袋小路

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袋小路

 その日、帰宅してから西ヶ崎にLINEを送った。一言伝えたいだけなのに、気恥ずかしさのせいで送信ボタンを押せず、何度も文言の推敲を繰り返した。  あまり遅くない時間に送ろうと思っていたのに、気づけば時計の短針は九の手前まで進んでいた。相手の生活習慣など知らないが、寝る直前になって先輩からメッセージが送られてくるのは歓迎しないだろう。真面目な性格であればメッセージを無視することなどできないし、返事の内容に迷っているうちに深夜に、なんてことも予想できる。  細かいことは気にせず、早く送った方がいい。  弱気を息と共に飲み込んで、画面に触れた。 「いきなりで悪い。アカウントは宮部に教えてもらった」  それから、 「あいつから聞いたよ。髪、ご愁傷様。でも、ショートも似合ってるぞ」  送信してから、恥と後悔の混ざった感情に胸が襲われる。これ、セクハラとかじゃないよな、と自分の中で確認する。  返信を待つ間は、それこそ一日千秋の感覚だったが、五分ほどで返事がきた。  震えたスマホ。それに負けじと震える手。アプリを開く。 「ありがとうございます!でも、別に気にしてませんから」  汗を意味する絵文字と共に送られてきた。間髪入れず、 「明日は、部活行きますね」  可愛らしい犬の絵文字。とりあえずは胸をなで下ろし、 「おう。待ってるぞ」  返信。既読はすぐに付いたが、それ以上のアクションはなかった。  一仕事終えた気分になった俺は、ベッドに仰向けに寝転んだ。水戸の言葉を思い出す。深く考えたくなくて、すぐにかき消した。  宮部のアドバイス、役に立ったのかな。それから、彼女は今、谷岡とメッセージを交わし合っているのだろうか、と思った。  自嘲の笑いが漏れた。未練がましい。怒鳴りつけてやりたいほどだ。  もしかしたら宮部にとって、谷岡以上の存在に俺はなれるのかもしれない。  自惚れだ。  頭の中で声がした。頷く。  谷岡が先に彼女に出会い、告白してしまった以上、俺にはどうすることもできないのだ。  順番。  俺に恨むことができるのは、それしかない。彼女の優しさを恨むなんて、できやしない。  痛かった。胸の中のどこかが、軋むような痛みを訴えている。耐えるしかない。いつか、それが消えるまで。感じられなくなるまで。  電気を消し、布団の中に顔を埋めた。真っ暗な視界の中に、宮部の笑顔が浮かぶ。水戸は、俺を慰めてくれるだろう。その優しさに、すがってはいけない。強くあろうと努めること。それだけが、彼女たちの誠意に応える唯一の方法のように思えた。  翌日の放課後。この日は朝から、粉雪が舞っていた。いつにもまして気温が低い。俺は生徒会室に寄ってから部室に行った。扉の前で、深呼吸をする。手に持っていた物を一度足下に置く。壁のすぐ側で、室内からは死角になる位置だ。  扉を開ける。  中には、いつもの席に座る水戸。その隣、俺から見て手前側の席には、気恥ずかしげに笑う西ヶ崎の姿があった。 「こんにちは」  西ヶ崎の軽い会釈。目を細めた水戸の笑顔。  扉を身体で支え半開きにしたまま、おう、と応えた。 「どうしたの。早く入りなよ。開けっ放しじゃ寒いよ」  眉をひそめる水戸に、いつもの表情だ、と心の中で安心した。寒そうな様子も変わらない。 「まあ、待てよ。なあ、西ヶ崎」 「はいっ?」  少し緊張した声色。寒気に晒された耳が赤い。 「たいしたことじゃない。簡単なアンケートさ」  笑いかけながら、横目で水戸を見る。彼女は俺と交わした賭について、西ヶ崎に伝えたのだろうか。わざわざ明かすことではないだろう。西ヶ崎に視線を戻す。 「寒いと思わないか、この部室?」  指で床を示しながら尋ねた。窓の外ではまだ、白いものが舞っている。聞くまでもないことだった。質問の意図が理解できないようで、西ヶ崎は目を泳がせて迷った。隣では、これもまた驚いた様子の水戸が目を見開いている。しばらくして、 「え、ええ。まあ、寒いですよね。暖房ないし」  肩をすくめながら頷いた。俺はそれに頷き返してから、 「こんなところにいたんじゃ、風邪をひくかもしれない。だから、部活に来るのを控えてたんだよな?」 「え、いや、それは……」  思わぬ訊問じみた問いに戸惑う。悩ませるのも可哀想な気がして、俺は強引に進めることにした。  言い淀む西ヶ崎を手で制しながら、ぽかんとしている水戸に言う。 「なあ、水戸。どうやら、お前のカンが当たってたらしい」 「え?」  賭の勝敗は、すでに明らかなはずだ。それをひっくり返すような真似をする俺に、水戸はただただ困惑している。それがまたおかしくて、自分の頬が緩むのが分かった。 「俺の負けだ。だから今日は、約束の物を持ってきた」  言ってから、一度身体を外に出し、死角に置いておいた物を中に入れた。後ろ手にドアを閉めるよりも早く、水戸が感動の悲鳴をあげた。 「ストーブだあっ!」  俺が持ってきたのは、電気ストーブだ。小型だが、部室くらいの広さなら十分効果を発揮するだろう。  あまりの興奮に立ち上がった水戸は、俺からストーブをひったくり、コードをコンセントに差し込んだ。スイッチを入れてしばらくすると、じんわりと熱が広がってきた。 「はああ、温かい」  袖から出した手を温めながら、弛緩しきった声を出す。側にいる西ヶ崎は、水戸と俺を交互に見ながら、説明を求める顔をしていた。  コンセントは水戸が座る席側の壁にある。スペースの都合上、ストーブはドアと机の中間地点あたりに置かれた。  いつもの、自分の席に座る。ストーブとはかなり距離があるが、それでも熱が伝わってくる。上着を脱いで、隣の椅子にかけた。  西ヶ崎に向かって、 「お前が部活に顔出さない理由。それが寒さだったら、ストーブを調達するってことになってたんだ」 「ええ?だから先輩が、わざわざ教室まで来てくれたんですか?」  自分が賭の対象にされていたことを知り、恥ずかしそうに口元を隠す。 「でも、私……」 「いいから、そういことにしといてくれ」 「はあ……」  不思議そうな顔のまま頷く。 「はあ、堪能」   赤い顔で満足げに呟いた水戸が、定位置に戻った。コートを脱ぎ、淡い水色のカーディガンにブレザーという格好になった。一番熱源に近い位置にいる西ヶ崎も、コートを脱いでいた。 「いやあ、まさか頭の固い会計さんが、ストーブを買ってくれるとはねえ。奈江ちゃんさまさまだよお」  緩んだ笑顔で、西ヶ崎に抱きつく。  釈然としない顔で、また俺を見てきた。後で説明する、という意味を込めて頷き返してみた。どこまで考えが伝わったか分からないが、西ヶ崎は水戸を引きはがすことに注力し始めた。 「部長、暑いです」 「久々だからさあ、スキンシップを求めてるんだよお。ここんとこ、怖い顔した男子とずっと二人っきりだったからあ」 「あはは……」  部活を休んでいた引け目があるらしく、西ヶ崎は優しく水戸を引きはがした。それでも引きはがすあたり、よっぽど暑苦しかったのだろう。 「もう」 「抱きつかれてたんじゃ、本も読めませんから。部活になりません」  駄々をこねる子どもを宥めるような口調で言いながら、西ヶ崎は立ち上がり、こちら側の壁際に置かれた本棚から一冊の部誌を抜き出すと、俺と一つ挟んだ席に腰を下ろした。 「あ、奈江ちゃんが逃げた!」 「そっち、暑いんです」 「むう」  寂しそうに眉を八の字にする水戸に申し訳なさそうにしながら、部誌を開いた。先月に発行したものだ。この場にいる三人の原稿しか載っていない。 「今月号、どうします?」 「変わんないよ。薄くても、作る」 「やっぱり。ならまあ、……よかったです」  部誌を開きながらも、西ヶ崎の視線は水戸や俺に向けられていた。  笑ってはいるが、手もとの冊子の薄さに、物足りなさを感じているようでもあった。 「もう二人くらい、書き手が欲しいですね」 「確かにねえ。加賀谷君を入れたときみたいに、またいろいろ声かけてみようかなあ」 「やめとけ。この時期に新しく部活に入ろうなんてやつ、そうそういねえよ」 「んー。でも、私が加賀谷君に声をかけたのも、去年の今くらいじゃなかった?」 「さすがに、もう三ヶ月は早かった。まだ、三年生が引退する前だったよ」 「大差ないって、それくらい。ドラマの1クール分だもん」 「そりゃそうだけど……」 「え、先輩って途中で入った人なんですか?」  俺と水戸のやり取りに、西ヶ崎が部誌を閉じて聞いてきた。 「ああ。夏休みが終わって、少し経った頃か。こいつに声をかけられて、仕方なく」 「あのときは部員が少なくて、同好会に格下げされるかもしれないって、当時の部長から脅かされてたんだよね」  懐かしげに目を細める水戸を見て、なんとなく思い出す。自然と頭に浮かんでくる、といった方が近い。一年と少し前のある日。昼休み。名前も知らなかった彼女が教室に入ってきて、何人かの生徒に声をかけていた。知り合いを中心に、という感じだったが、たまに初対面の生徒にも話しかけていたようだった。まだ食事中の生徒が多く、その空気の中に突然入り込んできた来訪者が珍しく、俺は弁当を食べながら様子を眺めていた。  そして目が合い、こちらへも。 「今もそんなに状況は変わってないけどな」 「ははは。まあ当時の部長も、危機感を煽るために大げさに言っただけみたい。でも、一人でも釣れてよかったよ」  魚か。言う前に、西ヶ崎が噴き出した。それから、 「どうして先輩に声かけたんですか?男子ってあんまり、文芸とか反応良くなくないですか?」  横目でこちらを見ながら、首を傾げた。確かに、と水戸も頷く。 「それはねえ、加賀谷君が書きたい、表現したいモノを秘めてるって顔をしてたからだよ」 「表現したいモノ?」  俺が聞き返した。そう、と優しく頷く。 「なんとなく、だけどね。加賀谷君の顔を見たとき、袋小路の中にいるような感じがしたんだ。言いたいこと、やりたいこと。それを抑えてる。抑えなきゃいけないって、思ってる。だから、別の表現の場があるって、教えてあげたくなっちゃったんだよね」 「へえ」  さっぱりといった顔で西ヶ崎が頷いた。少し考え込んで、また部誌を開いた。それから、俺と水戸を交互に見ながら、 「でも、分かる気もします。先輩の書く小説って、いつも閉塞感というか、それこそ袋小路の中にいる、って雰囲気がありますから。あ、別に悪い意味で言ってませんよ。こういう落ち着いた雰囲気の文章を書ける人ってあまりいないから、読んでて勉強になるというか」 「無理にフォローしなくていいって」  笑う。悪い気はしない。恥ずかしいだけだ。 「奈江ちゃんの言うとおり、私の目に狂いはなかったって思う。毎回ちゃんと書いてくれる。表現してくれる。誘って良かったな、って思うよ」 「よく言うよ。人が昼飯食ってる間、ずっと目の前で文芸部に入れって騒ぎやがって。周りからの視線が嫌で頷いたようなものだったよ」 「それでも、ちゃんと活動にも参加したんですね?」  意外そうな西ヶ崎。 「まあ、入ってしまったものはな」  あの頃。すでに谷岡との出来事は過去のものとなり、表面上は谷岡とも宮部とも普通に話せるようになっていた。だが心のどこかで、逃げ場のような場所を探していた。無理矢理押さえ込む気持ちの熱を発散させられる場を。PCや原稿用紙に向かって何かを綴るというのは、自分の頭の中を整理するためにも、絶好の機会といえた。 「私、一年生の何人かに声かけてみます。なんとなく、表現したいモノを秘めてそうな知り合いもいるので」 「ありがとう。一年生も奈江ちゃんだけじゃ寂しいだろうし、頑張って!」 「はい!」 「加賀谷君は、心当たりはいないの?」 「俺に、そんな複雑なタイプの知り合いはいないな」  交友関係が広いわけではない。谷岡の顔が浮かんだが、やめた。  あいつは、俺以上の苦悩を抱えているに違いない。それを創作という形で表現させるのは、酷なことに思えた。 「ま、焦ることはないだろう。どうせ今入部したところで、今度の部誌には間に合わない」 「それもそうだね」  水戸が頷き、西ヶ崎も同調した。 「とりあえずは、次の作品に集中することにします」 「期待してるよお」 「部長も、また面白いのを書いてくださいね」 「うん、頑張るー」  そんな仲良し女子の会話を片耳で聞きながら、意識を窓の外へ向ける。雪はやんでいた。ただ、冷酷なまでに寒い冬があるだけだ。  薄い窓ガラスを通して、冷気が伝わってくる。身体の左半分ではストーブが発する熱を、右半分では寒気を感じる。その、どっちつかずの位置に居心地の悪さを感じた。それでも、活気のある部室を出て行こうという気は起きなかった。  下校を促すチャイム。いつもより早い気がした。時計を確認する。本当に、気がしただけだった。  三人で校門前まで歩く。駅へ向かう西ヶ崎は、俺が乗るバスとは逆方向行きのバス停を目指す。校門前のT字路で、道路を横断していく。 「また明日!」  道路を渡ってから、こちらへ元気よく手を振る。性格が、髪型に寄っているような印象を受けた。  彼女が歩き出したのを確認してから、俺は水戸に別れを告げようとした。首だけを残し、背を向けて歩き出す。が、水戸はこちらに着いてこようとした。  訝しがる視線に気づいたらしく、 「ごめん。コンビニ、寄っていかない?」  俯き加減で言った。バス停よりもちょっと歩いた先に、コンビニがある。俺は無言で頷いた。  コンビニを出た水戸は、買ったホットコーヒーを俺に差し出した。缶ではなく、店内のコーヒーメーカーで煎れたものだ。 「いいのか?」  「この前のお返し。結局、ストーブも買ってもらっちゃったし」 「じゃ、遠慮なく」  受け取る。カップ越しの熱が手を温める。水戸自身は、カフェラテを両手で包むように持っている。店の裏で、二人並んだ。微かに漏れてくる店の光に湯気が映し出される。どこか、幻想的でさえある光景だ。  水戸が何かを言い出す気配がないので、こちらから切り出すことにした。 「ストーブな。別に、買ったわけじゃないんだ」 「え?でも、賭では……」 「俺は、調達するって言ったんだ。買うとは言っていない」  微笑んでから、コーヒーを一口啜った。舌を焼くだけで、味なんて分からない。鼻腔だけは、幸せだった。 「そんな屁理屈……。でもさ、だったらどうしたの、あれ?」 「生徒会室で腐ってたんだよ。暖房設備が整う前までは使われていたんだが、エアコンが取り付けられてからはお荷物同然だったらしい」 「ああ、なるほど」  合点がいったという表情の後、水戸は顔を曇らせた。 「それで、役員さんに譲ってもらったんだ?」 「ああ」  お互い、宮部の名前は出さなかった。出す意味はない。出したところで、水戸が笑うわけではないのだ。 「どうして、あんなに反対してたのに、わざわざ?」 「予算を使わずに、部活が充実するなら、そうするのがベストだろう?会計として、当然の判断だ」 「なにも、無理矢理私の勝ちってことにしなくてもいいのに」  口だけで笑う。哀切な色を浮かべた眼が、そのままに俺を見据えている。 「まあ、俺なりの感謝の気持ちだな」 「感謝?」  袋小路。確かに俺はあの頃、その中にいた。それを、解決はできなくとも、活かす場所をくれたのは水戸だ。宮部への気持ちの告白を聞いてもらったことについても、並々ならぬ感情はあるが、それはさすがに伝えられない。 「そっか。じゃあ、その通りに受け取っておくね」 「助かる」  笑い合う。口もとだけで。それから、何度か飲み物を啜る音だけが時間を繋いだ。  ふと、 「順番」  水戸が呟いた。 「自分の方が先に出会ってたらな、って後悔しない?」 「どうかな」  運が悪い。そう思ったこともあった。だが今は、何も考えないようにしている。  はあ、と水戸は息を吐いた。 「私はね、いつも後悔する。同じクラスになってたら、とか、あの人よりも先に仲良くなってれば、とか」  俺を見据える眼。淡い光の中で、とろりと潤んでいる。 「そうか」  どうにも、応えられない。受け止める度量がない。そう思った。  たまらず、視線を手の中にあるカップに落とす。湯気の量が減っていた。  隣で、水戸が頷く気配があった。 「袋小路をさ、突破しようって気にはならないの?」 「それができないから、袋小路なんだろ」 「諦めるって手もあるよ。今まで進んできた道を全部忘れて、新しい道を歩くの」  所詮は行き止まりに直面しているだけなのだ。背後を塞ぐ障害物があるわけじゃない。子どもみたいに頑固に、壊せない壁を睨んでる。それだけなのだ。なのに、 「なるほど、な。今の俺には、向いてないよ」  また、頷く気配。鼻を啜る音。聞くだけで、胸の中が疼く。 「加賀谷君らしいね、その方が」  耳を、塞ぎたい気分だった。寒気で痛いほど痺れているのに、聴覚は憎らしいほど正常だ。 「でもいつか、突破できる日がくるのを待ってる。袋小路以外の、明るい何かが小説に感じられる日を」  彼女に視線を戻した。ぎこちない笑顔で、俺を見上げている。  俺はただ、頷き返すだけだった。 「ごめんね、引き留めちゃって。私、もう帰るから」  カップの中身を飲み干し、慌ただしく水戸は去って行った。その背中にかける言葉を見つけられず、ただ立ち尽くした。  片手で、カップを握りつぶす。溢れたコーヒーが、冷えた手を中途半端に灼いた。冷めていたのだ。やがて手もコーヒーも、ただの冷たい何かに変わった。
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