いに売店へ出向く。買った惣菜パンを食堂内のテラスで食べていると、少し離れたテーブルに三人組の女子生徒が腰を下ろした。 特に岡崎と話す話題もなく、購入した焼きそばパンを食べるのに集中していると、その三人組が話している声が聞こえてきた。 「昨日のあれって…絶対去年のことが理由だよね。」 「やっぱりそうだよね…。でも誰があんなことしたんだろう…。」 不安そうな表情で彼女たちは、昨日の紙飛行機事件について話していた。思わず僕は聞き耳をたてる。岡崎もまた神妙な顔つきで、サラダパンを口にしようとした手をとめ静止していた。 「去年、あの一年D組だった生徒なら、みんな気づいてるんじゃない?」 黒髪の座高の高い女子生徒と、茶髪の厚化粧の女子生徒が話している。 「えっ、でもあの六人がやったって認めたんでしょ?」 もう一人の細身の眼鏡をかけた女子生徒が慌てた顔で尋ねた。三人の中ではこの子が一番僕のタイプだ。 「そうね…。でも、多分違うと思う…。」 黒髪の女子生徒は、眉間に皺を寄せた。 「あんまり変な噂はしない方がいいって。もうこの話はやめようよ…。」 悲壮な顔でそう言った眼鏡の女子生徒の発言に、その変な噂とやらは打ち切られてしまった。 「どう思う…?」 彼女たちに聞こえないように、小声で岡崎は尋ねてきた。 「あの眼鏡の子がタイプだな。」 「そうじゃなくて、昨日の事件のことだよ。」 「やっぱり、あの紙飛行機の事件はまだ何かあるんだろう。」 「去年一年D組の人なら気づくって言ってたな…。うーん、ちょっと調べてみるか。こうしちゃいられない。」 岡崎は大きな口でサラダパンをかじり、慌てた様子で飲み込んだ。まるで大蛇が子ウサギを丸のみするように、彼の喉をサラダパンが通過していった。 「また分かったことがあったら連絡するよ。」 そんな慌てなくてもいいのに…。颯爽と校舎の中へ駆けていく岡崎を見送りながら、僕は焼きそばパンの細かい麺をかみしめた。 五時間目の物理の授業で、野田は昨日の怪事件について小言を口にした。 「まったく…。昨日は何やらつまらない騒動があったみたいだが、君たち学生の本文は勉学だ。くだらないことばかりに現を抜かしていないように!」 野田の言葉に対して返事をする者はなく、教室は水を打ったように静まり返っていた。授業後の休み時間、岡崎は元一年D組の生徒から聞き込みを行っている様子だった。普段特に話さない生徒にまで、自分からどんどん話かけに行けるのは彼の美徳であり、少し空気を読めない欠点ともとれる。 六時間目は英語の授業だった。英語教員の鈴木は、去年の一年D組の担任を受け持った男性教諭である。現在はクラス担任を持っていないが、中年オヤジの野田に比べると若くてユニークもあり、生徒からの人気も高いようだ。 授業終わり、岡崎は教諭である鈴木にも聞き込みを行っていた。廊下でいきなり岡崎に迫られ、鈴木は少し迷惑そうにしていた。 「なかなか取材は難航しておりますなー。」 放課後、岡崎は所属する剣道部の活動に行くまでの間、僕に今日の聞き込みの成果を教えてくれた。岡崎は新聞記者のように、読めないほど汚い字で書いてあるメモを見ている。 「どうだった?」 「元一年D組の人間に尋ねてみたが、あまり有益な情報は得られなかったよ。」 肩をすぼめるようにして、岡崎は眉をへの字に曲げた。 「でも、新たに分かった情報が二つ!」 「ほう、教えてくれ。」 「まず一つ目は、例の紙飛行機に使われたプリントのことだ。」 プリント…?そういえば、僕が拾ったのはどこかのクラスの学級通信だった。 「あの紙飛行機は、全てとあるクラスの学級通信で作られていたんだよ。」 「とあるクラスって…もしかして一年D組か?」 「ご名答だ。あの紙飛行機は、全て去年の一年D組の学級通信で折られていた。そしてもう一つの情報だ。例の六人の女子生徒だが、全員元一年D組の生徒だったということが判明した。」 「そうか。一年D組と今回の事件に関連があるみたいだな。」 「あぁ、僕が分かったのはそこまでだよ。残念ながら、一年D組とこの事件がどう繋がっているのか、その謎まではわからずじまいさ。さっき元一年D組の担任である鈴木に突撃インタビューをかましたけれど、何も分からないの一点張りだった。」 岡崎は教室の丸い橙色の掛け時計を見た。時刻はもうすぐ午後の4時を指し示そうとしている。 「おっと、早く剣道場に行かなければ…。また何かわかれば教えるよ。」 「おう、教えてくれてサンキュー。」 「期待してるぜ名探偵!」 岡崎は重そうなカバンを担いで、慌てた様子で教室を出ていった。僕も荷物を担ぎ、教室を後にする。カラスの鳴き声と共に、運動部のランニングの掛け声が風に乗って聞こえてくる。 新しく岡崎から得た情報で、紙飛行機事件と一年D組に何かしらの関係があることは明らかになった。しかし、それが何なのかはわからない。当事者である例の六人なら分かるのだろうが、岡崎曰く、元一年D組の人間からも有益な情報は得られなかったという。 例の六人が紙飛行機を飛ばしたのではないとすれば、一体誰が何の目的で飛ばしたのか。なぜ六人の女子生徒は、自分たちがやったと嘘をついたのか…。謎は深まるばかりである。 六人の女の子が集まってすること…僕の姉曰く、年頃の女子が集まってすることなんてろくなものがないそうだ。年頃の男が集まってすることも大差はないと思うけれど、友達が少ない僕にはよくわからない。 この紙飛行機事件について、僕はとある仮説が思いついた。格好をつければ推理といってもいいのかもしれないが、しかし、証拠もなければ自信もない。だからこれは推理なんて呼称で言いたくない。ともかく、真相を確かめるには、犯人の子に直接聞いてみるのが手っ取り早い。   風呂の天井から、湯気が雫となってぽたりと落ちてくる。私は長風呂が好きだ。だいたいの悩みや嫌なことは、ぽかぽか温かい風呂に浸かっていれば気分が和らぐ。 しかし、それでは取り払えない悩みや嫌なことも存在する。渡り鳥が長旅の途中に羽を休めるように、田畑に休閑期を設けるのと同様に、あの長く続いた凄惨ないじめを克服するには、私の精神も休養をとることが必要だった。私が不登校だったこの期間は、彼女らに復讐をするための休閑期だった。 私ははやる気持ちを抑えて布団に入った。少し長風呂に浸かり過ぎて、身体が火照ってまだ眠れそうにない。いや、眠れないのはそれだけが理由じゃないだろう。まるで、小学生の頃の遠足の前日のような、抑え難い興奮が原因に違いなかった。明日は来る。しかし、明後日は来なくてもいい。彼女たちに絶望の未来が訪れるなら…。   校舎の屋上に上るのは、私にとっては慣れたものだった。去年、クラスの六人からのいじめが始まるまでは、天文部としてこの屋上にもよく足を運んだからである。 春の暖かな日差しを受け、屋上は昨日の風呂のようにぽかぽかと温かった。こんな素敵な青空の日に、屋上から飛び降りようなんて考える人間は私の他にまずいないだろう。屋上に設置されている貯水タンクは、鉄骨の部分を握ると少し熱かった。どうせ今から死ぬのだし、多少火傷したって構わない。私は貯水タンクの上によじ登った。 学校ももう少し安全管理が必要だろう。屋上には、当然転落防止のフェンスが張り巡らされているが、この貯水タンクによじ登れば簡単にフェンスを越えて飛び降りることができる。 貯水タンクの上からは、学校のグラウンドが一望できた。眼下のグラウンドでは、昼休みでくつろぐ生徒がまばらに点在しているだけだ。誰も屋上になんて興味を向けない。 不登校の間に長くなった私の髪を、春の穏やかな風がなびかせる。 きれいに揃えたローファーOK 何度も書き直した遺書OK その遺書で折った紙飛行機もOK   バンジージャンプをした経験はない。無知ゆえに怖いとも思わないのだろうか。 「よし…、行こう!」 私は走り幅跳びのように、勢いよく貯水タンクの縁を踏み切って空に跳び出した。最高地点に達した時、私は手に持った紙飛行機の遺書を青い空に投げた。 自由落下が始まる…。ジェットコースターでは味わえない初体験の浮遊感、身体全体で風を切る爽快感。これがバンジージャンプなら、そろそろハーネスが身体に食い込み、しまいにはバウンドするのだろうが、私の身体は重力加速度をどんどん推進力に変えていき、しまいには固いコンクリートに頭から打ち付けられた。私は幸福にも、即死であったようだ。     不登校であった清水という生徒が、校舎の屋上から飛び降り自殺を図ったのは、僕が呑気に春の陽光に照らされて、岡崎と日向ぼっこをしている昼休みの時だった。 僕は自分の考えた仮説を、まずは友人である岡崎に話してみようと思っていたのだ。 「ふーん、なるほどね。あの紙飛行機は、悪戯じゃなくて告発状だったって線か。」 「あぁ、傘連判状みたいに書かれたあの六人の名前は、リーダーを特定させないためじゃなくて、全員がいじめの首謀者だってことじゃないだろうか…。」 「うーん。なるほどね…。っじゃあ、紙飛行機が旧一年D組の学級通信で折られたのはどう説明するんだい?」 岡崎は僕の仮説に興味を示して色々質問してきた。 「あれは、おそらく旧一年D組のクラスメイトは、みんな清水って子がいじめられたのを知っていたんじゃないかな。旧D組の生徒にお前が質問しても、何も教えてもらえなかったのは、みんな後ろめたさがあったからじゃないかな。ひょっとすると、担任の鈴木もいじめがあるのを知ってて、見て見ぬふりをしてたのかも…。」 「あぁ、その線もあるかもなぁ。鈴木に突撃インタビューした時、すごく嫌そうな顔してたし、あいつは生徒全員に気に入られようと媚びうる感じがあるからなぁ。いじめなんて面倒なこと、黙殺した可能性もあるね。」 そうはいっても、これらは全て仮説である。 「まぁ全部推理なんて言うには、とてもおこがましい考えなんだけどね…。」 僕は自分が今しがた岡崎に話した内容に、情けなくそう付け加えた。僕は残念ながら、小説の主人公足りうる探偵役にはなれない。 「いじめがあった根拠を見つけることができませんでした、ってよく学校関係者が釈明するみたいにさ…。その清水って子が本当にいじめられていたかなんて、よそのクラスだった僕らにはわからないさ。」 「まぁ…、そうなんだけどね…。なぁ、岡崎…。もし僕の考えが合っていたとして、これからどうしたらいいと思うよ。」 僕は岡崎がその答えを持っているとは思わなかったが、一応友達である彼に助言を求めてみることにした。岡崎はコロッケパンを齧る手をとめて静止していた。僕の問いに反応して手を止めたのだと思ったが、どうやらそうではないらしい。まるで僕が透明人間になったかのように、彼の眼の焦点は僕に向けられていなかった。彼の眼の焦点は、僕のはるか後ろの校舎の位置で結ばれていた。 岡崎の視線の先を、不思議に思って僕も振り向く。校舎の屋上には、貯水タンクに登る女子生徒の姿が見えた。 「えっ…。」 僕は思わず、手に持っていた卵パンを落としてしまった。   その瞬間、女子生徒は走り幅跳びのように飛び立ち、そしてそのまま落ちていった。彼女が地面に叩きつけられる瞬間は流石に見ていられなかった。 呆然とする僕と岡崎の元へ、ゆらゆらと白い物が降ってきた。それは遺書と書かれた白い紙飛行機だった。  
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!