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プロローグ
思い出の曲ってなに?
そう尋ねられると10代に聞いたありとあらゆる音楽が競い合うように出てきて、これぞというものが思い浮かばないなと思っていた。それなりに楽しい日々を過ごしたあの時期、流行ったものはたくさんあって、どれにも同じように飛びついた。だから、青春の思い出の曲! なんていっぱいありすぎて一つを選ぶのは難しい。そう思っていた。
「懐かしいよねぇ」と言われれば、「懐かしい〜!」って一緒にはしゃげるけど、「これを聴くと、あの頃だってピタッと来るんだよ」なんて言う感じじゃない。思い出の曲はたくさんある。文化祭の後夜祭で踊った曲だとか、校内放送で流れていた曲だとか、とにかくカラオケで盛り上がった曲だとか。そういう曲につられ、カラオケルームの椅子に積んだお揃いのキーフォルダをつけた鞄だったり、ファーストフードのポテトの匂いとか、そういうどうってことない記憶がほのかな懐かしさとともに浮かんでくる。
そういう何気ない記憶っていいよね、と思っていた。
だけど本当に深いところに住んでいるものってそう簡単にはのぼってこないんだ。記憶を開けるのにはやっぱりちゃんとした鍵が必要だ。
私にとってその鍵は過去にたった一度だけ聞いた冬の歌だった。
同窓会の連絡をくれたのは、中学1年のときに同じクラスだった白石さんだった。社会人になって3年目、高校時代はずいぶん遠い過去に感じていた。でも、私が通っていた学校は中学高校と6年間一貫教育を売りにする私立校だったので、中学1年のほんのひと時を過ごしただけの白石さんともそれなりに共通の思い出が掘り出された。
あいにく同窓会の日は付き合いたての彼氏に誘われて人生初のスキーに挑戦する予定だったので参加は難しかったけど、
「久しぶりだねー」
「元気だった?」
から始まって、ちょっとお茶でもしようよということになった。
集まってみるとやはり6年間の思い出を共有している関係は強い。同級生やら先生の噂話は懐かしく、それなりに楽しい時間だった。
でも。
思っていたよりも長い時間を二人で過ごし、
「じゃあ、またね」
と別れる頃には、なんとなく次はないだろうなって感じていた。二人の間で話すべきことは、全部話してしまった感じだった。
手を振って歩き出そうとした私を引き止めるように、白石さんは言った。
「中学1年の頃の話、しなかったね」
渋谷駅の地下通路で、私たち二人だけが置き去りにされ、ぽっかりと浮かび上がっているような気がした。周囲のざわめきが一瞬遠ざかりかけ、あわててその音を捕まえるように私が顔を上げると、白石さんは昔と変わらない可愛さで微笑んだ。
「じゃあね」
記憶の深い深い奥に潜んでいた扉がうっすらと見えたのはその時だった。
中学1年。あの頃のことはぼんやりとしていてあまりよく覚えていない。教室のあった旧校舎の廊下。その色が深い群青色だったせいか、記憶の中のそこは、なぜかいつも冬のように薄暗い。
「俺も中学生の頃の記憶なんて残ってないよ」
そう彼氏が朗らかに笑ったとき、それまで大して好きじゃなかった脳天気そうな笑顔がいいものに思えた。
ほとんど初めての雪山に行って、たいした話をしないで笑っているだけで時間を過ごせるというのはありがたかった。白石さんに会ってから、できるだけ、自分の心の内側を覗き込まないようにしていた。その奥にいる何かのまなざしに気づいちゃいけない気がした。
下手なりになんとか上達してリフトに乗り込んだ。一人乗りのリフトはゆらゆらと不安定で、なんだか自分がものすごく儚いものになったような居心地悪さを感じていた。地上を遠ざかるにつれてぼんやりとした雪景色と自分自身との境界が薄まっていく。
緩やかに吹き付けてくる雪の中で一人空に浮かんでいると、場所と時間の感覚が薄れていった。
そして、ゲレンデのポップスがはるかな昔に聞いた曲にかわったとき、孤独に包まれた。
その曲は、決して有名なものじゃない。
私たちの世代でカラオケに歌ったりする子もいない。
だから、不意打ちだった。
白石さんと会ったあの日に開いてしまっていた方がよかったかもしれない。あ、そんなこともあったね、くらいの感想で二人で無理やり言葉を交わし合い、押し込むことができたはずだ。 だけど、真っ白な世界ではそうはいかなかった。たった一人で佇む白の中では対処のしようがなかった。
リフトから見える山頂はぼんやりで、どこに運ばれようとしているのかわからない。茫洋とした世界で唯一の確かさはスキー靴を履いた足の重みだけ。耳まで覆うように帽子を深くかぶったのに風の音はとても近い。聞きたくない声が聞こえてしまうと思った。
どうでもいいことを考えようとしたけどこんな時のためのストックは頭の片隅で丸くなって出てこない。1人しりとり? 悪くない。はじめは何にする? そこまで考えたときに鼻の奥まで飛び込んできた空気の冷たさにほんの一瞬目をつぶる。泣きそうになった。それだけで、記憶からするりと影が手を出してきた。記憶っていうのはしぶといな。灰色の空に向かってつぶやくと、
「ダメだよ。粉々に砕いてちゃんと海に捨てておかないと」
冷えた声が誰も座っていない隣からとうとう聞こえてしまった。
一つ大きく息を吐く。
あの秋の午後の理科室が脳裏をかすめる。
「さつきちゃんはさ、この世で一番、」
風の中から柔和な彼の声。いるはずのない彼の姿を捉えてしまうのが怖くて視線を動かせない。
びょう、と孤独を煽る冷たい風が頬を打つ。
風が私の中を通り抜けようとする。
懐かしい声が更にささやこうとする。
だめだ。これ以上聞いていては、全部とけてしまう。
「もう遅いよ」
慌てて耳を塞いだのに、わたしの一部は中学一年のあの日々に吹き飛ばされてしまった。
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