かなた「天動説」

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後にイオン・ラピュラスと呼ばれる青年が幼かった頃。 彼について知らない者がいるのなら説明を簡単に加えよう。 彼は「わたし」として発生し、「ぼく」として育ち、「僕」として歩み、「私」として辿り着いた。これが彼の一生である。 これは「ぼく」と「僕」の境の話。 まだ、空にあがることも大地を吹き抜けることもなく。ただの一人の子どもであった頃の話。 身体年齢、おそらく十才と少し。 「記録の森」と呼ばれる森に一人の少年がいた。 森の主であるエルフの加護が充分に行き届いた、ゆったりと時間が流れる森である。 どんな種族も受け入れる深い、深い森だ。 古い魔法と最新鋭の科学技術を取り込んだ文化は、森に住む民の向上心の現れだともいえる。 村から遠く離れた場所に高い塔が建っている。 森の外からでも確認できるほどの高さを持つその白い塔は、この森が生まれる以前からあったものである。 塔のすぐ近くまで行かなければ分からないのだが、その中からカチカチと音がする。 等間隔で鳴るその音は機械の音。この塔は時計塔なのである。 その塔の中を走る小さな影があった。 肩までの青みがかかった黒髪を首の後ろでひとつに縛り、それと同じ色彩の目を暗闇の中で光らせている。 塔の中は、外からでは想像できないほど長く複雑に階段が連なっていた。 誰が施したか定かではないが、相当の職人が強力な魔法をかけ塔の内部を巨大な迷路に仕立てあげたのである。 先へ 上へ もっと、もっと 速く、高くへ 空間を操作するだけでなく、この塔にはもうひとつ魔法がかけられていた。 塔へ入った者への妨害である。 ひとつの階段を上りきったところで、角から黒い影が飛び出してきた。四つ足の獣の形である。影は少年に向かって勢いよく突進してきた。少年は右に避けたが、獣が頭をそちらへ向けたため額に生えた長い角の餌食となった。突き刺されはしなかったものの、少年は大きく振られた角に体を横叩きにされた。そのまま声をあげることなく、ついさっき上ってきた階段へと逆戻りにされる。そのまま遥か下へ落ちていくかと思われたその時、壁の一部が輝き少年の真下へ円形の模様が形作られた。 体が床へ叩きつけられると思われた時、少年はその模様の中へ吸い込まれていった。 次に目を開けば塔の入り口である。 このように塔の内部は安全面においても保証されているのである。 この時計塔は様々な種類の戦闘訓練が行える、いわゆる「腕試し」の場所として森の内外から利用者が後を絶たない訓練スポットなのである。そして、今まさに脱落した少年こそがかなた。後のイオン・ラピュラスである。 青年となった後は比較的穏やかではあるが、この時はいくつもの事件が重なり荒れていた。 世界の全てが自分の敵であり、味方などどこにもいないと言うかのようにいつも周囲を睨み付けていた。 「あの」イオン・ラピュラスからは考えられないような過去ではあるが、確かにその様な時間が彼にも存在したのだ。 そのかなたではあるが、当時は完全に孤立無援。戦闘の仕方も魔力の使い方も全くの初心者。 訂正しよう。初心者以前の話であった。そもそもであるが、この少年。武器は所持していない。素手である。魔法は使えない。文字通りの「腕」試しである。 後にこの話を聞いた者は皆こう言う。 『バカでしょ。死にたいの?あ、ごめん。死にたがりだったね(笑)』 その通りであった。 少年は自覚こそなかったが「死にたがり」であったのだ。 少年の時間は止まっていた。 風は吹かず、水は流れず、生き物はただの物体としか見ることはできなかった。 空を見上げることもせず、足下に咲く花や草に意識を向けることもしなかった。 それらは全て、目の前で唯一の「世界の全て」だと思っていたものを奪われたからである。ならば、何故この様な腕試しをするに至ったのか。簡単だ。他の者に言われたからというだけである。 この塔ならばある程度安全も保証されている。しかも、最終地点である頂上まで到達する者はほとんどいないという難しさ。 「行け」と言った者たちは頂上制覇を期待してこの様なことを言ったのではない。 この少年の性質は元々「風」であった。変化し、変化をもたらす風。しかし、この時少年は止まってしまっていた。 風は止まればおちて死ぬ。 少年をよく見ていたあるエルフはそれを危惧し、塔への挑戦を勧めたのだ。 そう。周りはただ勧めただけであった。 そうしたら少年はどうしたか。 ひたすら塔を上り始めたのだ。 今回のように妨害システムに倒されれば一階からやり直し。休むこともしないので、寝落ちしている間に一階からやり直し。 何度も何度も何度も何度も。 同じことを繰り返した。 やり直す度に動きは良くなり、到達する階も次第に頂上へ近づいていた。 事は言いようによってなのだが、つまりは力業で少年は突破していただけである。戦略の戦の字の第一画すら知らないような者が通常突破できる塔ではないとだけ言っておこう。 さて、ここで重要なのが少年に起こった変化についてである。 変化はなかった。 頂上に着くその時までは。 失礼。暫し休憩を挟もう。
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