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西田さんがよく電話をかけてくるようになった。
話す内容は分担した自由研究のレポートをきっかけにしていたけど、すぐに今好きなアイドルの話やドラマの話に移っていく。
「さつきは? 誰が好き?」
いつも問いかけてくれたけど、わたしはなんて答えれば彼女を満足させることができるのか悩んだ。どちらかというとドラマよりも従兄弟に借りた錬金術をテーマにした漫画に夢中になっていた。でもそんなことを言えるわけがない。せめてマーガレットなんかのオシャレ系じゃないと。だから、偶然、本屋で高校生が騒いでるのを見て覚えていた俳優とドラマタイトルを言ってみた。
「わたしもーー!!」
大当たりだった。
「今度、うちでお泊まり会して一緒に見ようよ!」
西田さんとわたしはあの夏にたくさんの約束を交わした。そのほとんどはかなうことがなかったし、本当にやりたいなと思ったことはあまりなかった。趣味も性格も違いすぎたのだ。でも、「お泊まり会」は特別な約束に思えた。
「10月末に最終回だからその夜、あけといてね。絶対ね」
9月3週目の電話も初めはそんな風に特に重要な用件もなく始まった。
「でね、来週よかったら一緒にキャンプに行かない? 文化祭の振替で連休じゃん」
と、急に誘われた。
「え? キャンプ?」
いきなりの誘いに戸惑って口ごもったわたしを安心させるかのように、
「そう。金山と雪村と。あ、今、ママが電話かわるから、さつきのママ呼んでくれる?」
キッチンで食器を洗っていたお母さんは「何よ?」と不機嫌そうな声を出したけど、通話中のままであることを伝えると、急に別人のように晴れやかな声で電話に出た。
「はいもしもしー?」
「夜分に申し訳ありません、西田絵理の、いつもさつきちゃんにはお世話になっています」
「いえいえ、こちらこそー」
お母さんはそこまで話すとちらりとわたしに顔を向け、あっちに行ってなさいというように手を振った。仕方ないからリビングで待つことにした。
「さつき、人気者だなぁ」
ほろ酔いのお父さんがにんまりと笑う。
「そんなことないよ」
お酒を飲んだお父さんは話が長い。あんまり構わないようにしながらソファーに座ってテレビのチャンネルをまわす。
「謙遜謙遜〜。お父さん知ってるゾォー、この前、ほら『父親の会』に行ってちゃーんと話聞いてきたからなぁ」
そういえばそんな会合に行くと言っていた。土日の夜は西田さんの電話があったから、お父さんとその話をする間もなく過ぎていた。
「……なにを?」
息ができなくなるくらいの苦しさが胸の奥でずきりと跳ねた。リモコンをいじっていた親指が震えそうになって、押しとどめるのに必死だったからチャンネルは全然面白くなさそうなバラエティ番組に止まったままだった。
「さつきのこと褒めてたぞ。うーんとなぁ。名前は確か、ゆ、ゆ、ゆき……」
「雪村くん?」
「オォ〜、そうそう。雪村さん。息子さんがお前と同じクラスなんだろ?」
うるさいだけのバラエティ番組に目を向けたまま、わたしはこくりとうなずいた。肩の力をできるだけ抜くために、ソファに寄りかかる。何を? 何を聞いて、何をしゃべったの? 雪村くんのお父さんと。そう聞きたかったけど、口を開いたら声が震えてしまいそうだった。でも、お父さんはわたしの変化になんて微塵も気づくことなく、上機嫌で話し続ける。
「言ってたゾォ。お父さんが名乗ったら、向こうはお前のこと知ってて、」
テレビの向こうから白々しい笑いが響いた。誰かを馬鹿にして笑っている。
「お前が、仲間にうまく入れなかった子をちゃんと受け入れてあげているって」
馬鹿みたいな嬌声がテレビから飛び出してくる。芸人さんが何かに閉じ込められて必死な顔をして叫んでいるのを周りのみんなはお腹を抱えて笑っている。
「お風呂はいってくる」
「照れるな照れるな」
お父さんを無視してリビングを出るとき、お母さんの楽しそうな声が聞こえた。どうせその笑顔も嘘なくせに。そう大声で怒鳴りたくなった。胸の奥からこみ上げてくるものが溢れ切る前にお風呂に飛び込みシャワーを勢い良く流した。お湯に顔を沈めるようにしてようやく口の中から飛び出してこようとするものを解放した。
お父さんは間違えている。いや、多分、雪村くんのお父さんがそもそも勘違いしていたのか、気を利かして嘘の話をした。雪村くんたち3人の顔が浮かぶ。みんな満足げに笑ってる。
「かわいそうな宮野を仲間にしてやろう」真実はこっちだ。少し前までのわたしだったらどれだけ喜んだだろうか。こんなわたしを仲間として招いてくれるなんて、と喜んでついて行っただろう。この世で一番無害で卑屈で弱かった自分をはじめて懐かしく思い返し、同時に哀れんだ。
「さつきー!」
集合場所の駅までお父さんに送ってもらって車から降りたら、みんなもう来ていた。飛び上がるようにしてこっちに手を振る西田さんを見てお父さんは目を細め、集まっていた両親の輪にすんなりとけ込んで金山くんのお父さんが運転するバンが出発するまで見送ってくれた。バックミラー越しに遠ざかっていくお父さんを見て、なんだか知っていた世界が消えていくような心細さを感じた。
「なぁ、山が見えても、山だぁ、って言っちゃいけないゲームしようぜ」
「遅くない? もう山でしょ」
「もっと凄いやつくるんだよ」
「あ! 湖だ!」
「え、どこどこ?」
後ろの座席に座る金山くんと雪村くんの会話に耳だけ傾け、ぐんぐんと迫ってくる景色をずっと眺めていた。乗り物酔いがあるという西田さんは車に乗ってから急に大人しくなって、ほとんど眠ったままだった。
「あぁ、いい風」
助手席に座る金山くんのお母さんが、少しだけ窓を下げ、心地よさそうに前髪を風になびかせながらわたしを振り向いた。
「寒くない?」
「大丈夫です」
素直にそう思う。空気が街とは全然違う。フレッシュだった。その風に乗って、今まであまり聞こえなかったラジオの音楽が届いた。少し懐かしい感じのする音楽だった。
「わたし、この曲好き」
眠っていると思っていた西田さんがそう言った。
「古い曲知ってるねぇ」
金山くんのお父さんが感心したように言ってバックミラー越しに西田さんに微笑む。
「パパとママが好きで、わたしもよく聞くんです」
ちょっとかすれた声の女の人が歌う雪の季節のラブソングだった。真っ白な雪原の中にポツンと立っていても、この曲を思い出したら孤独じゃないと信じられそうな綺麗で優しい曲だった。西田さんのささやくような歌声が風と一緒に林の中に流れていった。
キャンプ場でひとしきり川遊びを楽しんで夕食の準備を始めると、
「うっわぁ〜、お前不器用だなぁ。宮野を見習えよ」
金山くんは西田さんの手つきを眺めてずっと茶々を入れている。冷静に見れば、わたしよりずっと西田さんの方が綺麗に切っているのがわかるのに、金山くんには事実はどうでもいいのだ。
「うるさいなぁ! 早く、ジャガイモ洗ってきて」
「へぇーい」
金山くんがわざとらしく面倒臭そうなフリしてボールを持って立ち上がった時、近くにいた同じ年くらいの男の子の集団がやっぱり、というように「金山—!」と手を振って近づいてきた。
「せ、せんぱい!!」
金山くんは見たことないくらい背筋を伸ばしてピシッと伸ばしてから、ぺこりと頭を下げた。
「おつかされまぁっす」
どうやら部活の先輩たちらしい。
「お疲れってなんだよ、気にすんな。いーなぁ、女子連れじゃん。彼女? 彼女?」
先輩たちは物怖じすることなくわたしと西田さんの顔をのぞき込む。西田さんはチラっとわたしに視線を投げ、先輩たちに気付かれないくらい素早く顔をしかめてみせると、すぐに普段の表情に戻って黙々と包丁を動かし始めた。わたしも西田さんに習って作業を続けるフリして目の横ではずっと金山くんたちを観察し続けていた。
「いやぁ、別に、そういうんじゃぁなくてぇ」
にへらへらした笑いを浮かべながら金山くんは肩をすくめ、うなずいてるんだかよく分からない深さで頭を下げ続ける。運動部って大変だ。「かわいいこいるじゃん」1人がささやく。ささやくフリしながらあからさまにわたしと西田さんに聞かせようとしている。もう1人がポケットから何か小さなものを取り出して、手で覆うようにして金山くんに見せた。
「お前これ持ってるか?」
「?」
初めはキョトンとしていた金山くんに、先輩が次の言葉を吹き込んだ。
「女とイイことするための道具だよ」
つい手を止めて顔を上げた私の眼の前で金山くんの顔はみるみる真っ赤になっていった。先輩たちが爆発的に笑い出す。金山くんの肩をバンバンと叩きながら、口々に勝手なことを言い出す。
「まぁ、頑張れって」
「お前が女に興味持ってて安心したよ」
「そうだよ。お前、ほら、あのオトコ女に狙われてそうだったから」
「あぁ、あの色白のやつなぁ。カナ山ぁー、っていーっつも部活帰りに手を振ってくるやつ」
金山くんがあいまいな表情のまま、先輩たちを見返し、気まずそうにわたしと西田さんに目をやり、そのまますっと目線を後ろに流して表情を強張らせた。
「金山ぁー! こっち手伝ってよぉ」
雪村くんの声が届いた途端、金山くんを囲っていた先輩たちは一瞬息を止めたような表情で動きを止め、次の瞬間にドッと笑い出した。うそだろ、マジで、両刀? 人を傷つけることを目的にした笑いだった。
どうしてわたしたちは、人生でとても大事なことを他人の言葉に流されるまま手放してしまうのだろうか。小説の中には芯を持って人を変えていく少年少女が溢れているけど、わたしたちの中にはそんな硬さのあるものは、まだどこにも生まれていなかった。
その夜、わたしたちは今まさにサナギから蝉になろうとしている羽化を息を殺してみた。普段の蝉の姿からは想像もできない幽玄で神秘的なものがまさに生まれようとしていた。月明かりの深夜、金山くんのおじさんが照らす小さなライトの下、空にはばたく翼を手に入れようとする眩しすぎる生命力の前で、わたしたち4人の心を1つにした最後の時間が終わろうとしていた。
「真っ白だね」
出てきたばかりの柔らかな蝉から目を離さずに西田さんは吐息のような声で囁いた。雪村くんも「うん」と西田さんに微笑んだ。2人の間に目には見えない糸のようなものが流れあっているようだった。胸の奥がカラカラに乾いてじっとしていられないような気分になった。わたしの向かい、西田さんの隣にいた金山くんが短く息を吸い込んで、切れ切れに息をゆっくりと吐き出した。彼の頬が奇妙に歪む。
「ほーんと、真っ白。雪村みたいだなぁー、」
言葉を切った金山くんは、ゴクリと大きな音を立てて唾を飲み込んでから続けた。
「気持ち悪っ」
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