後輩

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後輩

 外は部室以上に気温が低く、部室棟と本校舎を繋ぐ連絡通路を歩くだけでも、尖った冷気が衣類を貫いてくるようだった。すでに日は落ち、しんとした闇に蛍光灯が頼りなく光っている。身を縮める水戸と共に昇降口から校舎を出て、校門まで並んで歩く。会話は特にない。俺は校門から右手に進んだ先にあるバス停に、近くに家がある水戸は左手に進むため、いつも校門で別れる形になる。  今日も、それじゃ、と挨拶をしかけたときに、目の前の道路を挟んだ向こうを歩く二人の姿を見つけて、声が出なくなってしまった。  足が止まる。息すらも、しばらく思いのままにはならなかった。  俺たちと同じ制服を着た一組の男女。見慣れた姿では、あった。 「どうしたの?」  不審がった水戸が聞いてきた。 「いや、別に」  笑ってみせたが、水戸は俺がさっきまで見ていた方向に注意を向けた。だが、それ以上何も言わず、それじゃあね、と手を振ってきた。笑顔だ。明かりのせいか、どこか影ある笑顔だった。 「じゃあな」  手を振り返し、水戸が自宅へ歩き出すのを確認してから、バス停の方へ身体を向ける。向かいの歩道に、もう二人の姿は確認できなかった。  二人とも、一年の頃から俺と同じクラスの生徒だ。男子の方は、谷岡亮。溌剌とした男だが、中学の頃に負った怪我のせいで運動部には入れなくなったらしい。中学では野球部で四番を打っていただけに、体格は並のものではない。その肉体の中で行き場もなく燻る情熱のようなものを、恋愛に注いでいるという印象だ。  その谷岡の彼女が、一緒に並んでいた女子、宮部由衣である。しっとりと濡れたような黒髪を肩甲骨のあたりまで伸ばしていて、その潤いは冬の乾燥の中でも失われることがない。成績も良いが、それ以上に気配りや責任感から周囲に信頼され、生徒会の役員を務めるほどである。  谷岡とは同じ中学で、三年の頃から付き合っていると、以前教えてくれた。生徒会の活動が午後六時まであるので、それまで谷岡は図書館で勉強をしながら待っているのだ、とも。  二人が並ぶ姿は、それこそ飽きるほど見てきた。それでも未だにその光景は、俺に心を握りつぶされるような息苦しさを与える。  舌打ちをする。  バス停には、すでに数人の生徒が並んでいた。腕時計を見る。あと五分程度。その間は、この容赦のない寒気を味わうことができる。  自戒じみている。  そう思いながら空を見上げた。暗幕を張ったような黒い闇に、針で穴を開けたような星が光っている。月はない。  翌日。  昼休みの後半に、俺は動いた。食事の邪魔をしては悪いし、食堂に行っていたら無駄足になる。それだけの理由だ。  さすがに水戸も西ヶ崎のクラスくらいは教えてくれた。二組。教室の近くで待ち構え、出てきた男子生徒を呼び止めた。 「なあ、西ヶ崎いるか?」 「え?さあ……」  教室を気にするように、後方を見遣った。見かけよりも気弱そうな印象だ。 「同じ部活でな。連絡があるんだ。加賀谷といえば分かるから、呼んできてくれないか?」 「は、はあ……」  怯えながら教室に戻っていく。それから少しして、また出てきた。 「西ヶ崎さん、忙しいみたいで。急用じゃなければ、あとでLINEしてくれってことでした」  テープレコーダーで再生するように、気持ちの乗っていない声だった。そのLINEを知らないのだ。そう言いたくなる気持ちを抑え、俺は線の細い男子生徒の脇をくぐり抜けた。 「教室には、いるんだな」 「あ、ちょっと!」  制しようとする彼を気にせず教室の扉に手をかけた。入ると、廊下とは異なる温い、むわっとした空気が肌を襲った。  室内には二十人くらいの生徒がいて、各々お喋りや食事に集中していたが、半分くらいが扉の開く音につられてこちらを見た。真ん中の列、後ろから二つ目の席。そこに座っていた西ヶ崎もその一人で、見事に俺と目が合った。前の席に座る女子と雑談をしていたらしいが、急に顔を強張らせた彼女を不思議に思ったらしく、その女子もこちらを向いた。ごめんね。ううん。その女子がまた西ヶ崎に向き直ると、そんな会話が交わされた。  どうでもいい。用があるのは西ヶ崎だ。儚げに見える、垂れ目気味の細い両目。明るいというより、淡いというかんじの黒髪。それが、記憶にある西ヶ崎の姿よりも短く切り揃えられていた。  気まずげな表情を浮かべ、口をもごもごとさせているうちに、彼女の席まで歩み寄る。見下ろす格好になった。 「なんか、久々だな」 「ご無沙汰、してます」  少し沈黙が流れた。何と言えばいいか分からなかった。部活動の都合で必要なことを聞くだけ。そう思って来てみたが、そんな気軽な雰囲気ではない。  室内には、こちらに興味を抱く生徒も少なくない。西ヶ崎と話をしていたらしい女子などは、怪しむ視線を隠そうともしない。 「文芸部の関係で、話があるんだが」  こちらも気まずいのだという気持ちを前面に出しながら、右手で廊下を示した。西ヶ崎も頷き、席を立った。周囲の目を気にしてか、恥ずかしそうに俯きながら、教室を出る俺の後を着いてきた。  この学校の校舎はコの字型になっていて、北側、字でいうと上の横棒に当たるのが図書室や職員室などがある北校舎で、南側、字では下の横棒に当たるのが一般の教室がある南校舎と呼ばれる。その二つの校舎を、各階一本の渡り廊下が繋いでいるのだ。  教室のすぐ前では目立つだろうと、渡り廊下の手前の角まで歩き、歩みを止めて振り返った。  西ヶ崎は俯くような姿勢で俺を見上げていた。背の低い女子だ、と入部当初から思っていた。だが、おどおどしたような態度を取るタイプではなかった。大きな声で笑い、ときには水戸や、三年の先輩と創作について語り合っていたくらいだ。  細い指先で、露わになった耳を触っている。記憶にある彼女の耳は、いつも長い髪で隠れていた。 「悪かったな、急に」 「い、いえ」  小さくかぶりを振った。 「すみません。部活……、その、行けなくて」 「いや、咎めに来たわけじゃないんだ。ただ、水戸、部長が寂しがっててな。たまには顔出してくれないかな、と思って。無理にとは言わないけど、もし差し支えなければ、休む理由だけでも教えてもらえないか」  むしろ、そちらが本命なのだが。  西ヶ崎はちょっと黙ってから、 「いえ、すみません。お話しするような、大した理由じゃないんです」  と頭を下げた。それから、不安げな目で見上げてくる。前髪は以前と変わらない長さで、俯瞰で見ると両目が前髪に隠れそうになる。 「そっか。ま、言いたくなければ構わない」  部費の大半がストーブに消えて、部室がまた狭くなる。それだけのことだ。嫌がる後輩から、無理矢理何かを聞き出す理由にはならない。 「悪い。折角の昼休みを、つまらないことで潰させた」 「そんな、私の方こそ、わざわざ来ていただいたのに」  また頭を下げる。短い髪が跳ねるように揺れた。 「いいって。何か知らないけど、解決したら、また部室に顔出してくれ」 「は、はい……。すみません」 「謝ることはないから」 「はい」  最後に小さく会釈をして、失礼します、と西ヶ崎はこちらに背を向けた。それが教室に消えたのを見送ってから、俺も自分の教室に戻ろうと歩きかけたとき、 「後輩いじめは楽しいー?」  笑い混じりの声が鼓膜を撫でるように揺らした。渡り廊下。柱の陰から、宮部由衣が顔を出していた。目が合うと、スラリとした身体を現して、こちらに近づいてきた。紺色のブレザーに、膝が隠れるか隠れないかという丈の長いスカート。地味な制服だからこそ、その肌の白さやスタイルの良さが際立って見える。  戸惑いながらも、動揺を悟られないよう顔に力を入れつつ、こちらからも近づいていく。 「聞いてたのか」 「ごめんね。私も、委員会の関係で西ヶ崎さんに用があって、終わるのを待ってたの」 「委員会?西ヶ崎、図書委員なのか」 「そ。それも、副委員長。私の右腕だよ」  嬉しげに宮部が右拳を掲げてみせた。宮部は生徒会とは別に、図書委員で委員長も務めている。本来ならば生徒会役員は他の委員会で役職に就かなくてよいのだが、人材不足とやらを理由に顧問の先生に頼まれ、引き受けてしまったらしい。 「そいつは、悪かった。もう俺の用は済んだから」  そういって西ヶ崎が戻っていった教室へ促したが、宮部は腕時計を確認した後、首を横に振った。細いベルトのアナログ。品はあるが、女子高生が付けるには大人びた腕時計だ。 「ううん。急ぎの用事じゃないから、あとでLINEすればいいや。それより、加賀谷?」  大きな黒目が、俺を見据えた。息が詰まる。心臓が、大きく跳ねた。 「何だよ?」  絞り出した声は、自分のものとは思えないほど細かった。  宮部は一目でそれと分かる、人工的な真面目顔になった。その奥に悪戯な笑顔を隠したそれは、お説教が始まる合図だった。 「あなたが、そういうのに鈍いのは知ってるけどね。それでも、後輩の女心くらい読み取ってあげなよ」   「どういうことだ」 「西ヶ崎さん、髪切ってたよね?」 「ああ。けっこう、ばっさりな」  はあ、と長いため息が聞こえた。 「気づいてたのなら、まずはそれを言葉にしなよ」  呆れ声。そのまましゃがみ込んでしまいそうなほど、力が抜けていきそうな声だ。 「俺が、言うべきだったのか?髪切ったな、とか」  うんざりした顔で頷く。 「あったりまえ、でしょ。あんだけ髪を気にする仕草見せられて、ノーコメントとかありえない!」 「いや。そういうことは、ただの部活の先輩がいうことじゃないだろ」 「そこは問題じゃない!」  はっきりと言い切られて、怯む。 「私、前から聞いてたんだ。髪のこと。美容室に行ったら慣れた人じゃなくて新人さんに担当されて、それで失敗されたって」 「本当かよ」 「嘘ついてどうするの」  う、と身を退く。いい加減なことをいうタイプではなかった。 「少し毛先を軽くしたかっただけなのに、全然バランスが整わなくて。あっちを切ったり、こっちを切ったりしてる内に、あんなことになっちゃったんだって」  自分の髪を切るジェスチャーを交えながら、気の毒そうに宮部が説明してくれた。 「じゃあ、西ヶ崎が部活に顔出さなかったのは、短くなった髪を見られるのが恥ずかしかったからか?俺や水戸に?」 「見られたくない、のは合ってると思うけど……」 「けど?」 「それは、ううん。なんでもない」  何かを言いかけ、宮部は首を横に振った。伏した目。歯切れの悪さに似合わない、楽しそうに歪んだ口元。 「何だよ?」 「ううん、いいの。それより、ちゃんと言ってあげなよ?優しい言葉なら、なんでも大丈夫だと思うから」 「あ、ああ。でも、気にすることないのにな。他人の髪の長さなんて、それほど誰も気にしないだろ」 「うーん、女の子にとって髪はそんなに軽いものじゃないんだけど、まあいいや」  やれやれ、という顔をしながら、宮部の視線が腕時計の方に動いた。 「そろそろ生徒会に行くね。ここ寒いし」 「ああ。生徒会室は暖房あるのか?」 「うん。本校舎の教室には、全部エアコンが付いてるよ。古い校舎だから最近までは空調設備なんて一切なかったんだけど、四年前に大規模改修があって、そのときに本校者の教室全てにエアコンを取り付けたんだって」  「へえ。さすが生徒会。詳しいな」 「それほどでも。それじゃ、またね」  宮部は身を翻し、渡り廊下を進み始めた。その背中が消えて、浅くなっていた呼吸がようやく正常に戻った。  さすがに、またすぐ西ヶ崎に会いに行くのは避けた方がいいだろう。とりあえず、自分の教室に戻ることにした。
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