夏の日のこと

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夏の日のこと

 部室のドアノブは氷のように冷えていて、その温度のなさは、掴んだ俺の手を拒んでいるように感じられた。  構わず扉を開ける。中には、相変わらず水戸だけが、向かって左側の机、真ん中の席に座っていた。そこが、部長になってからの水戸の定位置となっている。読んでいたハードカバーを閉じ、脇に置いた。 「よう」 「やあ」  水戸の正面から、右に一つずらした席に座った。窓際。薄い窓とコンクリの壁は、外の冷気を遮るには役者不足だ。 「西ヶ崎に会ったよ」 「へえ。それで、首尾は?」 「まだ本人の口からちゃんと聞いたわけじゃないが、だいたいの予想はついたよ。きっと、お前の望む結果にはならないだろうな」 「ええ?本当にい?」  疑念と絶望が混ざった声と顔。俺は軽く頷いた。残念だったな。  俺が頬杖をついて言うと、水戸は気の抜ける声と共に机に突っ伏したが、 「冷たっ」  机の温度に驚いて、また顔をあげた。吹き出した俺を、恨めしそうに睨む。俺は笑いながら、コートの左右のポケットから缶コーヒーとカフェオレを出して、机に並べて立てた。もちろんホットだ。 「どっちがいい?」  聞くと、くれるの、と目が輝いた。 「ストーブは買ってやれないから、これくらいは、と思ってな」 「ありがとう!」  飛びつくようにカフェオレを両手に掴む。 「はああ、温かい」  缶に頬ずりまでし始めた。弛緩した姿を横目に、俺はコーヒーのプルトップに指をかけた。  落ち着きを取り戻した水戸は、机に突っ伏したときに付いたらしい、額に張り付いた数条の前髪を直した。その仕草を見ながら、俺はふと、疑問を口にしたくなった。 「なあ、お前ならさ」 「うん?」 「美容院とかに行って、髪切るのに失敗したらさ、部員に会いたくないって思うか?」 「何それ」  水戸は小首を傾げ、肩にかかった髪をいじった。 「失敗って?アフロみたいにされちゃった、とか?」  両手を広げた。俺の頭の中に、実験に失敗して爆発に巻き込まれた科学者の絵面が浮かんだ。もしかしたら、水戸も同じものを思い浮かべているのかもしれない。 「いや、そんな派手じゃなくて。こう、短く切りすぎた、くらいの」 「ううん、そこかあ」  考えを巡らせるように、水戸の目が斜め上に動いた。そのとき、 コートの内ポケットの中でスマホが震えた。音は水戸にも聞こえたはずだ。取り出す。宮部からのLINE。画面に彼女のアイコンが表示されているのを見るだけで、喉が一瞬きつく狭まる。 「悪い」  一言断ってから、メッセージを見る。 「西ヶ崎さんのLINEです。ちゃんと本人の許可は取ったので、安心して。しっかりね」  簡単な絵文字が添えられている。  「西ヶ崎なえ」というアカウント。写真は、二匹の子犬を写したものだった。 「助かる。ありがとう」  返信してから、スマホをしまう。よし、と呟いた。 「どうしたの?」 「助っ人がさ、西ヶ崎のLINEを教えてくれたんだ。無論、本人からの許可は取ってある、らしい」 「へえ、助っ人?」 「宮部が西ヶ崎と知り合いでな。事情を聞かせてくれた」 「ふうん」  水戸の顔が曇る。もともと、寒さを呪うような仏頂面ではあったが。 「ああ、宮部ってのは生徒会の役員で――」 「知ってる」  温度のない声が、俺の言葉を遮った。短い、無機質な声だった。  それから、悲しげに水戸は笑った。そんな複雑な表情など、滅多に見せないやつなのに、だ。 「水戸?」 「知ってるよ、宮部由衣さん。昨日も帰るとき、校門の前で見てたよね?」  気づいていたのか。そう言いかけて、口を閉じた。顎を少し引くように小さく頷くだけで応える。  後ろめたいことなどない。そのはずなのに、罪悪感に似た妙な痺れが、胸の中を走っている。 「教室とか、廊下でも、そう。好きでしょ、宮部さんのこと?」  ぎょっとした。言葉の内容よりも、普段は柔和な態度ばかりの水戸が、抉るような視線をこちらに向けていることに、俺は驚いた。  その視線を受け止めることが出来ず、彼女の両手に包まれた缶に逃げた。 「何、言ってるんだ」 「分かるよ。そういうの。でも、ときめくとか、憧れるみたいな、明るい好意じゃないよね」  缶を包む小さな手に、力が込められていた。何かを覚悟したように、ぎゅっと。その手に込められた気持ちの正体を推測しようとして、やめた。無意味なことだ。答えを確かめることもきっと不可能だし、知ってしまうことで後悔する想いもある。ただ、その覚悟の強さだけが羨ましかった。  目を窓の外に向けた。薄い灰色の雲が、空を覆っている。どうしようもないくらい、冬の空だ。その灰色のヴェールの向こうには、今でも真っ青な空が広がっている。純真で、爽やかな青色。それは、いつしか捨て去った感情に似ている。そんな気がした。  仕方がない。胸の内で呟いた。 「好き、だった。もう諦めがついてる」  言葉が、白い息となった後、静かに消えた。 「谷岡君の彼女だから?」  目を伏せ、首を振る。水戸の口調には、傷口に触れるときのような慎重さが感じられた。恐る恐る、という感じだ。そんな彼女を安心させたくて、俺は努めて柔らかく笑った。  その傷は触れても痛まない。血は止まり、化膿もしていない。ただ、傷跡として残っているだけなのだ。そう言ってやりたかった。 「そこまで、俺も物わかりがいいわけじゃない。谷岡なんて関係ない。振り向かせてやる、なんて思ってた時期もあったよ」 「なら、どうして諦めたの?」 「……夏だったかな。去年の。谷岡から、校舎裏に呼び出されたんだ。俺が宮部を好いてるの、気づいてたんだ」 「それで?」 「ちょっかい出すなとか、釘を刺されるんじゃないかって、内心怖かった。殴られたりしても、おかしくないって。だけど、違ったよ」  夏休み直前。放課後。そわそわした雰囲気が学校全体に漂う中、俺は足を震わせながら校舎裏に行った。  怒りで顔を真っ赤にした谷岡を想像していたが、待っていた彼は、力のない微笑を浮かべていた。  打ち明けられたのは、宮部由衣の優しさが持つ、残酷ともいえる一面だった。 「由衣はさ、同情だけが理由で、俺と付き合ってるんだ」  泣きそうな声で、谷岡はそう言った。  谷岡は怪我のせいで、それまで打ち込んでいた野球を諦めざるをえなかった。それからすぐに、ずっと好きだった宮部に告白をしたのだという。宮部は野球部のマネージャーをしていて、部活を辞めることで彼女との接点が失われることが怖かったと、谷岡は恥ずかしそうに語った。  宮部は告白を受け入れた。 「けど、最近気づいたんだ。由衣はただ、野球が出来なくなった俺を哀れんだだけだって。俺がさらに傷つくことだけは避けようと、ただそれだけで俺と付き合ってくれてるんだ」  悲痛。そう思わせた声が、今でも耳に残っている。 「本人がそう言ったわけじゃないんだろう?」 「分かるんだよ、付き合ってれば。気持ちが自分に向いてないってことくらい。それなのに、俺のために、由衣は別れずにいてくれてる」 「傷つけたくない。それは、立派な好意だと思うけどな」 「違う。あいつは、優しすぎるんだ。好きでもない相手だとしても、傷つけるのを極端に嫌がるんだよ」  いつしか谷岡は涙声になっていた。話を聞きながら、俺はただ苛立っていた。好きな女について、分かりきったように語られること。しかもそれが、あながち間違っていないように感じる自分がいること。  なあ。  鼻を啜る音。息を深く吸う音。それから、 「由衣のことが好きなら、気持ちを伝えてやって欲しい」  真っ直ぐに俺を見据えて、谷岡は言った。 「何だと?」  腹の奥底で、熱が生まれた。 「由衣、好きだよ、お前のこと。だから、お前が告れば、きっとあいつはお前を選ぶ。優しさだけの関係から、由衣を解放してやってくれ。頼むよ!」 「ふざけるなよ」  谷岡の胸ぐらを掴み、壁に押しつけた。ぐう、と息の詰まる声が聞こえた。 「そんなに今の関係が嫌なら、てめえから別れりゃいいじゃねえか!宮部に選ばせるなんて、一番残酷だぜ」  手に力が入る。俺より二回りは体格の良い谷岡が、無抵抗で俺を見つめていた。弱々しく、情けない目だった。  こいつは、願わくば宮部と付き合い続けていたいのだ。それでも宮部には好きな男と付き合って欲しい。だから、俺にこんなことを頼んできた。無責任、としか思わなかった。  手を放す。咳き込む谷岡に、唾を吐き捨てたい衝動を唇を噛むことで抑えた。 「あいつの気持ちが、誰に向いてるかなんて知らねえよ。けどよ、好きだと思ってるんなら、一緒にいたいなら、気持ちを自分に向けさせる努力をするのが一番じゃねえのか?嫌な役を人に押しつけようなんて、黙ってても愛想尽かされるぞ」  それだけ言って、背を向けた。  谷岡の気持ちがどう変わったかは知らないが、あれから今まで、俺と宮部を付き合わせるような言動はない。  そんな事があったんだよ。  話し終えた俺は、冷めたコーヒーで唇を湿らせた。  水戸はただ、黙って聞いているだけだった。俺が何となく頷くと、彼女も小さく頷き、もう温もりを失ったであろうカフェオレの缶に視線を落としながら口を開いた。そっか。 「意外と、熱い経緯があったんだね」 「ジメジメしたもんだよ。俺だって、嫌な役目から逃れたかっただけだしな」  もしも谷岡の頼み通りに俺が宮部に告白したとしたら、誰を好きだとしても、彼女はどちらか一人を傷つけることになる。優しい宮部にとって、その決断は彼女自身を傷つける要因にすらなりかねない。 「俺は現状維持を望んだだけだ。誰も傷つかない、もしくは、最小限の傷で済むように」 「その割には、辛そうな顔するよ?宮部さんを見てるときの加賀谷君」  痛々しいものを見る眼。悲哀と同情が、水晶のような瞳に滲んでいる。  俺だって、宮部に対する想いを捨て切れたわけではない。それでも下した俺の決断は、今日までの自分の心を後悔や谷岡への嫉妬でズタズタにしてくれた。失うのではなく、手放した恋。それは未練の糸となって、キリキリと首を絞めてきた。  だとしても、 「これでいいよ、俺は。宮部は忙しそうだけど、いつも心から笑ってる。谷岡はきっと、彼女の心を掴むために懸命に努力してる。何も問題のない現状だ」 「優しいねえ、加賀谷君は……」  鼻声。慈愛に満ちた微笑みで、水戸は言った。きっと、違った言葉で俺を責め立てたいはずだ。間違ってる。そう罵りたいはずだ。 「どっちがだよ」  俺の言葉には応えず、 「ごめんね。嫌なこと話させちゃった。ちょっと確認したかっただけなのに。いつも、気になってたから」  申し訳なさそうに頭を下げた。 「いいって、別に」  笑いかける。  この話を終わらせよう。寒さを一人で耐えるより、温もりに包まれる方が辛かったりする。自分の中に溜まった膿を取ってもらおうなんて、虫の良いことを考えてしまったりするのだ。  俺はコーヒーを飲み干して、缶を手に立ち上がった。その手を胸元まで上げ、捨ててくる、と合図する。水戸は悲しげに笑って頷き、両手をまた、カーディガンの袖に隠した。  ドアノブに手をかけたとき、 「そういえば、質問に答えてなかったね」  上ずった声が背中にぶつけられた。手が止まる。 「質問、て?」  彼女の方を見ずに、聞き返した。 「短くなった髪を、見られたくないかどうか」 「ああ」 「私はね、恥ずかしいとは思わないかな。いや、ちょっとは思うけど、顔を見せるのが嫌ってほどじゃない。でも、加賀谷君に見られるのは遠慮したいなあ」 「別に、馬鹿にしたりしねえよ」  あはは、と笑い声が聞こえた。 「私と宮部さんとの共通点なんて、長い髪くらいだからさ……」  ドアノブを回す。自分の耳を、心を引きちぎってしまいたかった。 「優しいよ、お前は。あいつに負けてない」  それだけ扉に向かって言って、部室を出た。どんな言葉をかけるのが正解なのか、分からなかったし、正解を選ぶ気も起きなかった。  空き缶などのゴミ箱は自販機の横にしか設置されていない。そしてその自販機は、南校舎の一階、昇降口の近くにある。風がないだけで外気と温度は変わらない。缶を持つ手は、すでに冷え切っていた。  缶を捨てると、躊躇いを覚えつつも足を部室の方へ向ける。 「あれ、加賀谷」  声。締め付けられる感覚。それでも、声のした方を振り返る。 「偶然って重なるもんだねー」  ひらひらと右手を振りながら、満面の笑みを浮かべる宮部が自販機の前に立っていた。静かな左手で財布を持っている。生徒会の休憩がてら、飲み物を買いに来たというところだろうか。 「ありがとな、LINE」 「ううん。しっかりやるんだよ?」 「おお」  俺が頷くのを見て、よし、と満足げに笑うと、自販機に硬貨を入れた。一本買ったかと思うと、さらに二本連続してボタンを押す。  缶同士がぶつかる重量感のある音が聞こえた。 「他の人の分もか?」 「そー。生徒会のね。会長が五百円くれて、自分のも買っていいって。得しちゃった」  宮部は笑い、しゃがんで三本の缶飲料を取り出す。あつ、と声を漏らしながら、どうにか制服越しに缶を抱えた。立ち上がり、じゃ、と口角を上げた。それでも、俺の反応を見るまでは背を向けようとしない。  そのまま別れてしまいたかったが、一つ脳裏に浮かんだことがあり、そういえばさ、と彼女を繋ぎ止めてしまう。 「うん?」  迷惑そうな素振りを一切見せずに、俺の言葉を待つ。今まで暖房の効いた生徒会室にいたのだろう。白い肌に赤みが差している。輝くような大きな目を受け止めきれず、薄いガラス窓越しの空に視線を逃がした。 「その、頼んでばかりで申し訳ないんだが……」  空は濁った灰色のままだった。いっそ、雪でも降ってくれれば、何か変わるのだろうか。  言葉を詰まらせながら、そんなことを頭の端で考えた。
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