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 見上げる薄青い空はいつの間にかとても高くなり、ちぎれちぎれに飛んでいく小さな雲はふっとした瞬間に消えてしまう。  あの出来事から数日が過ぎ、いつも通りに見える日が流れていた。クラスメートはみんな賢い。ちゃんと物事が大げさになりすぎないタイミングを見極めて、穏やかに見える空気を作り出すことに成功した。わたしと西田さんは緩やかな形で白石さんのグループに迎えられ、休み時間やお昼を一緒に過ごしたりして流れていく時間を器用にころしていった。西田さんはなにも変わった様子を見せずに笑い、話し、あれはなんでもないことだったのだとわたしですら錯覚しそうになるくらいうまく振舞っていた。  いや、実際わたしは錯覚しきっていたのだ。あのちょっとした気まずい時間は過去として流されたのだと。  あの秋の午後が来るまでは。 「今日の日直は……、宮野さんね。悪いんだけど、ちょっと手伝いをお願いしてもいい?」  担任から頼まれたのは、文化祭で各クラスが提出した自由研究の返却だった。校長先生からの表彰状と記念品付き。 「理科室に記念品と表彰状を置いておくから各クラスの代表者が来たら渡してくれる?」  急な父兄対応が入ってしまったと詫びる担任のうしろすがたを見送ってから理科室にむかった。自由研究。その言葉を聞いただけで、彩りを与えてくれたあの日々が胸によみがえってきた。まぶしかった夏の光を記憶の中からとりだして、秋の日差しの差し込む廊下を歩きながらわたしは考えていた。きっとあの時間も、今こうしてその時のことを考えているわたしもいつか気づかないうちに記憶からこぼれ落ちてしまうのだろうなって。  いつか忘れてしまう美しい記憶の欠片。  そうなってくれればどんなに良かっただろう。   「どーもぉ。へぇー、なにこれ」 「あ、中に文字が彫られてる」  最後の賞状と記念品を渡し終わった。女の先輩たちは、景品を興味深げに手のひらで転がしたあと、日差しを透かすように頭の上に掲げて顔を寄せ合って覗き込んだ。ガラスでできたドーム型の小さな置物は光を反射させ、彼女たちの顔に夢を見るような光を舞い散らした。声をあげて笑いあう2人を見て、わたしもあの向こうに見えるものをのぞいてみたいと思った。  先生から預かった賞状と景品はまだ一組残っていた。わたしたちの班の分だった。小さな置物を手にとって、4人で一緒に覗き込むことを想像した。「オォ、すげぇ!」「きれい」「すごいやぁ」そんな風に口々に感嘆するみんなの声が耳の奥で響く。あの夏の記憶があれば、そんな時間を取り戻せる気がした。その小さな置物をキュッと握りしめたとき、何かを宣告するような重たい音を立てて扉が開いた。 「良かった」  少し息を弾ませて扉から顔をのぞかせたのは雪村くんだった。 「さつきちゃん。まだいた」  久しぶりに自分に向けられた彼の笑顔に頬が赤らむのがわかった。握りしめていた置物を解放し、祈りをこめるように優しくそっと机の上に戻した。   わざわざ来てくれた。そう思うと自然と顔がほころんでいた。他には誰もいない理科室。彼はわたしだけを見て微笑んでくれている。夢の中でだって想像したことのないシチュエーションだった。 「わたしが持っていくから良かったのに。これ。賞状と景品」  赤い顔がこれ以上赤くならないよううつむいてそう言いながら、ぶっきらぼうな言い方だったか、来てほしくなかったと聞こえてしまうか、と反省の嵐が頭の中で吹き荒れる。彼は何も言わずにわたしの方に歩いてくると微笑んだ。 「いや、僕がさつきちゃんと話したかったから」  先輩たちが覗き込んでいたガラスの向こうの世界が見えた気がした。柔らかな秋の日差しは何倍にも輝き、影なんてどこにもない。 「これ? 景品って? ふーん。あ、中にクラス名と文化祭の日付が入ってるんだぁ」  雪村くんは柔和な笑顔を崩さずに置物を手のひらの上で転がす。影なんてどこにもない。はずだった。 「僕、さつきちゃんにずっと言いたいことがあったんだ」  雪村くんはガラスの置物を手でもてあそび続けながら囁くように話し出す。柔らかな言葉の響きに誘われて顔を上げると、反射した光が雪村くんの白い頬を照らし、淡いピンクや緑の光が彼の顔を覆うように広がっていく。 「さつきちゃんさ、絵里ちゃんがさつきちゃんのこと利用したと思ってるんじゃないかなって心配だった」  夏休み直前の西田さんとの付き合いの始まりを思い出す。 「そう思われても仕方ないとは思うけど。もう舞ちゃんたちとは仲良くできないと思っていたみたいで、僕がさ、すすめた。さつきちゃんなら信用できるんじゃないって」  いつも面白そうな本を読んでいて、色んなことを知ってるんだろうなぁと思ったんだ、と雪村くんは懐かしそうに目を細めた。胸が高鳴った。雪村くんがわたしと仲良くなりたいと思っていたってこと、だよね。だよね。だよね。誰にだかわからない問いかけを繰り返しながら、平静を装うために深呼吸した。  ねぇ、さつき。  今の私はあの日のわたしにこう言いたい。  彼の言葉をよく聞いて。全部、過去形だよ。 「それに、さつきちゃんは絵里ちゃんを守ってくれた。舞ちゃんにお昼誘われたのを断って、絵里ちゃんと一緒にいてくれた。僕、その話を絵里ちゃんから聞いて、すごいと思った。舞ちゃんに逆らうのが難しいのは、傍から見ていて知っていたし。だから、家でもすごいさつきちゃんの話を勝手にしちゃった」  お父さんの言ったことは間違っていなかった。ずっと胸の奥で引っかかっていた羞恥の塊がゆっくりととけて行った。雪村くんはわたしのことを「かわいそうな子」としてみていたわけじゃなかった。喜び、恥じらい、ときめき。多くの輝かしい感情が胸の奥から押し寄せてきて、どんな顔をしていいのかわからなかった。雪村くんの言葉に何か返事をせねばと思って、「そんなことない」とか謙遜する風なことを口にした気がする。  静寂。  あまりの音のなさに顔を上げたんだ。雪村くんはじっとわたしを見つめていた。いや。黒いきれいな瞳はわたしに向けられているようには見えたけれど、本当はどこを見ているのかわからないくらいうつろだった。手のひらの上で転がすようにしていたガラスの置物は拳の中にぎゅっと握られてしまっている。そんなに握ったら一ミリの光だって届かないよ。  雪村くんがわたしの視線をつかむように目を大きく開く。奥から怖いような光が現れた。彼はゆっくりと息を吸い、その柔らかそうな喉仏をクッと動かして聞いたことがないくらい低い声を吐き出した。 「さつきちゃんはさ、この世で一番残酷だよ」  耳がうまくその言葉を捉えられなかった。そのたった5秒前までのわたしはそんな言葉があることすら忘れ去っていた。 「え?」  馬鹿みたいに問いかけたわたしに雪村くんは優しく言い直してくれた。 「この世で一番残酷で、卑怯だよ」  そう言いながら手のひらをゆっくりとひらき、握っていた記念品をもう片方の指先でつまんで頭上に掲げた。白くてきれいな指先が微かに震えている。窓からの秋の日差しを反射させ、雪村くんの髪も顔も輝かせ、こぼれ落ちた光はわたしの頬まで届いた。 「こんなの。粉々に砕いて海にでも捨てちゃってよ」  吐き捨てるような雪村くんの言葉とともに床に叩きつけられたガラスが砕け散る音は不思議なくらい覚えていない。  次に残っている記憶は、私以外誰もいない理科室で、床に散った輝くものを見つめていたことだけだ。どうしようもなく砕け散ってもうもう元に戻すことは難しかった。  わたしは西田さんの純粋さを信じようとせず、それを踏みつけて叩き割ったのだということにその時初めて気づいた……。  ふりをした。  本当はとっくに気付いていたのにね。  あの頃、みんな苦しい道を自分で切り開こうとしていた。雪村くんも西田さんも金山くんも、白石さんですら。どれだけ同じ場所で同じ時間を過ごし、言葉を交わし合い笑いあっても、どこかに自分という存在が追いやられていくような気がしていた。どうにか自分を確立したいのに、その羽の広げ方がわからずもがき、飛び立つために誰かを蹴落とすこともあった。一瞬一瞬の、かがやきや、ときめきや、絶望を胸に重ねて生きていた。  だけど、私は自分で自分を認識することを諦めていた。誰かと対等だと考えたこともなかった。夏の始まりのあの日、私は西田さんに腕を組まれながら、彼女の友達としてふさわしい人間じゃない私のことを、ひややかに見ていた。誰も何も言わないのに、私だけが自分を見下していた。  誰かの目に映る自分だけを意識して、クラスの雰囲気に敏感になっていた私だから、自分に対する劣等感をいつの間にか西田さんへの優越感へすり替えた。羽化する努力をせず、そして、一生懸命に羽を広げようとしていたあの子を、笑いながら突き飛ばした。 「一緒に見ようね」彼女がそうはしゃいでいたドラマの最終回の日。わたしはずっと待っていた。連絡があるんじゃないかと思って。笑顔、夕焼け、光る黒髪、わたしを呼ぶ声。自分から連絡をするという考えは、この世で一番バカで無駄な自尊心の塊だったわたしには思いもつかなかった。  あの遠い夏の終わりの日。彼女が澄んだ声で口ずさんでいた冬のラブソング。今思えばあれは友情を歌っていた。真っ白な雪の中にたった1人ぼっちでいても孤独じゃないと思えるような優しく綺麗な歌。 わたしが口ずさむことは許されない。  ゲレンデに流れる曲はノリの良いアイドルグループのものに変わっていた。  大きく息を吸って吐く。キュッと冷えた空気が肺を刺し、体の熱を奪っていく。その冷ややかさが気持ちよくてようやく前を向く。リフトはすでに白く包まれた山頂を目前にしていて、うっすらとした世界が目の前に広がりだした。影のような人影が私に向かって手をふっている。  私も同じようにぼんやりとした影なのだろう。人と向き合って生きてきた人はもっとちゃんとした形をしているのではないだろうか。  とけてしまった記憶は私を戒めるようにきっとこれからも何度だって現れるのだろう。そのことで凍えてしまうほど私の心はもうやわじゃない。だけど、遅すぎるほどの時間が経ってから気づいた胸の内側は、ようやくじくじくと痛み出した。その痛みを抱えながら、私は前を向いて先に進む準備をはじめる。空を見上げる。晴れ間とは程遠いけれど、それでも明るさはまだどこかに残ってる。私に向かって手を振る人の姿が、少しだけ明瞭になった気がした。
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