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 人生最悪だと思った瞬間は中学生になって初めての授業が始まった日のお昼休み。  にこやかな笑顔の担任は、わたしのそばにいた2人の女子、谷口さんと里中さんを手招いた。 「谷口さんと里中さん、宮野さんとお昼一緒にしてあげてね?」  そうして勝手にわたしの机を動かして満足そうにうなずいた。何が起きたのかわからなくて呆然としたままのわたしをクラスメートたちが眺めている。みんな一様に同じ表情を口元に浮かべていた。  あぁ、そうか。  教室を見回しながら初めて気がついた。中学入学から2週間。わたしは友人作りに大きく蹴躓いたのだということに。  入学式の当日から競い合うように友人関係が築かれていくのは知っていたけれど、そのうちどこかの扉を叩けば入れてもらえるものだと思っていた。ところがあれよあれよという間に扉はぴしゃりと閉じられてしまい、 「一緒にお昼してあげてね」  担任の言葉で最後のラベルをペタリと貼られたその瞬間、哀れすぎる子羊にわたしは姿を変え、教室は安堵を含んだ薄い笑いで満たされた。あぁ、良かった、わたしより下がいる。みんながそう思ったのが手に取るようにわかった。  いじめられっ子。  わたしはそんな分かりやすい位置に置かれたわけでもない。  クラスメートは律儀で優しい。さすが中学受験の高倍率を勝ち抜いてきただけのことはある。無駄なことはしない。なにも持っていないものをふみつけてもメリットがないということをよくわかっている。あのクラスで過ごした時期、軽いいじめは常に行われていたけれど、ちゃんと踏みつける価値のある子達ばかりが選ばれていた。成績上位の井本さん、先輩に告白された米田さん、男バスの佐々木君としょっちゅう喋っている女バスの阿部さん、それに西田さん。みんな順繰りに頭を踏みつけられ、何かを教え込まれていく。それがなんなのかはきっと誰にも説明できなくて、あの頃、クラスの真ん中で微笑みながら踏みつける感触を飽きることなく楽しんでいたあの子たちにもわからないはずだ。  でも、私はそんな輪からも外れていた。 「食べ終わった?」  お昼ご飯をともにすることになった彼女たちは、わたしが最後の一口を食べ終わるまでいつもゆるい笑顔を浮かべながら待っていてくれる。その言葉に頷くと同時に、2人は席を立ち、はじけるような笑いを廊下に響かせてどこかに去っていく。仕方がない。彼女たちに課せられた任務は「わたしとお昼を一緒にすること」だけ。友達になる必要はないのだ。食事中、わたしはずっと話している。わたし自身と。ほらほら、何か気の利いたことを言わないと、いやいや、あぶれ者はそんな図々しいことをしてはダメ、自分と会話をし、誰に指示されるまでもなく自ら自尊心を削っていく。自分と話すのに忙しくて、外側のわたしはうつむき加減の視線を保ったまま、ぼんやりとした笑顔を口元に浮かべ、ただひたすら食物を口に運ぶことになる。  雪村くんが私に声をかけてくれたとき、私はこの世で一番無害な生き物に成り果てていた。 「さつきちゃん、それホームズ?」  中学入学以来、初めての会話らしい声かけだった。言葉を発さないでいることにすっかり慣れていたので、話しかけられたことだけで動揺する。さらに声をかけてきたのが男子で、なぜかファーストネームで呼びかけられたのは驚愕。 「それ図書室の本なんだぁ。ふぅーん、僕も借りてみようかなぁ」  のんびりとした口調でうなずく彼は、5月の日差しの中で妙に輝いて見えた。まっすぐな黒い髪は羨ましいくらいにさらりと揺れ、長い睫毛がゆっくりとまばたき、わたしの持つ図書室の古びた本を特別なもののように見つめていた。今まで意識したこともなかった体の奥の方で何かがキュッと縮まったような気がした。うごめいたエネルギーがわたしの体にめぐり、目の前の彼に何かしてあげたくて仕方なくなった。 「よ、読みます?」  できる唯一のことは本を差し出すことだけだったけど。 「うん、さつきちゃんの次に借りるよ!」  ひらひらと手を降る雪村くんの指先はすっと長くて何でも掴めそうだなと思った。その日1日、ずっと「さつきちゃん」という呼びかけが耳の中に残り、揺れる白い指先は目の奥でいつまでも消えなかった。  雪村くんはクラスの女子を下の名前で呼ぶ。親しい女の子たちだけの特権かと思っていたのに、まさかわたしにも平等に接してくれるとは思わなかった。女の子みたいに可愛らしい風貌で、ちょっと変わっているけれど頭がいいし、人当たりもいいからクラスの中の良いポジションを占めていた。わたしは早々にホームズを図書室に返却し、そのことを雪村くんに伝えたかった。けれど、わたしなんかが軽々と声をかけていい存在じゃない。すっかり無害で卑屈な生き物になっていたわたしはそれから毎日図書室に行き、誰かが近づいてきたら慌ててその本が借りられないように隠し、いつまでも貸し出されないままのホームズをただ眺めていた。  本の番人のように図書室で過ごす時間が長くなった頃、何度かクラスの女の子とすれ違った。クラスの中で最も可愛い2人組の1人。西田さん。肩にちょうどつく長さの黒髪はさらさらで、大きな瞳は自然と柔らかな微笑を浮かべている。こんな女の子に生まれていたら絶対幸せだよなぁ、と憧れてしまうそんな子。  2回目にすれ違った時、彼女は奇特にもわたしに声をかけてくれた。「いつも何の本読んでるの?」屈託のない明るい笑顔だった。ただ、その頃のわたしには西田さんはランクの違うロイヤルな人だった。声をかけられたからと言って安易に馴れ馴れしくしてはならないと自分に言い聞かせていた。へらへら笑ってやり過ごすわたしを不思議そうに見て西田さんは去って行った。  その後ろ姿を見送りつつ、今日はちゃんと人と会話したな、と思うわたしは、すでにまっとうな友達作りを放棄していた。でも、西田さんはそんなわたしを見かけるたびに、手を振ってくれた。いつも誰かと一緒に笑いあっていて、なんだか太陽みたいだなと思っていた。眩しすぎてわたしは近寄れない。  そんな西田さんが女子の頂点から蹴りおとされたのは1学期が終わる直前。順繰りに行われていく、価値あるものへの罰則だ。気にかける必要もないはずだったのに1人でいるには時期がまずかった。夏休み中の自由研究班決めとかぶったのだ。うっかりあぶれて担任が慌てて救いの手を差し出すようなことになれば、それは致命傷になる。  女子から相手にされなくなった西田さんが選んだのは、 「宮野さん、一緒に自由研究やらない?」  まさかのわたしだった。  あまりのことに驚いて、ただこくこくと頷いてみせたわたしに西田さんは溌剌と微笑んだ。 「よかったぁ」  今まで通りにちっとも翳りのない笑顔。その向こうで、かすかにクラスの空気が動いたのは、わたしも気づいていた。けれど、自分に向けられた眩しい笑顔に対処するので精一杯だった。  残りの班員は男子2人。そこに雪村くんもいた。 「海の不思議、なんてどう?」  雪村くんは器用にシャーペンを指先で回しながら首を傾げた。サラサラの黒髪が陽に透けて輝く。金山くんは西田さんのお母さんが出してくれたクッキーを休むことなく口に放り込みながら、 「いいじゃん。誰が一番日焼けしたか競うことにして海水浴しまくろうぜ」  そうはしゃぐ金山くんは、すでにすっかりいい色に焼けている。すっきりとした短髪と涼しい感じの目元は、いかにも運動ができそう。野球のユニフォームを着て廊下を走っていく姿はよく見ていた。もちろん、一学期を通じて一度も話したことなんてない。西田さん、雪村くんと同じくわたしなどが軽く挨拶を交わしていい相手じゃない。 「そんなの全然不思議じゃないし。あと、金山、食べ過ぎ! ほら、さつきも食べてね」  わたしなんぞがこんなところに居ていいのか、という思いを捨てきれず、できるだけ存在感を消していたのに、西田さんはわざわざクッキーのお皿を差し出してくれた。鮮やかな青い陶器のお皿に盛られたクッキーは手作りで、親しい人だけが受け取ることを許される素朴な見た目をしていた。クラスの女の子たちが休憩中によくこんなクッキーやケーキを回しあっていたけれど、わたしに届く前に消えてなくなっていた。そもそも誰からも差し出されたことがない。初めてのことに差し出されたものとの距離を測りかねてしまった。遠慮すべきなのか受け取るべきなのか。 「あ、嫌いだった?」  西田さんがお皿を戻そうとする。傷つけた! そう瞬時に感じ取って、慌てて手を伸ばすと、彼女はホッとしたように微笑んだ。 「今度、さつきの好きなお菓子教えてよ。わたし得意なんだよ」  歯切れの良い自信溢れる口調でそう言って、西野さんは胸を張った。 「うっわぁ〜。押し付けがましくね? まずいならまずいって言えよ? 俺が食べてやるから」  金山くんが冗談めかしてそう言った瞬間に、西田さんは「うるさい!」と机にあった布巾を投げつける。顔面命中。 「きったねぇー!」 「あんたの顔よりは汚くない!」 「もう、2人ともうるさいなぁ、ねぇ?」  うるさいと言いながら、はじけるように雪村くんは笑い、さらに同意を求めるようにわたしに顔を向けた。雪村という名にふさわしい色白の肌は内側から光っているように見えるくらい綺麗で柔らかそうだった。柔和な彼のその顔を見ているだけで、自分の顔面の筋肉の力が抜けて、するりと笑顔が引き出されるのがわかった。誰かに媚びるためじゃなくて自分のために笑っている。すごく久しぶりの感覚だった。そう思ったら体の奥で何かが自制心が効かないくらいに膨らんでお腹がよじれ、こらえきれない空気が口から漏れ出した。 「へぇ、声出して笑うんだ」  金山くんがぼそりと呟いた途端、西田さんはもう一度布巾を投げつけた。そして、ぐいっ、と強い力でわたしを引き寄せて頬を寄せるようにして微笑んだ。 「わたしの親友、いじめないでよね」  つかまれた腕に彼女の手の感触がありありと伝わってきた。ひんやりと冷たくて、守ってあげたくなるような細い指の一本一本がぎゅっとわたしの腕に食い込む。痛い。そう思ったけれど、わたしの言葉を求める人はいないとわかっていたからいつもの顔で微笑みながら頷いた。  夏休みに友達の家に行く。  小学校までは当たり前だったそんな毎日がわたしに戻ってくるなんて微塵も期待していなかった。中学入学からの4ヶ月。12年生きてきた人生にしてはそこそこの分量にあたる時間を、自尊心を削るためだけに当ててきた。それが長いのか短いのかわからないけれど、日常のちょっとした喜びのレベルをうんと下げて、学校で誰かが挨拶してくれたら極上だと思うようになるには十分な時間だった。それなのに。親友。西田さんは確かにそう言った。その言葉はくらりとする高揚感と何かに隷属していく息苦しさを同時に喚起させた。  夏休みの自由研究のテーマをみんなで考えようよ。終業式の日に西田さんがそう提案し、わたしたちは湘南にある西田さんの高級そうなマンションに招かれた。華やかで優しそうなお母さんが出迎えてくれ、人懐っこい真っ白なテリアが西田さんのベットの上で丸くなっている。やっぱり女子の頂点を極めた子は違う。雪村くんと金山くんはここを訪れるのは初めてではないようで、慣れた感じでくつろいでいた。 「僕たち同じ塾に通っていたんだ」  その当時から3人は付き合いがあったらしい。塾のなんとかという先生の噂話や、塾のなんとかという受付の女の人のモノマネに3人は笑いあう。ほとんどしなかった自由研究の話は、最後に雪村くんがサラサラとまとめてくれた。  駅まで送ってくれた西田さんに手を振って別れる頃には、うっすら夕暮れが始まっていて、特別な時間が終わっていく寂しさを感じた。  あの頃、夕日は好きじゃなかった。何も起きなかった1日の終わりを無慈悲に伝えにくるただのサイン。でも、この日は何も起きなかったどころじゃない。クラスメートの家に招かれ、親友と呼ばれる。ビックイベントだ。なのに、みんなと別れて電車の窓から見える徐々に深まる夕焼けを1人眺めることに、妙にホッとしたような気分になっている自分に気づき、どことなく悲しい気持ちになった。  2回目の集まりはわたしの家だった。「さつきの家に行ってみたい」という西田さんの一言で決まった。 友達を呼んでいいかと聞いた時はしぶしぶだったお母さんも、誰が見ても可愛い西田さんと礼儀正しい雪村くんに感服して、愛想を振りまきながら「さつきをよろしくね、どうぞごゆっくり」とお菓子とお茶を出しに来た。顔から火が出るというのはこういうことを言うのだと思い知らされた。何もかも西田さんの家とは違う。妙なTシャツを着たままのお母さんも、シールを集めて手に入れたグラスの麦茶も、袋のままの市販のお菓子も。みんなが帰るまで隠れていたいくらいだった。申し訳ないと思う一方で、もしみんなが「こんな場所いたくない」と、お茶もお菓子もひっくり返して家を出て行ったらわたしはどうしたらいいのだろうと考えていた。一緒についていくべきなのか、それともわたしごと捨てられたことになるのだろうか。  問答のうずに飲み込まれつつあったわたしをすくい上げたのは、雪村くんの弾んだ声だった。 「あ! 僕、このお菓子好きなんだよねぇ」 「お前これほんと好きだよな、塾帰りによく食ってたな」 「しかも、この味新作だよ、やった」  自分というものをすり減らしていくのは、誰にも注目されない教室で生きるためにはすごく楽だった。  でも、今は。 「わたしも……。わたしも好きなんだ」  久しぶりに、自分の声でしゃべった気がした。 「テーマは海の不思議。海の水と川の水では何が違うのか調べてみようと思った。研究内容、海と川の水を汲んでリトマス紙の変化を観察する。顕微鏡で中に住んでいる微生物を観察する。予想結果、港、海岸、川の河口部、川の中流部ではリトマス紙変化及び微生物に変化が見られる」  雪村くんがすらすらと話す内容を、金山くんが書き留めていく。金山くんの字は思っていたよりもずっと綺麗で丁寧だった。書道の時間に見たお手本のような字が白いノートに並んでいく。西田さんは机に頬杖をつきながら金山くんが書いていく文字を丁寧に追っていた。 「金山、本当に字は綺麗だよねぇ」  彼女が目を細めてそう呟いたときだけ、金山くんの書く文字がほんの僅かだけ揺れた。西野さんの吐息を吹き込まれた文字が、金山くんの意思とは別に勝手に動いてしまったようだった。 「こんなものかなぁ?」  雪村くんは金山くんの書いてくれたまとめを見ると、残りの3人の意見を求めるように首をかしげた。「いいんじゃね?」金山くんの言葉に西田さんもうなずいたけど、雪村くんはまだ何かを探すようにゆっくりと視線を動かしていき、その視線はピタリとわたしの上で止まった。 「さつきちゃん、なんかアイディアない?」  雪村くんの考えに過不足があるはずもない、という意味を込めて首をふろうとした。だけど、わたしをじっと見る瞳は本当に何かを期待しているように大きく開かれていた。瞳の黒い部分は水晶のように光って見えて、揺れ動く影すら綺麗だった。そして、そこに映る影はわたしなのだと気づいたら、淡く光出すようなその瞳の一部になれた喜びのようなものが湧いてきて、脳細胞全域に、彼の役に立つ情報を差し出すのだと必死の命令を下した。 「……満月」 「満月?」 「うん。あの、満月の日って、海の満ち引きが大きくなるって聞いたことがあるんだけど、それって、河口とかの塩の濃度にも影響があるんじゃないのかな? だから、満月とそうでない日の結果を照らし合わせてみるのもいいんじゃないかなって思って。あ、あの、もちろん、あの、単なる思いつきだから、気にしなくてもいいし……」  こんなに長いことしゃべったのは久しぶりで喉カラカラ。みんなの反応が怖くて一気に口にしてしまった。恥ずかしさしか残っていない。わたしの腕から西田さんの手がするりとはずれる。呆れられた。そう思った。でも、小さく息を飲んだ彼女の口から洩れたのは、予想とはぜんぜん違うものだった。 「すごぉい!」 「海と月かぁ。いいじゃん、宮野、面白いこと考えんな」 「決まりだね! さつきちゃんに聞いてよかったよ」  その瞬間は人生の嬉しかったランキング上位に今も残ってる。  テーマとこれからのスケジュールを決めたあと、金山くんは早速川に行こうと言い出した。うちに来る途中の駅から大きな川が見えたという。多摩川だろう。 「おっしゃ決まり。なぁー、早く川行こうぜ、川、川、川」  金山くんが膝を立てて腰を浮かす。 「遊ぶんじゃなくてさぁ、自由研究の材料集めるってこと忘れるなよ?」 「わぁってる」 「ヤダァ、暑い。今行ったら」 「水に入れば涼しいって」  金山くんは、しぶしぶ立ち上がった西田さんの腕を引っ張りながら真っ先に部屋を飛び出した。雪村くんはテーブルの上に散らかったお菓子のゴミを丁寧に集め、麦茶をごくっと飲み干してから「ごちそうさま」と微笑んだ。雪村くんが出て行ったあと、わたしは彼が使っていたグラスをふりかえった。汗をかいたグラスとそこから溢れた雫が夏の日差しを跳ね返し、わたしの頬を照らした。夏の光がこんなにきれいだなんて知らなかった。
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