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 季節は驚くほど早く通り過ぎていく。  あまりに早くてわたしたちは追いつけなくて、目に付いたものに必死でしがみつこうとして、あっという間になんだかよくわからないものに飲み込まれてしまう。一度飲み込まれてしまったら、何かを押し出すのも抜け出るのもとても困難で、大抵はその重たさに耐え徐々に慣れていくのを待つ。  勢いをつけて無理やり押しのけたら、誰かがきっと傷を負うことになる。だけど、その時に覚えた奇妙な爽快感がその感覚をどんどん麻痺させていく。  金山くんと雪村くんが一緒にいるのを見ることがなくなったのはそれからすぐだった。雪村くんは休み時間も席でぼんやりとして過ごすことが増え、そんな彼を嘲るような笑い声が教室の後ろから時々聞こえるようになっていた。その中心にはいつも金山くんが座っていた。  教室の空気はそれほど変わったわけじゃない。みんなが雪村くんの脇を通り過ぎる時に、さりげなく目を伏せるようになっただけ。この先もこういうことはいつだって起こり得るんだと、それぞれの心に言い聞かせているようだった。  たった一つだけ変わったことがある。  わたしにべったりだった西田さんなのに、雪村くんの席に行って戻ってこないことが増えてきた。まぜて! そう軽やかに笑いたかった。でも無害で卑屈で気弱なわたしは2人が声をかけてくれるのをただただ期待して無為な時間が流れていくのを感じていた。西田さんの朗らかな笑い声を聞きながら、わたしの時間だけが擦り切れていく。 「西田さんって勝手でしょ?」  体育の着替え中に白石さんが話しかけてきた。着替えは自席で行うことになっていたから、西田さんの席は私から遠い窓際だった。隣の席の子と楽しげに何かを話している彼女はわたしのことなんて見えていない。白石さんはわたしの視線を追うように窓際の席を見てから、残念なものを見たというように眉をひそめるよ、「わかるよ」と声を出さずにささやいた。 「いこ!」  軽くわたしの手を引いて歩き出した白石さんに、何の躊躇もなくわたしの足は従った。クラスの中心の白石さんに逆らったりできるわけがない。誰のための言い訳だかわからない言葉を唱えながら白石さんのあとを追った。わたしが廊下に出るとき、窓際で誰かが振り返る気配がしたけれど、うしろ手で引いた扉はぴしゃりと強い音を立てて閉じた。廊下を抜けて昇降口に向かう途中、他の教室で着替えていた男子の一群に出会った。 「お、女子は今日なにすんの?」 「走り幅跳び。そっちは?」 「バスケ」 「体育館いいなぁ」  その中にいた金山くんがちらりとわたしを見たような気がしたけれど気のせいかもしれない。雪村くんがいないことに、ホッとした。どうしてだか、今だけは雪村くんに会いたくなかった。男子の集団と別れて靴をかえていると、誰かがくすりと押し殺した笑いをした。 「ついてきてるよぉ」 「走ろぉよ」  笑いに押し流されて、一斉に駆け出して、昇降口を抜けたところでふりむいた。 「ヤァだぁ、必死!」  こんなに面白いものは見たことがないというように弾けた笑いが向けられた先に西田さんがいた。急に走り出したわたしたちを追いかけようとしたのだろう。片方の靴は脱げて昇降口の簀の子の上に残され、バランスを崩した姿勢でこちらを見上げていた。  ふりむくその瞬間まで、西田さんはきっと1人でお弁当を食べだしたときみたいにまっすぐな目をして背筋を伸ばしているものだと思っていた。後でわたしの前でメソメソ泣いて見せるんでしょって。その一連の流れを想像し、つかまれた腕の重たさまで感じていた。  確かに彼女はまっすぐな目をしていた。  でも。  わたしの表情を捉えた途端、彼女の表情は一変した。呆然とした瞳で瞬きも忘れたようにわたしを見ていた。ぽっかりと開けた口は言葉を失ったままだった。  その瞬間に後悔した。彼女の瞳に写った自分の姿に嫌気がさした。  と、言いたいけれど、そんなの自分を守るためのでっちあげ。  白石さんに逆らうことが怖かったとか、わけのわからないまま巻き込まれたとか、いくらでもそれらしく正当化する理由を思いつくけど、そんなの全部嘘。わたしは彼女のその表情を見た瞬間の快感をしっかりと覚えている。  後悔するどころか、白石さんの思惑どおりにどれだけ効果的な役割をここで自分が果たせるのかわかっていた。周囲に広がる笑い声の中に、確かに自分の声も混じっていた。  ずっと笑顔は正しいものだと習ってきた。なのに、わたしたちは笑いの中に含まれる暴力的な要素をいかに昇華させればいいのか、教わることなく知っていた。標的に向けて球をぶつけることだけに夢中になり、その行為の結果なんて何も想像していなかった。  絶対聞きたくなかったあの声が聞こえるまでは。 「えりちゃん、行こう」  毅然とした声が笑いを切って捨てた。  西田さんの靴を拾い、優しく腕をつかんだ彼はわたしをちらりとも見なかった。お願い、このまま見えないで。反省なんてすることもなく、あの場でわたしが祈ったのは自分のことだけだった。  その日のホームルームで、担任は静かに言い放った。 「あなたたちに失望した」  声も上げずに泣く担任は、その理由を決して口にしなかったし、誰かを責めたり謝罪を強要することもなかった。先生が泣き出した直後は密やかに笑いあうクラスメートもいたけれど、いつの間にか空気は重苦しく、ピクリとも動きがないものに変わっていった。みんなはどれだけわかっていたのだろうか。その涙の意味を。  ほとんどのクラスメートは大人が泣き出すという不可解な状況に対応しきれずにただ困惑しただけだ。反省した風の空気を出すことに関しては、わたしたちは十分な団結力を持っていた。  閉め忘れた窓から吹き込んできた風にあおられてカーテンがはためいたとき、その音が怖いくらい大きく教室に響いた。あんなに強く揺れたらちぎれてしまわないだろうか。怖くて目をそらしたわたしのところまで秋の始まりの風は一気に届いた。
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