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僕の大切な土曜日
今日も聴いているのは彼女の歌声。通勤時間・昼休み・寝る前、常に彼女の歌声を聴いている。彼女の歌声は素晴らしい。でも、彼女のことを知っている人はきっと少ないだろう。彼女は路上ライブで活動して自分で焼いたCDを販売している、いわゆるアーティストの卵だ。彼女みたいな活動をしている人は、数えきれないほどいるだろう。僕は彼女のように夢を追いかけている様な人間の類は、はっきり言って嫌いだった。いい歳して夢を追いかけるなんて、現実主義の僕には到底理解できなかったからだ。でも彼女の歌声を偶然街で聴いたあの日、僕は雷に打たれたかのごとく、体中に衝撃が走った。彼女の歌声は、僕の心、いや魂を震わせた。こんな経験は生まれて初めてだった。僕は思わず立ち止まった。すると彼女は歌いながら微笑んだ。立ち止まっているのは僕だけだった。僕は彼女の歌を最後まで夢中で聴いていた。
「聴いて頂いてありがとうございました。」
「い、いえ。」
「ここで毎週土曜日に歌うことにしたので、良ければまた来てください。」
「そうなんだね。また来るよ。」
そう言って微笑むと、彼女は機材の片付けを始めたので、僕は帰ることにした。僕は帰り道も帰ってからも眠りにつく前も彼女のことが頭から離れなかった。来週の土曜日にまた彼女の歌声が聴ける。そう思うとなかなか眠りにつけなかった。
それから毎週土曜日、僕は仕事で疲れているはずなのに、街を早足で歩き、彼女のもとへ一直線に向かうようになった。通うごとに立ち止まる人数は多くなり、ちょっとした街の人気者になっていく彼女の歌声を僕だけのものにしたくなった。一か月程通い詰めた僕は勇気を出してライブの後に話しかけた。
「あのー、CD欲しいんですけど。」
「あ、あなたは一番初めに立ち止まってくださった…」
「覚えててくれたんだね。」
「もちろんです!街で歌い始めた私の歌を聴いてくれた初めての方ですからね。」
「最近、人気出て来たね。」
「人気だなんてそんな、CDが欲しいと言ってくださったのも、あなたが初めてです。」
「え?そうなの?」
「嘘はつきませんよ。」
コツン、彼女に肩を叩かれた。そうか、僕が彼女のファン第一号ってわけか。僕が発掘したようなもんだな。そう思うと少し顔の筋肉が緩みそうになったので、僕は話を続けた。
「で、CDはいくら?」
「オリジナル曲が六曲入って千円になります。」
「千円?じゃあ二枚買うよ。」
「いいんですか?」
「うん、応援してるからさ。」
「本当にありがとうございます!」
彼女はCDを僕に渡して、僕は二千円を支払った。彼女は深く深くお辞儀をして、僕が帰るまで頭を上げることはなかった。歌声が素晴らしいだけでなく、人間性も素晴らしいなと感じた。家に帰ると僕は彼女から買ったCDをパソコンで読み取って、すぐにスマホに曲を移した。スマホにイヤホンを付けて彼女の歌声を聴いてみる。すると、何とも言えない幸福感に満ち溢れた。彼女が僕のためだけに歌ってくれているような気がした。
僕が夢追い人を嫌いになった理由は母にある。僕の母親は、彼女と同じく歌手を目指す、アーティストの卵だったのだ。しかし、母は僕をお腹に宿してしまった。母は、女の子を強く希望していた。自分の夢を女の子に託したかったらしい。しかし、産まれてきたのはこの僕。一応僕の物心がつくまで面倒を見てくれたが、父が朝起きたある日、母はいつの間にかまとめた荷物とともに行方知れずになった。母親がどうしようもない人なら、父親もどうしようもない人で、僕は孤児院に入れられた。面倒を見るのが嫌だったかららしい。そんなこんなで僕は、僕より夢を追った母を恨み、僕を捨てた父を恨み、孤児院から出て、孤児だからと言われないために真面目に頑張って働いてきたのだ。疲れを癒すものなんて何もなかった。しかし僕は、恨んでいた母と同じ道を歩んでいる彼女の歌声に癒されるようになっていた。人は変わるものなんだな。と思った。
それから一年程ぼくは毎週彼女のもとへ足を運んだ。ライブが終わった後に他愛ない話をして笑い合ったりする関係になっていた。ある日、彼女は真面目な話をしてもいいか、と僕に聞いてきた。僕はなんだろう、と思いながらも頷いた。
「実は、母があなたに会いたがっているんです。」
「僕たち、恋人でもないのにどうして?」
「私、母と同居していてよくあなたの話をするんです。私の事を一番に応援してくれている人がいるって。」
「なんだか恥ずかしいな…」
「そしたら、昨日あなたに一度会ってお礼が言いたいって言い始めて、それは迷惑だよって言ってるのに、どうしても聞かなくて。迷惑ですよね、すみません。」
「迷惑ではないけど…」
「本当ですか?やったあ!母は昔から頑固で一度決めたら人の意見なんて聞かないんですよ。助かりました。では、明日の夕方ここで待ち合わせてカフェでも行きましょう。」
「色々急だけど、分かったよ。また明日ね。」
決して僕は彼女に恋心を抱いているわけではなかった。彼女の歌声がただ好きで、彼女の歌声に浸りたいだけだった。僕だけに歌って欲しいといった独占欲みたいな感情はあったが、でもそれを表に出すことはなく、妹のように可愛がって応援していた。そう、まさに妹のような存在だった。
次の日の夕方、日曜日なのに僕はいつもの場所に向かっていた。彼女の姿が見えた。大きく手を振っている。その横には、小柄で少し歳を取った女性が並んで立っているように見えた。僕は恋人の母親に挨拶をするわけでもないのに、なぜか実際目の当たりにすると緊張してしまって、目線を合わせず軽くお辞儀をして、カフェに向かうことになった。カフェでも僕は彼女の母親を直視できずにいた。全員コーヒーを注文した後、いよいよ彼女の母親が口を開いた。
「娘から話は聞いているかと思いますが、娘を応援してくださって本当にありがとうございます。」
「いえ、彼女の歌声は本当に素晴らしいですから。」
「実は私も昔アーティストを目指していて、この子に夢を託しているので、その娘を応援してくださって本当に嬉しいんです。」
「そうだったんですか。」
僕の嫌いな母親そっくりだな。そう思って初めて彼女の母親の顔を直視した。どこかで見たことがある顔だと思ったが、思い出せなかった。彼女の母親の話は続いた。
「この子が産まれた時、本当に嬉しかったんです。恥ずかしながら、昔の私は恋愛体質だったようで、アーティストを目指しているくせに、子供を作ってしまいました。女の子なら子供に夢を託そうと決めていたので、娘が産まれた時は本当に嬉しくて…」
「お母さん、もうそのぐらいでいいよ。」
「そうね。」
彼女の母親はやっと自分の昔話をやめた。と、同時に僕は見覚えのある顔をはっきりと思い出した。間違いない。彼女は、僕の嫌いな、僕を捨てた母親だった。今度は僕が話を切り出した。
「お子さんは、娘さん一人なんですか?」
「えっ?」
「いえ、なんとなく聞いてみただけです。」
「恥ずかしいお話なのですが、実は昔男の子を授かりました。けれど、私は女の子が欲しかったので、旦那と息子を置いて逃げたんです。」
「お母さん、その話重いから…」
「ええ、分かってる。でもなぜだか彼には話しておきたくて。今となっては息子に申し訳ないことをしたと後悔しています。元気でやってくれているといいのですけれど。」
「きっと、元気にやっていますよ。」
僕は微笑んだ。
「これからも娘の応援をしてやってください。」
「もちろんですよ。」
応援するに決まってるじゃないか。妹みたいな存在ではなく、本当の妹だったんだから。そう続けたかったが、僕はグッとその言葉を飲み込んだ。来週の土曜日も、その次の土曜日も、僕は必ず彼女のもとへ向かうだろう。お兄ちゃん、応援してるからな。
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