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 夏休みが明けて学校が始まるとわたしの生活はだいぶ変化した。  てっきり、西田さんは夏休み明けには元のグループに戻ると思っていた。クラスの女の子たち、西田さんと仲がよかった白石さんたちもそのつもりだったはずだ。初日の朝、白石さんが朗らかに西田さんに声をかけ、西田さんも何もなかったかのように笑顔で話していた。  わたしも自分の立ち位置を理解し、ちゃんと一人で席に着いた。  なのに。 「さつきー、トイレ行こうよ」  休み時間になると西田さんが軽やかに駆け寄ってきてぴったりとわたしに寄り添う。ほんの少しわたしより背が低い彼女からはふんわりと柔らかな気配がして、きちんと梳かされた髪がさらりと揺れる。雪村くんと同じツヤ。西田さんの髪を見るといつもそう思った。わたしのうねうね癖のある髪とは全然違う生き物みたいだった。 「わたし、職員室行かなきゃいけないから、西田さん、先に行ってて、」 「えり!!」  思わず自分の襟元に手をやったわたしに気付くそぶりを見せずに西田さんは続ける。 「えり、って呼んでって言ったじゃん」  えり、絵理、西田絵理。 「あ、ごめん。えっと、絵理ちゃん」  ちゃん付けにも不満がありそうに西田さんは少し顔をしかめたけれど、にっこりと微笑んでわたしの肩に頭を寄せた。 「いいよ。わたしも一緒に職員室行くよ」  甘い彼女の髪の香りをかぎながら、半分引きずられるように歩き出す。教室を出るときに、白石さんのグループの子たちとすれ違った。楽しそうにしていたのに、すれ違いの瞬間だけ、彼女たちはふいに押し黙った。一方、西田さんは廊下にいるみんなに聞こえるんじゃないかくらい大きな声で楽しげに喋り続けていた。  春には少しも感じることができなかった季節は、今はわたしを巻き込んで動き続けていく。そして、夏休み明けの歩くだけで汗ばんでいた季節から、徐々に風が涼やかな季節へと変わりつつあった。窓から入り込んだ風が校庭の活気を運び、わたしたちの髪を揺らして廊下に抜けていく。大きく揺れるカーテンをまぶしそうな目で眺めていた雪村くんがふと顔を私に向ける。予想もしていなかったタイミングで目が合ってしまい、心臓がバウンドする。 「さつきちゃん、もうおわった?」  雪村くんは私の前に広がる模造紙に目を落として顔をほころばせた。 「すごく綺麗だ」  ただ私の作業を褒めただけでそれ以上の意味を持っていないってわかっているのに、頬が勝手に熱くなる。 「お前さぁ、」  金山くんの呆れたような声が斜め前から聞こえる。 「よーく、そんなこと照れずに言えるよなぁ。はずいわ」 「なんでだよ、さつきちゃんがこんなに綺麗にまとめてくれたんだよ?」  雪村くんの反応に、金山くんは大げさなくらい肩をすくめてわたしに苦笑して見せた。 「宮野もなんか言ってやれよ」 「……え? えっと、確かにちょっと、恥ずかしい……、かも」 「え? 嘘? さつきちゃんは金山の味方なの?」 「あの、別に、味方とかは関係なくて」 「味方味方! 宮野は俺の味方だって」  金山くんは野球部の練習でよく焼けた腕を大きく広げて、わたしの周りを丸く包むようにしながらさわやかに笑った。「エェ〜」と情けない声を出してみせる雪村くんの腕は夏休み前とほとんど変わらず白いまま。だけどほんのりと汗で湿った前髪が張り付いたおでこからは甘いような匂いが漂っていた。通り過ぎて行った夏の匂いだ。  わたしたちの班が提出した自由研究「海の不思議」はクラス代表作品に選ばれ、文化祭で展示されることになった。展示物を指定の模造紙に書き直すため、ここ数日は4人で放課後に集まっていた。  今日は初めて3人で過ごしていた。  日直の西田さんが、 「ごめん、数学の課題を集めてから行くから3人で先行ってて」  と朗らかに手を振ったとき、久しぶりに体が硬直した。西田さんがいない中で、わたしなんかが金山くんと雪村くんについて歩いてもいいのだろうか? できるだけ二人の邪魔にはならないよう片隅にいよう。数歩遅れて歩き出したわたしを、雪村くんが途中で振り返った。 「金山! 歩くの早いよ」 「あ! 悪い」  プリントを出しに職員室に行っている西田さんがいなくても、雪村くんも金山くんも、わたしのことをちゃんと見て話しかけてくれた。そう気づいた時は思いの外強い感情がせり上がってきて涙が出そうになった。 「あ、おーい! 西ダァー」  大きな声をあげて金山くんが窓から大きく手を振る。渡り廊下を小走りで横切っていた女の子がこちらを見上げた。窓に張り付いて手を振り続ける金山くんを見ながら、 「よく見えるね」  思わずつぶやいてしまった。金山くんには聞こえなかったようだけど、雪村くんはそれを聞いておかしそうにくすりと笑った。 「そりゃ金山はね」  わかるでしょ、と言いたげに顎で金山くんを指ししめす。驚きはなかった。ただ、そういう雪村くんの目元はなんだか寂しそうに見えて、どうしても聞いてみたい質問が頭に浮かんだけど、誰にも気づかれないうちに慌てて飲み込んだ。知ったら何かがきっと変わってしまう。 「宮野さん、一緒にお昼食べない?」  感じのいい微笑みを浮かべ白石さんが声をかけてきたとき、西田さんはトイレに行っていなかった。秘訣を知りたくなるほどきれいな蝶結びで仕上げられたお弁当袋がお似合いだ。驚きつつ、きっと西田さんと話したいのだろうと思ってうなずくと、見惚れちゃう笑顔で「ヨカッタァ」と囁いた。それが合図だった。白石グループの女の子たちがわらわらと、「食べよう食べよう」「私たちも宮野さんと話たかったんだぁ」と口々に言いながらするりと私の机を彼女たちの島に引き寄せた。  白石さんは笑顔でわたしを優しく引き寄せる。あぁ、これは。わざわざわたしを招こうとしている意図を理解したとたん、胸がどくどくと激しくうごめいた。 「宮野さん、いっつも西田さんと一緒でしょ? 宮野さんとお話ししたいなぁって思って近づくと、西田さん、すっごい顔で睨むんだもん」  困るよねぇ、白石さんが両眉を下げる。教室内がわたしと白石さんを意識しているのがよくわかった。無関心の裏に好奇心を透けさせて、目の前で進むかもしれない物事の着地地点を見物しようとしていた。金山くんも雪村くんも教室にいない。いつの間にか西田さんの机だけポツンと浮き上がっていた。誰でも感じ取れる鮮やかな境界線が引かれている。 「ほーんと、宮野さんのこと自分の持ち物だと勘違いしてるんだよ」  白石グループの誰かが高い声でそういった時。ガラリ。教室の扉が開き、西田さんが戻ってきた。わたしに向けて笑顔を浮かべかけたその顔が一瞬で固まる。その表情のまま、西田さんはすっと教室を通り抜けて自分の席に座った。わけのわからない緊張感が教室に満ちていた。 「はい、ここ。宮野さんも座って座って」  ひどいことなんて何も起きていないというきれいな表情を浮かべたまま白石さんがお弁当を開く。他の子達もわらわらと賑やかにお弁当を食べだした。腕を引かれた勢いのまま示された椅子に腰掛ける。お弁当を開き、そっと振り返った。誰かがささやく声がした。「西田、泣くんじゃね?」わたしもそう思った。西田さんはきっとしくしく泣きだすだろうと。でも違った。彼女はまっすぐに前を向いたまま、1人でお弁当を食べ始めていた。見たことがないくらい毅然とした表情をしていた。 「ご、ごめん、わたし、」  立ち上がったわたしを白石さんは柔らかな微笑みを浮かべながら不思議そうに見返した。 「や、やっぱり、あっち。あっちで食べるね。ごめんね。ごめんね。ありがとう」  彼女たちの顔を見ることもできずに下を向いたままズルズルと自分の机を引っ張って、西田さんの前に置いた。彼女はなんてことない顔をしながら、「さつき遅いから先食べちゃったよぉ」といつも通りに笑って見せた。その声により教室の中に漂っていた高揚感はぷつりとはじけ、その場にいた全員が口裏を合わせたかのようにいつもの昼休みに見事に切り替わった。  帰りの電車でわたしの手を握りながら西田さんはずっと泣いていた。
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